ワンダースター★航星記

写真を撮るとは、決して止まらない時間を止めること。旅や日常生活のインプレッシブな出来事を綴ったフォトエッセイ集です。

「街 ~長原ヴァージョン」 古代船なみはや に寄せて 

2022-03-28 | 平野ヒストリー

「街 ~長原ヴァージョン」  古代船なみはや に寄せて 

 

 古代大阪は、海岸線が平野部まで深く入り込み、上町台地が半島のように突き出し、その東に河内湾と呼ばれる内海が広がっていた。

 長原の地は古代において海を臨む海岸線に位置していたと云われている。

 古墳時代になると、河内湾は淡水化し、河内湖になり、やがて淀川や大和川の度重なる氾濫により土砂が堆積し大阪平野を形成していく。

 

 

 長原古墳群からは船形埴輪が発掘されており、古代船も行き来していたものと思われる。

 船形埴輪は1989年、大阪市制100周年を記念して「古代船なみはや」として復元され、実際に韓国釜山までの航海を行なった。

 その実物は、かつて「なにわ時空館」があった南港北に展示されている。

 この実物古代船「なみはや」を長吉東部中央公園横の未利用地に誘致、展示しようというムーブメントがある。

 以下、㈱小林新聞舗発行「だんじり新聞」3月号の記事。

 

 

 4月3日の「長原東わいわいフェスタ」で初披露される「街 ~長原ヴァージョン」。

 常盤会吹奏楽団のアレンジと演奏を実力派演歌歌手、吉野悦世さんと中村美優さんがどのように仕上げるか、今から、わくわくする。

 

   


絵解きがたり ~平野に伝わる聖徳太子 絵伝

2019-08-03 | 平野ヒストリー

絵解きがたり ~平野に伝わる聖徳太子 絵伝

 7月27日(土)10時から杭全神社・瑞鳳殿で「絵ものがたり・絵解きがたりー平野に伝わる聖徳太子絵伝―」が開催された。

 杭全神社保管の10幅の掛け軸「聖徳太子絵伝」(約600年前作 全興寺 什物)が、デジタル技術で複製されたので、そのお披露目と解説、絵解き実演されるイベントである。

(杭全神社、全興寺、三和すーぱー絵解き座、名古屋大学人文学研究科附属人類文化遺産テクスト学研究センターの共催)

 「絵解きがたり」を拝聴したのは、初めてだったが、「お堅いのでは」という危惧を吹っ飛ばし、熱の入った語り口に引き込まれていった。

「融通大念佛 亀鐘縁起」の絵巻が特別展示されていた。

 講演後は、出席者全員、全興寺へ移動。

 秘仏「聖徳太子稚児像」のご開帳を見せていただいた。

 聖徳 太子が野原だったこの地域に仏堂を建て、薬師如来像(全興寺ご本尊)を安置したのが平野の町の起源とされている 。 

 

聖徳太子2歳の時に「南無仏」と唱えた姿を写したとされる像(像高 71.5cm)

 

 

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しはつみち・磯歯津路・始発路 ~古代の幻の道

2019-03-30 | 平野ヒストリー

しはつみち・磯歯津路・始発路 ~古代の幻の道

 日本書紀の雄略記に、「呉(くれ)の客人のために“磯歯津路”(しはつみち)を通した」と記されており、現在の長居公園通りの位置に磯歯津路という“古代の幻の道”があったと推定されている。

 磯歯津路は住吉津に上陸した渡来人が住吉大社を経て、平野区の喜連瓜破、長吉を経由し、首都である飛鳥(シルクロードの東端)を目指したとされる古代の国際街道である。

  “住吉”と“長吉”という地名の“吉”の符合が意味するもの。
  それは街道の存在があったからなのかもしれない。
 
 

 

 住吉公園の西端に建つ巨大な常夜灯は、昔、ここに港があったことを示している。

  

  磯歯津路は、当初、住吉街道に沿い、住吉大社を経て、現在の長居公園通りに合流する。

  住吉街道の途中、熊野街道と交差する四つ辻角にインパクトある古い建物がある。
  蔵造の建物に高燈籠があしらわれ、 国の登録有形文化財に指定されている。
  手作り味噌が名物の「住乃江味噌 池田屋本舗」さんである。
 
 
 
 
 
 
 また、周辺や街道沿いには歴史あるお寺や町家が点在している。
 
  お寺なのに鳥居。信貴山真言宗の東福寺。 
 
 
  荘厳浄土寺。山門前にニャンコが陣取る。
 
 
 
 
  すみよしギャラリー(住吉福祉会館)。
 
 
  木下家住宅。
 
 
 
 
 磯歯津路は長居公園通りに合流。長居公園から、長吉まで、沿うように続くとされる。
 街道脇の喜連、瓜破、長原には当時を偲ぶ数々の遺跡がみられる。
  
 
 
 「しはつみち」は「始発路」とも読める。
 新年度に向かう、この時期、“始発”というに言葉に、新たなる出発(スタート・旅立ち)をイメージする。
 

 

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「含翠堂」300年、功績顕彰の集い

2017-05-11 | 平野ヒストリー
「含翠堂」300年、功績顕彰の集い

               

 江戸時代、平野郷の有力者らが開いた「含翠堂」。
 緒方洪庵の「適塾」より古い歴史を持ち、「懐徳堂」のモデルとなったとも云われる民間学問所の開設300年を祝って、地元の歴史研究家らが 5日、大阪市平野区で記念の集いを開く。
                         (5月2日付け、朝日新聞より)

               

               

 地の平野人に平野の何が誇りかと問えば、その多くの方が、「含翠堂」!と応える。
 これが、私の私見。
 それくらい、「含翠堂」の占める位置は高いと思われる。

 にも拘らず、住民や平野に関係される方ヶの中には「含翠堂」をご存知ない方がいらっしゃるのも事実である。
 よって、今回は杭全神社・瑞鳳殿で5日に開催された「含翠堂」300年、功績顕彰の集いをレポートした。

               

               

               

               

               

               

               

               

 民間学問所の魁として、名を馳せた「含翠堂」であるが、飢饉の際には、炊き出しなどを振舞って、窮民を救ったということでも有名である。
 その財源は、富裕層からの寄付だけではなく、困窮した民から、更に困窮した民のための寄付もあったという伝承に感銘を受けた。


               


            
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「真田丸」 ~平野・幸村顛末記

2016-12-17 | 平野ヒストリー
「真田丸」 ~平野・幸村顛末記

               

 NHKの大河ドラマ「真田丸」は12月11日、第49話の放映が終わり、あと18日放映の最終回を残すのみとなった。
 大河ドラマでご当地が放映されるたび、地域振興活性化に利用しようとする試みは数多いが、今回の「真田丸」でも、平野区では官民あげての「幸村」取り組みとなった。

 曰く「幸村が駆け抜けた町・平野」。
 平野区のゆるキャラ「ひらちゃん」も赤備えに変身、「幸村ひらちゃん」となった。

               

               

               
 本当に駆け抜けただけと揶揄する声もあったが、それでも、平野は熱くなって、三谷幸喜さんの脚本に取り上げられることを誰もが期待した。
 そして、もっとも、登場が予想された第49話が終わった。

               

               

               

 MAP上は別にして、平野が登場したのは、ここだけだった。

               

 後藤又兵衛は、このあと、平野より出陣。
 「道明寺の合戦」で武運が尽きる。

               

 一説には、又兵衛の首級が敵に渡らぬ様、いよいよとなったとき、家臣・吉村武右衛門が介錯を務めたという。
 吉村武右衛門は水井姓を名乗って、中喜連村に隠棲。
 主の首級を手厚く弔ったという。

 幸村のライバル伊達政宗も登場した。

               

 結局、ドラマのシーンでは「又兵衛の陣」のみ。
 ドラマ後の関連地・紹介コーナーで、道明寺とともに志紀長吉神社が紹介されたのが、せめてものお慰みとなった。

               

               

 やはり、平野としてはドラマの中で志紀長吉神社と講談とはいえ、樋之尻口地蔵堂を取り上げていただきたかったというのが本音であった。


                

                   


 <講談・難波戦記 ~平野の地雷火>
 大坂夏の陣。大坂城落城の前日。豊臣方の軍師真田幸村は最後の計略。家康を平野におびき出し地雷をもって殲滅しようという。計略は見事に成功し家康はほうほうの体で地雷から逃げる。ザーッと降ってくる雨。森の中をさまよう一行。そこに現れた幸村の伏せ勢。家康絶体絶命のピンチを一発の落雷が救った。雨がやみ夜が白々と明けてくる。わずかな味方に守られた家康はもう歩くことすらできず、ボロ寺で接収した死人駕籠に乗せられて南へとやってくる。すると南のほうからやってきた後藤又兵衛とはちあわせる。又兵衛は駕籠の中の人物が何者か分からぬまま駕籠を槍で貫き家康は夢半ばにして落命した。


 最終回は家康、秀忠が平野にて合流するものの、天王寺口の戦い、茶臼山の攻防がクライマックスとなるだろうから、それも望み薄といったところか。

 「真田丸」・・・なかなか、目が離せない。


                      
              

 関連バックナンバー1・クリック幸村・終焉の地「安居神社」   

 関連バックナンバー2・クリック三谷幸喜殿   


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川辺八幡神社・秋祭りの足洗い神事は9月19日(土)、開催!

2015-09-10 | 平野ヒストリー
川辺八幡神社・秋祭りの神事は9月19日(土)、開催!

              

 平野区長吉の川辺八幡神社・秋祭りでは豪華な花火大会があることで有名だが、江戸時代の大和川付け替え工事という壮大なプロジェクトにまつわる物語が祭りの根底にある。

 川辺八幡神社・神事の由来
 

 当日は花火目当ての人たちで大混雑になるが、祭りの心の部分をしっかりと見据えて、鑑賞したいものだ。


              

              

              

              

              

              

              


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喜連村史の会 ~古老の昔話と紙芝居

2015-09-08 | 平野ヒストリー
 喜連村史の会 ~古老の昔話と紙芝居

               

 9月5日、喜連北集会所で「喜連村史の会」の第90回例会が開催された。
 以下の内容だった。 

               

 昔話をしていただいた西本さんは、とても92歳とは思えない、カクシャクとした語り部さんで最初の40分は立ち姿勢のままで熱弁を振るわれた。
 記憶力も素晴らしく、原稿にも殆ど目を落とされないまま、堰を切ったように話される。
 しかも、ウイットにも富んだ語り口で聴衆に笑いさえ誘う。

               

               

 また、事務局による紙芝居も素晴らしく、貴重な体験をすることができた。

 

 隣町の瓜破の紙芝居。




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志紀長吉神社と真田幸村 ~平野ヒストリー

2015-06-08 | 平野ヒストリー
志紀長吉神社と真田幸村 ~平野ヒストリー

            

 慶長20年(1615)大坂夏の陣。
 徳川勢の包囲が迫る中、真田幸村軍は、圧倒的な兵力を誇る伊達政宗軍と道明寺・誉田で激戦を展開。
 伊達軍の進撃を一旦、食い止めるが退却命令が出て、大坂城防衛に戻ることになった。
 さすがに疲労困憊の真田幸村だったが、その途上で戦勝を日蔭大明神(志紀長吉神社)に祈願、刀剣と六文銭の軍旗を奉納し、神社の馬場にて休息した。

            

            

 赤地に白の六文銭の旗は、あまりに有名な真田幸村の軍旗で、その旗が見られる真田の赤備えとして恐れられた。
 六文銭は三途の川の渡し賃、つまり通行料とされており、死者を葬る時に遺体と一緒に埋めるものである。
 真田氏は家紋に六文銭を用いることで、死をもいとわない不惜身命の決意で望んでいることを示していたと云われる。


  (志紀長吉神社・社宝)

 「六文銭」をあしらった「勝守」。

           

 追撃する伊達軍。幸村はここで、暫しの休憩を取った。
 祈願のおかげか、出発の際には霧が出て、包囲網を突破し危機を脱したという。

           

           

           

           

           

 戦国ゲームなどでは、幸村はイケメンのヒーローとして描かれている。

           

 こんなイケメンではなかったろうと思う。
 ましてや、やさしい麦茶で休憩したわけではなかったろう。

            

 数年前までは甲冑隊イベントを開催されていたと聞く。
 また、復活させてもらいたいものだ。


 神社のアナベルが綺麗だった。

           

 <番外編>

 近くには「長原高廻り古墳群」がある。
 5Cの古墳で船形埴輪などが出土した。
 船形埴輪は20数年前、「古代舟なみはや」として復元され、大阪から釜山まで実験航海した。

           

           

 ちょっと、珍しい長原の卵の自動販売機。

           

 長吉出戸地域も風情ある民家が数多い。


           

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長寶寺と坂上田村麿、そして、「よみがえりの草紙」

2013-10-26 | 平野ヒストリー
  長寶寺と坂上田村麿、そして、「よみがえりの草紙」


              

 坂上田村麿(麻呂)(さかのうえのたむらまろ)は、今から1200年ほど前の平安時代初期の武将で、初の征夷大将軍として蝦夷(えみし)(現在の東北地方)を討伐した。
 その功により、参議(現在の内閣大臣に相当)・中納言・大納言と出世し、主に政治の中心で活躍した。

              
 
 能「田村」は、坂上田村麿を主人公にして、彼による京都・清水寺創建の縁起物語と蝦夷征伐を描いた作品である。
 
 長寶寺(ちょうほうじ)開基の慈心大姉は、坂上田村麿の娘で坂上春子(春子姫)といい、もと桓武天皇の妃であった。
 806年、桓武天皇崩御によって、春子は弘法大師に帰依して剃髪し、父坂上田村麿が同年に創建した長寶寺の開基となった。

 長寶寺の本堂には、本尊の十一面観音像(毎年5月18日に開帳)が安置されているが、これは、田村麿の守護仏とされている。

 また、次男の坂上広野麿(さかのうえのひろのまろ)は、摂津国住吉郡平野庄を開発した人物。
 広野がなまって、「平野」になったといわれている。

               

 西脇慈容住職と本堂。

               

 長寶寺の境内を歩いていると、本堂の鬼瓦をはじめ、寺の所々に、変わった形の紋章がほどこされているのに気づく。
 これは、長寶寺の寺紋(じもん)であり、坂上家の家紋(かもん)である。
 形どられているのは、向馬(むこううま)と呼ばれているもの。
 「主君に忠実に仕える」という意味が込められた、想像上の動物で、頭が馬、体が牛になっている。

               

               

               

               

               

 本堂には閻魔王の伝承が残る。


 閻魔王は 永享11年(1439)6月6日 慶心坊尼を頓死させたのじゃ。
 それはな、 生きとる間にな、仏さまの修行を怠けると地獄に堕ちるということを知らせ、地獄の恐ろしさを 見聞させ、逆修を勧めさせるためなんじゃ。
 それでな、「閻魔大王の証判を持つ物は地獄に落ちない」という証判をもっていた慶心坊尼は地獄に堕ちた3日後に蘇生したんじゃよ。
 じゃがな、誰も信じなかったもんじゃから、閻魔王は、次なる手を打った。
 嘉吉元年(1441)10月15日 読経中の慶心坊尼が青蜘蛛(くも)をつかむと 青蜘蛛は舎利に変わったんじゃ。
 嘉吉2年(1442)慶心坊尼が 逆修供養を営んだ際に客僧が来訪し 閻魔王の木像を刻んで姿を消した。
 その客僧が 閻魔王じゃったそうな。


 塚原さんによる紙芝居。

               

               

               

 「青蜘蛛の舎利」「閻魔大王木像」「閻魔大王実判」は現在も 長寶寺に伝わる。
 慶心坊尼が、 この出来事を書いたものが、寺に所蔵される『よみがえりの草紙』である。

 

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ひらののオモロイはなし 2 ~『首地蔵』・全興寺

2013-03-06 | 平野ヒストリー
    ひらののオモロイはなし 2 ~『首地蔵』・全興寺

                     

                     首地蔵(全興寺蔵)

 元和元年(1615年)、大坂夏の陣のことじゃ。
 道明寺の戦で敗れた豊臣方の真田幸村は徳川家康に追われ、大坂へ退却する途中、平野に差し掛かったんじゃ。
「家康は自分らを追って、大和道(奈良街道)からの平野の入リ口、樋尻口にやってくるに違いない。」
 そう読んだ知将・幸村は樋尻口の地蔵堂の下に地雷を埋め、かまどの火を焚けば爆発するよう、仕掛けておいた。
 そうしたら、予想通り、家康は樋尻口にやってきて、地蔵堂のかまどを焚いたんじゃ。
 今まさに、地雷に火がつこうとした瞬間、家康は小便をもよおして外へ出てしもうた。
 「どおっかああ~んんんんん!!!」と大音響をたてて、地雷は爆発し、地蔵堂は吹っ飛んだが、家康は九死に一生を得たんじゃ。
 そのときの爆発でなあ、地蔵さんの首が、全興寺まで吹き飛ばされたそうな。
 じゃから、今でも、全興寺には、そのときの「首地蔵」が祀られておるんやでぇ。
 




 「どおっかああ~んんんんん!!!」“地球おはなし村”主催の平野ウオークイベントにて。(樋尻口地蔵堂前で)



 聖徳太子が建立した薬師堂が全興寺の草創とされ、その薬師堂から平野の町が形づくられていったと云われている。







 ムクドリがやってきて、柿をついばむ。
 ロウバイや山茶花が咲いて、ここが大阪市内だなんて忘れてしまうほど、こころ和む一角である。



 全興寺さんの地獄堂。
 閻魔様の前では思わず、頭を垂れてしまう。
(悪いことはできません。ご同輩!)



 悔い改めたあとは、地下の「ほとけのくに」でステンドグラスの曼荼羅に座って、瞑想しよう。

                 

 まるで、ジブリの世界。
 ペット供養の「わんにゃん堂」。

               

 
 境内のおもろい路地「おも路地」で日曜日に催される「あそび縁日」は地域の子供たちの遊び場。
 バイゴマや紙芝居などがあって、子どもたちも楽しそう。


               

「ひらののオモロイはなし」は48ページもあって、200円。
 全興寺で買えるんやでぇ。

               

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ひらののオモロイはなし 1 ~亀鉦(かめがね)

2013-01-25 | 平野ヒストリー
    ひらののオモロイはなし 1 ~亀鉦(かめがね)

              

 平野の大念佛寺の法明上人がのう、播州加古の教信寺にお参りするため、難波浦から船に乗って行かれたんじゃ。
 そしたらのぉ、途中で大嵐となり、船は沈みそうになったんじゃ。
 これは龍神さまの祟りに違いないと上人は大切な鉦を海に沈めてしもた。
 そうするとな、一転、嵐は静まり、難を逃れたんじゃ。
 教信寺からの帰りも上人は船で帰ったんじゃが、鉦を沈めたあたりに差しかかるとな、大きな亀がこっちへ泳いでくるではないか。
 亀が頭にあの鉦をつけて、上人のところに返しにきたのじゃった。
 それからのう、大念佛寺に伝わる、この鉦を「亀鉦」というようになったんじゃ。




              

 「地球おはなし村」主催の平野ウォークに参加して。
 名所を廻りながら、会員の方が昔話を語られる。
 大念佛寺の屋根をよく見るとマッチョな鬼に目付きの悪い鯱と獅子がいた。

              

              

平野郷の一角にある“亀乃饅頭”を名物とする福本商店は寛永元年(1624年)創業で380余年の歴史と伝統を誇る老舗の和菓子舗。



「亀乃饅頭」は白餡仕立てであっさりとした甘さ。
 もちろん、亀鉦がモチーフである。

              

              

              

              
 今、大念佛寺では山茶花が満開である。
 融通念仏宗総本山であり、本堂は大阪府下最大の木造建築。

              

              

 48ページにわたり、平野の昔話満載の小冊子、「ひらののオモロイはなし」は全興寺にて200円で購入できるんじゃぞ。


              

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