① ワクチンを4回も打ったし・・、
行動制限もないし・・、「ならば、思い切って!」。
家内の友達夫妻が、「北海道でゴルフを」と、
東京からやってくることになった。
彼らとは、パンデミック前の2019年秋に、
長野県の開田高原で、ラウンドして以来、
3年ぶりになる。
今回は、札幌にホテルを取り、3泊4日の予定で来道。
2日目と3日目がゴルフである。
とんでもない私の失敗は、その初日だった。
2人が、羽田空港からのフライトで、新千歳空港に着くのは、
午後4時過ぎだった。
私と家内も、札幌での4日間を同行するため、
ゴルフバックと一緒に宿泊の着替え等を持って、
空港への出迎えに行く時間になった。
車のトランクへその荷物を運ぼうと・・。
ところが、思いのほか旅行バックがパンパン。
その大きさに、「驚いた!」。
でも、家内が「必要だと詰めたのだから・・・」と、
私自身を納得させ、そのまま車へ積んだ。
なのに、違和感が残っていた。
加えて、久しぶりの再会とラウンドに、
気持ちが珍しく高揚していた。
だからだったと思う。
出発前の確認ルーティーンが、おろそかになった。
そのまま「よし!」、と車を発進させた。
北海道の高速道路は、大きな事故でもない限り、
渋滞や通行止めの心配はない。
強い雨は降り続いていたが、
順調に空港インター出口から一般道へと進んだ。
空港駐車場が迫った時だ。
ふと、いつも運転席横の肘かけに置いてある
セカンドバックが気になった。
ハンドルを握ったまま、左手でそのバッグを探った。
「ない!」
前方を見ながら、急ぎ記憶を追った。
自宅のいつもの場所から、セカンドバッグを手にした覚えがないのだ。
出発間際の確認をないがしろにしたことを悔やんだ。
「うかつにも・・! ヤッチまった!」。
セカンドバッグには、財布が入っていた。
現金の他に、運転免許証、キャッシュカード、保険証が・・。
免許証不携帯なんて、25歳で運転を始めてから、
初めてのことだった。
一瞬、不携帯でも、4日間を過ごせるかもと・・。
しかし、4日間のこの運転は、私一人だけではなかった。
「ないままではまずい」。
それに、ホテルでは『どうみん割』などで住所確認が、
求められることにもなっていた。
急きょ、家内を空港での出迎えに残し、私は自宅へトンボ帰り・・。
3人には札幌へ向かい、夕食などを済ませてもらうことに・・。
結局、私は、伊達から新千歳空港、そして、新千歳から伊達、
その後、セカンドバックを運転席の肘かけに置いて、
伊達から札幌市内のホテルまで、5時間ものドライブになってしまった。
誰に怒りをぶつけることもできない。
ただただ、「こんな時こそ事故なく、安全運転で!」。
強い雨、札幌が近づくにつれて増す交通量、迫る夕暮れ。
その中、冷静にハンドルを握り続けた。
忘れられない4日間の始まりになってしまった。
「ボケの始まり・・?」
「そんな訳ない!」
② 9月3日(土)、地元紙・室蘭民報の文芸欄に、
16本目の随筆が載った。
今回は、教育エッセイ「優しくなければ」のものを加筆した。
読んだ友人から「実話なんですよね」と念押しのメールが届いたが、
幼い体験を再現したものだ。
* * * * *
エ ス
近所のシゲちゃんとはよくケンカした。
シゲちゃんは、私に負けず劣らずきかん坊で、
小学校入学前から、道端の棒をひろってはそれを振り回し、
泣きながらやりあった。
勝負は、いつも仲裁が入って引き分け。
でも、私の気持ちは治まらなかった。
そこで、いつも愛犬『エス』に登場してもらった。
エスは、すでにかなりの高齢で、見かけは大型だが、
犬小屋の横でデレッと寝ていた。
そのエスに私はそっと「エス、シゲちゃん、かめ!」と命じた。
するとエスはのらりくらりと歩き出し、
シゲちゃんに近づいていく。
私は物かげからその後ろ姿を見る。
シゲちゃんはエスにまったく気づかず、私の胸は次第に高鳴った。
次の瞬間、エスはシゲちゃんのお尻をガブリと。
シゲちゃんは、火がついたように泣き、
エスはそれまでのエスとは見違える素早さで、
犬小屋にもぐり込む。
しばらくして、シゲちゃんのお母さんがやって来る。
「またお宅のエスがうちの子をかんだ。」とどなって帰っていく。
母は、床に頭をこすりつけて詫び、すぐに竹の棒を握って犬小屋へ。
「エス、出ておいで」。
エスは、その棒で一撃される。
『キャン』、痛そうに鳴くエス。
その声は、私の耳に残った。
でも、数日後、また同じことをエスに命じた。
小学校2年のある朝、
とうとうエスの体が、動かなくなった。
兄弟でなんとか犬小屋に入れ、学校へ行った。
その日、学校の時計がやけにおそく感じた。
放課後、走って家に戻り、犬小屋を開けた。
エスは、目を開けたまま冷たくなっていた。
中学生の兄と2人で、大きなりんごの木箱にエスを入れ、ふたをし、
自転車の荷台にくくりつけ、海まで運んだ。
防波堤の先端から、2人でその箱をほうり投げた。
真っ赤な大きな太陽が、ちょうど海に沈みかけていた。
水しぶきが一瞬、夕陽に輝いた。
兄は、手のこうで涙をふいた。
私は、そんな兄に何も言えず、
だまって自転車を引いて、後ろから歩いた。
初めての死別体験であった。
* * * * *
後日、こんな嬉しいメールが、息子から届いた。
『年間十数本の有名私立中学校模試を作る国語の先生が、
「エス」の文章を絶賛してくれたよ。
評論について専門的にやっていたこともある人で、
映像が浮かんでくる、こういう文はなかなか書けない、
だそうです。』
③ コロナで、地元自治会の活動も大きく制約を受けている。
そんな中、地域を5つに分割している私のブロック=Eブロックで、
『E焚き火の集い』を開催した。
私は昨年度より、そこのブロック長を務めている。
「コロナ禍でもできる活動はないか!」。
昨年も今年も役員事務局の5人で、話し合いを重ねてきた。
そして、この状況下でもできることを手探りした。
事務局には、私の息子よりも若い役員が2人いる。
自治会会館の横は、公園予定地の広場になっている。
2人は、かねてよりその広場を使って、
テントを張って家族でキャンプがしたいと、漏らしていた。
それが無理なら、
「キャンプでよくする焚き火だけでもできたらいいのに」とも・・。
飲食を伴わない催しの手探りは、そこから始まった。
まずは、アウトドア用の焚き火台を数台使い、
公園予定地で焚き火をすることが可能か、
土地を管理する市役所と消防署本部へ、問い合わせることから・・。
数日後、「自治会の行事なら」の条件で
許可できるだろうと回答があった。
そこから、自治会行事としての企画を本格的に練った。
そして、当日午後4時半、
その集いは私の挨拶から始まった。
参加者約40名、9つの焚き火台を用意し、
1台1台に、子ども達が火付け棒を擦って点火を試みた。
薪の火が大きくなるたびに、次々と歓声が上がった。
焚き火台の炎が9つ、静かに燃えさかる中、
プログラムは、電子ピアノの生演奏に進んだ。
地元出身のピアニストがこの企画に賛同してくれ、
コンサートが実現した。
4,5名ずつ焚き火を囲み、約1時間の音楽ライブに
聴き入った。
澄んだ秋空は、パチパチと燃える薪の音と、
ゆったりとしたピアノ曲、そして夕焼けとともに暮れていった。
最後の曲が終わった6時、辺りはもう真っ暗。
ピアノ演奏の舞台照明と、焚き火の炎だけが闇の中にあった。
参加者へは、帰りに当たりと外れの野菜セットをお土産に用意した。
その袋を手にさげ、参加者からは「素晴らしかった」の言葉がもれた。
こんな催しができる地域にいることに、しばらく私は酔っていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/3b/0df37acbfcd811f8044a699e0d63f1e4.jpg)
栗の木も 実りのとき
※ 次回のブログ更新予定は、10月15日(土)です。
行動制限もないし・・、「ならば、思い切って!」。
家内の友達夫妻が、「北海道でゴルフを」と、
東京からやってくることになった。
彼らとは、パンデミック前の2019年秋に、
長野県の開田高原で、ラウンドして以来、
3年ぶりになる。
今回は、札幌にホテルを取り、3泊4日の予定で来道。
2日目と3日目がゴルフである。
とんでもない私の失敗は、その初日だった。
2人が、羽田空港からのフライトで、新千歳空港に着くのは、
午後4時過ぎだった。
私と家内も、札幌での4日間を同行するため、
ゴルフバックと一緒に宿泊の着替え等を持って、
空港への出迎えに行く時間になった。
車のトランクへその荷物を運ぼうと・・。
ところが、思いのほか旅行バックがパンパン。
その大きさに、「驚いた!」。
でも、家内が「必要だと詰めたのだから・・・」と、
私自身を納得させ、そのまま車へ積んだ。
なのに、違和感が残っていた。
加えて、久しぶりの再会とラウンドに、
気持ちが珍しく高揚していた。
だからだったと思う。
出発前の確認ルーティーンが、おろそかになった。
そのまま「よし!」、と車を発進させた。
北海道の高速道路は、大きな事故でもない限り、
渋滞や通行止めの心配はない。
強い雨は降り続いていたが、
順調に空港インター出口から一般道へと進んだ。
空港駐車場が迫った時だ。
ふと、いつも運転席横の肘かけに置いてある
セカンドバックが気になった。
ハンドルを握ったまま、左手でそのバッグを探った。
「ない!」
前方を見ながら、急ぎ記憶を追った。
自宅のいつもの場所から、セカンドバッグを手にした覚えがないのだ。
出発間際の確認をないがしろにしたことを悔やんだ。
「うかつにも・・! ヤッチまった!」。
セカンドバッグには、財布が入っていた。
現金の他に、運転免許証、キャッシュカード、保険証が・・。
免許証不携帯なんて、25歳で運転を始めてから、
初めてのことだった。
一瞬、不携帯でも、4日間を過ごせるかもと・・。
しかし、4日間のこの運転は、私一人だけではなかった。
「ないままではまずい」。
それに、ホテルでは『どうみん割』などで住所確認が、
求められることにもなっていた。
急きょ、家内を空港での出迎えに残し、私は自宅へトンボ帰り・・。
3人には札幌へ向かい、夕食などを済ませてもらうことに・・。
結局、私は、伊達から新千歳空港、そして、新千歳から伊達、
その後、セカンドバックを運転席の肘かけに置いて、
伊達から札幌市内のホテルまで、5時間ものドライブになってしまった。
誰に怒りをぶつけることもできない。
ただただ、「こんな時こそ事故なく、安全運転で!」。
強い雨、札幌が近づくにつれて増す交通量、迫る夕暮れ。
その中、冷静にハンドルを握り続けた。
忘れられない4日間の始まりになってしまった。
「ボケの始まり・・?」
「そんな訳ない!」
② 9月3日(土)、地元紙・室蘭民報の文芸欄に、
16本目の随筆が載った。
今回は、教育エッセイ「優しくなければ」のものを加筆した。
読んだ友人から「実話なんですよね」と念押しのメールが届いたが、
幼い体験を再現したものだ。
* * * * *
エ ス
近所のシゲちゃんとはよくケンカした。
シゲちゃんは、私に負けず劣らずきかん坊で、
小学校入学前から、道端の棒をひろってはそれを振り回し、
泣きながらやりあった。
勝負は、いつも仲裁が入って引き分け。
でも、私の気持ちは治まらなかった。
そこで、いつも愛犬『エス』に登場してもらった。
エスは、すでにかなりの高齢で、見かけは大型だが、
犬小屋の横でデレッと寝ていた。
そのエスに私はそっと「エス、シゲちゃん、かめ!」と命じた。
するとエスはのらりくらりと歩き出し、
シゲちゃんに近づいていく。
私は物かげからその後ろ姿を見る。
シゲちゃんはエスにまったく気づかず、私の胸は次第に高鳴った。
次の瞬間、エスはシゲちゃんのお尻をガブリと。
シゲちゃんは、火がついたように泣き、
エスはそれまでのエスとは見違える素早さで、
犬小屋にもぐり込む。
しばらくして、シゲちゃんのお母さんがやって来る。
「またお宅のエスがうちの子をかんだ。」とどなって帰っていく。
母は、床に頭をこすりつけて詫び、すぐに竹の棒を握って犬小屋へ。
「エス、出ておいで」。
エスは、その棒で一撃される。
『キャン』、痛そうに鳴くエス。
その声は、私の耳に残った。
でも、数日後、また同じことをエスに命じた。
小学校2年のある朝、
とうとうエスの体が、動かなくなった。
兄弟でなんとか犬小屋に入れ、学校へ行った。
その日、学校の時計がやけにおそく感じた。
放課後、走って家に戻り、犬小屋を開けた。
エスは、目を開けたまま冷たくなっていた。
中学生の兄と2人で、大きなりんごの木箱にエスを入れ、ふたをし、
自転車の荷台にくくりつけ、海まで運んだ。
防波堤の先端から、2人でその箱をほうり投げた。
真っ赤な大きな太陽が、ちょうど海に沈みかけていた。
水しぶきが一瞬、夕陽に輝いた。
兄は、手のこうで涙をふいた。
私は、そんな兄に何も言えず、
だまって自転車を引いて、後ろから歩いた。
初めての死別体験であった。
* * * * *
後日、こんな嬉しいメールが、息子から届いた。
『年間十数本の有名私立中学校模試を作る国語の先生が、
「エス」の文章を絶賛してくれたよ。
評論について専門的にやっていたこともある人で、
映像が浮かんでくる、こういう文はなかなか書けない、
だそうです。』
③ コロナで、地元自治会の活動も大きく制約を受けている。
そんな中、地域を5つに分割している私のブロック=Eブロックで、
『E焚き火の集い』を開催した。
私は昨年度より、そこのブロック長を務めている。
「コロナ禍でもできる活動はないか!」。
昨年も今年も役員事務局の5人で、話し合いを重ねてきた。
そして、この状況下でもできることを手探りした。
事務局には、私の息子よりも若い役員が2人いる。
自治会会館の横は、公園予定地の広場になっている。
2人は、かねてよりその広場を使って、
テントを張って家族でキャンプがしたいと、漏らしていた。
それが無理なら、
「キャンプでよくする焚き火だけでもできたらいいのに」とも・・。
飲食を伴わない催しの手探りは、そこから始まった。
まずは、アウトドア用の焚き火台を数台使い、
公園予定地で焚き火をすることが可能か、
土地を管理する市役所と消防署本部へ、問い合わせることから・・。
数日後、「自治会の行事なら」の条件で
許可できるだろうと回答があった。
そこから、自治会行事としての企画を本格的に練った。
そして、当日午後4時半、
その集いは私の挨拶から始まった。
参加者約40名、9つの焚き火台を用意し、
1台1台に、子ども達が火付け棒を擦って点火を試みた。
薪の火が大きくなるたびに、次々と歓声が上がった。
焚き火台の炎が9つ、静かに燃えさかる中、
プログラムは、電子ピアノの生演奏に進んだ。
地元出身のピアニストがこの企画に賛同してくれ、
コンサートが実現した。
4,5名ずつ焚き火を囲み、約1時間の音楽ライブに
聴き入った。
澄んだ秋空は、パチパチと燃える薪の音と、
ゆったりとしたピアノ曲、そして夕焼けとともに暮れていった。
最後の曲が終わった6時、辺りはもう真っ暗。
ピアノ演奏の舞台照明と、焚き火の炎だけが闇の中にあった。
参加者へは、帰りに当たりと外れの野菜セットをお土産に用意した。
その袋を手にさげ、参加者からは「素晴らしかった」の言葉がもれた。
こんな催しができる地域にいることに、しばらく私は酔っていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/3b/0df37acbfcd811f8044a699e0d63f1e4.jpg)
栗の木も 実りのとき
※ 次回のブログ更新予定は、10月15日(土)です。
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