ワンダースター★航星記

写真を撮るとは、決して止まらない時間を止めること。旅や日常生活のインプレッシブな出来事を綴ったフォトエッセイ集です。

狂虎シンに勲章! ~「タイガー・ジェット・シン展」on 京都ホホホ座

2024-05-10 | プロレス

狂虎シンに勲章! ~「タイガー・ジェット・シン展」 on  京都ホホホ座

 

 タイガー・ジェット・シンが政府より4月29日、令和6年春の旭日双光章を受章した。

 タイガー・ジェット・シンとは昭和の時代に“インドの狂虎”と呼ばれたインド系カナダ人レスラーで、初来日は1973年。

 当時、日本では全く無名であったが、前触れなく、突如、新日本のリングに乱入し、首締めのような必殺技コブラクローとサーベル攻撃でファンを恐怖のどん底に突き落とした。

 それだけなら、プロレス界によくいる悪役ヒールレスラーで終わるところだが、シンの狂い方は常軌を逸していた。

 レスラーだけでなく、報道陣、観客、一般人にも真剣に襲いかかる。それも、撮影があるなしに拘らずだ。

 ついには、新宿伊勢丹前で買い物中の猪木を襲撃し、パトカーが出動する事件にまで発展する。

 「徹底して悪役を貫いている」なんて、イージーな言葉では表現できなくなるほどで、「こいつは本当に狂っている」と心底、思った。

 シンをシン底、憎んでいた。

 今から思うと彼も自分を売り出すため、命懸けだったろうし、A猪木の新日本もG馬場の全日本の政治力に圧倒されて、生き残るための命懸けの仕掛けだったろう。

 命懸けの両者の対決は本当に殺し合いをしていると思わせたし、事実、紙一重の殺し合いを演じていたように思う。

 シンは真のプロフェッショナリズムとは何かを教えてくれた。これも、「今から思うと」である。

 

 

 

 

 

 

 その「タイガー・ジェット・シン展」が京都市左京区で本、雑貨などのお店、ホホホ座浄土寺店で開催されている。

 シンが受章した勲章、旭日双光章とは「国家または公共に対して功労のある人」に贈られるもので、「顕著な功績」を挙げた人が対象となる。

 シンはマットで稼いだ資金をもとに実業家となり、東日本大震災支援や学校設立など慈善活動に力を注いでおり、その点を評価されたようだ。

 そして、この知らせを「プロレスに市民権を!」が悲願だった宿敵、猪木が空の彼方で一番、喜んでいるに違いない。

 

   

 


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怪力無双「ストロング小林展」 ~京都プロレス美術館

2024-05-09 | プロレス

怪力無双「ストロング小林展」 ~京都プロレス美術館

 

 「怒涛の怪力」と呼ばれていたが、あえて、「無双」とした。

 「無双」と揮毫された白いガウン姿のストロング小林が好きだったからだ。

 猪木や馬場のようなカリスマではなかったが、ストロング小林は一時期の日本マット界に燦然と輝く足跡を残したレスラーだった。

 ただ、彼にもう少し、ガムシャラな闘争心と我の強さがあったなら、歴史は変わっていただろうにと思うのである。

 周りによくいる誰かのように我が強すぎたり、自己主張の塊ではなく、謙虚で誠実な彼はレスラーとしては、あまりに善人すぎた。

 だからこそ、好感を持っているのであるが、そんな矛盾した想いが私の中には今もある。

 下鴨神社にほど近い地にある「京都プロレス美術館」において、昨年、地元の東京都青梅市で開催されて以来の「ストロング小林展」がGWに開催されていた。

 「京都プロレス美術館」はプロレスマニアの湯沢館長の私邸の一室にあるプロレスファンが集う憩いのリングである。

 

 国際プロレスは小さいながら、パイオニアだった。

 

 

 日本人最初のマスクマン「覆面太郎」だった新人時代。

 

 

 

 敗れたりといえど、ストロング小林がレスラーとして、もっとも輝いたアントニオ猪木戦。

 

 オリエンタル・ブルーノと云われた時代。本家のサンマルチノとMSGで対戦。

 

 ビッグ3の時代。

 

 

 

 ラリー・ヘニングと私邸で。リングを降りると親友だったようだ。

 

 猪木・アリ戦も展示されていた。

 

 途切れぬ来客に湯沢館長、大忙しだった。

 

 

 


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「大阪プロレス」 ~ゼウスとアラン on 梅田スカイビル

2024-02-28 | プロレス

大阪プロレス ~ゼウスとアラン on  梅田スカイビル

 

 「ワンワールドフェスティバル」において、 梅田スカイビル直下のワンダースクエアで「大阪プロレス」が開催された。

 プロレス・エンタ―ティメントを掲げる「大阪プロレス」は他団体とはちょっと違ったスタイルのプロレスが持ち味。

 なんせ、「たこ焼き」、「えべっさん」、「くいしん坊」、「タイガース31番」、「ビリケン」、「あしたのジョー」のマスクマンらが登場するくらいだ。

 

 

 とはいえエースでオーナー社長のゼウス(大林賢将)は全日時代、チャンピオンカーニバル全勝優勝や3冠王者にもなったこともある猛者。

 

 地域密着型のプロレスを目指す、大阪プロレスを観戦した。

 

 注目したのは、第一試合に出てきたデビュー1年余りの若いレスラー、佐野蒼嵐(アラン)。

 ケレン味のないファイトは好感度が高いようで、「アラン!」「アラン!」と声援がとぶ。

 「負けたって、次があるさ。」と肩をたたきたくなる。

 ★佐野蒼嵐 vs 大瀬良泰貴

  

  ★佐野蒼嵐 vs タコヤキーダー

       

 2試合とも、クルスフィックスのような基本技で仕留められたが、古典的なスープレックスといわれる、フロントネック・チャンスリードロップを出すなど、研究熱心さと練習量の豊富さが窺える。

 

 タイガースの31番て、あの方?もう見る影もないが。

 

   若いレフェリーもいい味出している。

 

 大阪の丈一郎ってか!

 

 エースのゼウス、登場!

 子どものころは生野区で喧嘩に明け暮れる悪ガキだったというが、今や経営者の顔も持つ。

 

 

 パートナーはビリーケン・キッド。

 

 ★ゼウス&ビリーケン・キッド vs 松房龍哉&タコヤキーダー

 

 

 フィニッシュは「ジャックハマー」。ブレーンバスターの体勢から、オクラホマ・スタンピートに移行する技。

  

 

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プロレスラー墓名碑2023  ~テリー・ファンク、木戸修、キラー・カーン

2024-01-03 | プロレス

プロレスラー墓名碑2023  ~テリー・ファンク、木戸修、キラー・カーン

 年に一度、その年(前年)に逝去された個人的に印象深い名レスラーについて、記述するページです。

 プロレスファン以外の方にはご興味ないかもしれませんがご容赦ください。

① テリーファンク

   

    日本でもっとも女性ファンの人気を博したガイジンレスラーではなかろうか。

 その甘いマスクだけでなく「テキサスの荒馬」と評される暴れっぷりは、時にヤンチャ坊主のようにも映り母性本能をくすぐるのかも知れない。

 なかでも、未だに語り草になっているのは兄ドリーとのザ・ファンクスとブッチャー、シーク組の試合。

 ブッチャーがフォークでテリーの腕をブスッブスッと突き刺す。

 苦悶の表情でのたうち回るテリーが不屈のパンチで反撃するシーンに観客、TVの視聴者は大いに沸いた。

 まさに勧善懲悪のアメリカン·プロレスを地で行くかのようなシーンだった。

 私は「フォークよりナイフの方が効果的なのに、いや、フォークの方が痛そうだからいいのか」と、ひねた見方をしていた。

 冷静沈着、理詰めなファイトの兄ドリーに対し、ハチャメチャ破天荒なテリー。兄弟の対比も面白かった。

 相撲の若貴兄弟を思わせた。兄弟で当時世界最高峰だったNWA王者に君臨したのも初めてではなかったか。

   「キン肉マン」に出てくる「テリーマン」のモデルでもあった。(8月23日没 79歳)

 ② 木戸 修

 

 木戸修は前述のテリーとは全く対照的な真逆のレスラーといっていいだろう。

 「いぶし銀」「究極の技巧派」と評されるレスリングは玄人ファン受けする「脇固め」等の渋い関節技が持ち味である。

 師匠である神様カール・ゴッチに「私の息子」と言わしめるほど、ストイックにレスリングを極める。

 輝くスター選手ではなく、地味な中堅レスラーだったが職人レスラーともいえるだろう。

 時には会社が売り出したいレスラーの咬ませ犬の役も甘んじて受けたが、その実力は本物。

 突然、その実力を発揮して、超大物選手から「キドクラッチ」でフォールを奪ってみせたりするのが痛快だった。

 引退してからは、娘のプロゴルファー愛さんの隣で微笑んでいる姿が印象的だった。(12月11日没 73歳)

  ③ キラー・カーン

 

 「キョエー!」という奇声と共に相手の顔面を両手で挟み込むように放つモンゴリアンチョップ。

 キラー・カーンというと、すぐに脳裏に浮かぶファイトシーンだ。

 本名 小沢正志。195センチ、141キロの巨体を誇るレスラーだったが、若手時代はあまり目立たなかった。

 いわゆる、華がないレスラーだったのだろう。

 ところが、アメリカ武者修行中、「極悪非道な暴れるモンゴリアン」というギミックに変身して開花する。

 アメリカのショーマン・プロレスが肌にあったのだろう。

 そこにアンドレの足をニードロップで折るという武勇伝が加わって、全米のスター選手となる。

 引退後は居酒屋を経営されており、私も一度、行きたいと思っていたくらいだが、店で仕事中に突然死された。(12月29日没 76歳)

 

 

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「アントニオ猪木展」 ② ~燃える闘魂の奇跡の軌跡

2023-12-04 | プロレス

「アントニオ猪木展」 ② ~燃える闘魂の奇跡の軌跡

 

 若き日の猪木は日本プロレスの経理が不正であるとして会社改革を企てるが、逆に日本プロレスから追放されてしまう。

 それではと新日本プロレスを旗揚げするが興行的には火の車で破滅へまっしぐら。

 と思いきや土壇場で不仲と思っていた坂口征二と合流しTV局も付き、何とか踏みとどまった。

 仲介者が居たとはいえ、これがひとつめの奇跡。

 

 宿命のライバル、G馬場も日本プロレスから独立し、全日本プロレスを創設。

 両団体間にし烈な興行戦争が始まる。

 アメリカの名だたるスター選手は殆ど、全日本が独占し、新日本に来るのは2線級ばかり。

    そこで、スター選手を自ら創ろうとするなか、タイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセンがのし上がっていく。

 

 

 また、それまで主流だった外国人レスラーではなく、日本人レスラーとの闘いに活路を見いだす。

 

 そして、二つ目の奇跡はプロボクシング世界王者のモハメッド・アリとの対戦を実現させたこと。

    もし、全日本が妨害せず、順風満帆にスター選手を呼べていたら、アリ戦はなかったかもしれない。

 困難は飛躍のチャンスだ。

    ところがアリ戦はルール問題で猪木はがんじがらめとなり、いわゆるアリキックしか使えない試合となる。

 だが、たとえ、一般人には面白くなかろうとも世界が酷評しようとも借金を何十億と背負おうとも、この試合が現実に実現しアリを追い詰めたことは紛れもない事実であった。

 

 

 世間から虐げられていたプロレスというジャンルに再び光を当てた。

 

 

 更に猪木は全日本プロレス=G馬場にはないストロングスタイルのプロレスを打ち出す。

 時にはシューターの本領を発揮して、パキスタンでは地元の英雄を再起不能にまで追い込む。

 

 ベルトには固執しないのが猪木流。

    それでも、ファンにとってはそれぞれのベルトが懐かしい。

 IWGPベルト、ワールドマーシャルアーツ、WWFベルト、NWFベルト。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 三つ目の奇跡は国会議員として、イラク戦争勃発直前に現地に出向き、日本人人質を連れ帰ったこと。

 これほどの奇跡が忘れ去られようとしている日本の不思議。

 

 

 

 猪木をわかる人とわからぬ人に世の中は分断されると思っている。

 猪木はある意味、何かを分別するリトマス試験紙のようなもの。

 それが何なのか、猪木を探す旅はこれからも続く。

 

   <  もうひとつの奇跡 >  画像をクリックしてください

 

 

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「アントニオ猪木展」 ① ~燃える闘魂の足跡

2023-12-02 | プロレス

「アントニオ猪木展」 ① ~燃える闘魂の足跡

 

 昨年10月1日に79歳で亡くなった“燃える闘魂”アントニオ猪木の展覧会「アントニオ猪木 80th ANNIVERSARY 燃える闘魂・アントニオ猪木展」が阪神百貨店梅田本店で開催されていた。

 闘魂の足跡を辿ることで偉大且つサプライズな人生に想いを馳せた。

 

 

 

 

 

  

 猪木はリング上で人生を表現できる唯一のレスラーだった。

     誰しも人生のリングで難敵と対峙している。

     だから、誰しも「闘魂」を抱けと猪木は鼓舞してくれているのだ。

 

 

 若獅子と云われていた日本プロレス時代の猪木。

 当時、まだ見ぬ強豪の一人であったザ・シークの初来日時に予定されていたシーク戦。

 結局、ドタキャンされたのだが、代替に来日した「鉄の爪」の方が嬉しかった。

 このポスターを見て、遥か昔のことを思い出した。

 

 

    リング上の鬼の形相とプライベートでの満面の笑み。

     そのギャップも魅力のひとつ。

 

 

 

 

 

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INOKI KI (闘魂忌)に寄せて ②  ~夢追い伝説

2023-10-02 | プロレス

INOKI KI (闘魂忌)に寄せて ②  ~夢追い伝説

 

   猪木の闘いはリング上だけに留まらなかった。

   「事業なんかに手を出さず、レスラーだけに専念していれば良かったのに。」

 と多くの人がそう思うくらい失敗続き。

 事実、レスラーだけに専念していたら、実力世界一と云われた全盛期(上写真)をもう少し永く維持できたかもしれない。

 しかし、この男は夢を持つこと、夢を実現することに人生の目的、生きる意味を見出してしまった。

 その夢とは私利私欲の世界を越えて、世界平和や環境問題、食糧問題、エネルギー問題、ゴミ問題など地球人類規模の課題を解決することだった。

 だが、事業家というには、あまりに金銭には無頓着だったときく。

 それ故、猪木が動くと莫大なマネーも動くことを知っている輩が現れて、ビッグマネーをむしり取られたことも多かったようだ。

 或いは周囲の仲間たちにも大きな不利益を負わせてしまったことも多かった。

 そういう意味では遠くから応援するのはいいが、財布持ちには側にいて欲しくない人物なのかもしれない。

 それでも、「落ちたら、また這い上がってくればいいだけのこと」と、何度、落ちても失敗を恐れずにまた実行に移すのが、この男である。

 馬鹿になるのはいいが、本当にとことん、馬鹿になってしまった。

 まさに現代のドン・キホーテ。究極の夢追い人といえる。

   

 若いころの商売(タバスコ、マテ茶など)は別にして、地球規模の課題解決のため、奔走した事業が以下である。

 ①1980年代にブラジル政府を巻き込みバイオ燃料事業「アントン・ハイセル」を始める。

 1970年代のブラジル政府は、石油の代わりにサトウキビから精製したアルコールをエネルギー源として使用する研究を進めていた。

 しかし、その精製過程で出来る絞りかす(バカス)は中に含まれるリグニンという物質のせいで牛の餌にもならず、その上、公害となった。

 猪木グループはそのリグニンという物質を食べる細菌がいることに着目。

 もしも、リグニンを食べる細菌の力を実用化できれば、バカスによる公害はなくなるし、処理後のバカスを食べた牛の糞を有機肥料として使用すれば農業生産率のUPにもつながり、世界的な食糧問題の解決につながる。

 私は若き日にこの構想を知り、大いに賛同したものだが、実際にはブラジル国内の財政破綻などのため、頓挫した。

 ②外部からのエネルギーを一切使用せずに磁力を使い運動を続けるという発電機『永久電機』の開発によるエネルギー問題の解決。(2002)

 ③高温で廃棄物を蒸発させられる水プラズマの実用化により、ゴミ問題、環境問題の解決。(2020)

 水プラズマとは、水から発生する最大2万度の高熱により、あらゆるものを瞬時に蒸発させて水素に変える技術のことで、これを使えば二酸化炭素を発生させずにゴミ処理することが可能になるという。

 ①と②は失敗。③は公開実験に成功するが、コロナ禍に見舞われ、コスト削減の課題が解決されていないまま。

 またしても、夢追い人は負けてしまったか。

 

 ところが、今になって、ブラジルではガソリン以上にバイオ燃料の需要が高まってきたという。

 そこには、「アントンハイセル」の思想や原理が生かされているらしい。

 猪木はいつも、早すぎる。時代を先取りしすぎるのだろうか。

 「永久電機」や「水プラズマ」だって、あと何十年もすると「猪木・アリ戦」のように評価され、実用化されるのではないかと思えてくる。

 私は猪木の事業取り組みや政治活動も異種格闘技戦の延長であると考えている。

 こんなスケールの大きな男は二度と現れない。

   

 

 <引退試合終了後のメッセージ>

      人は歩みを止めた時に、そして挑戦を諦めた時に、年老いていくのだと思います。

      この道をゆけばどうなるものか。

      危ぶむなかれ。危ぶめば道なし。 

      踏み出せばその一足が道となり、その一足が道となる。

      迷わず行けよ。行けばわかるさ。

 
 
 
 
 

INOKI KI (闘魂忌)に寄せて ① ~猪木・アリ戦

2023-10-01 | プロレス

INOKI KI (闘魂忌)に寄せて ① ~猪木・アリ戦

   

 

 

 その日、私は学校の帰りに地下鉄御堂筋線の淀屋橋駅のホームのベンチで各社新聞の夕刊を貪るように読んでいた。

 1976年6月26日、どの新聞も昼間に開催された猪木・アリ戦の速報記事を載せていたが、殆どの新聞がこの試合を酷評していた。

 猪木・アリ戦という常識ではあり得ない闘いが実現するに至った過程、試合直前まで紛糾したルール問題などプロレス専門誌(紙)によって、かなりの情報をリアルタイムで知り得ていた我々の感覚とプロレスをあまり知らない、或いは、固定観念と偏見に凝り固まった一般紙の記者の感覚には天と地ほどの差があった。

 そのころ、一番信頼していたM新聞の見出しはこうだった。

 「ショーならショーらしく、やれ!」

 激しい怒りがこみ上げて来て、その場でM新聞を破り捨てた。

 周りの人はびっくりしたことだろう。

 あまり知らない世界のことを、さも自分が博識者であるかのごとく固定観念で論じる記者の傲慢さが許せなかった。

  (まだ、純粋?だったのかもしれないが、今でもM新聞を許せないでいる。)

 そのとき、わかった。

    我々(プロレス者)の敵は一般社会の固定観念と偏見なのだと。

 そして、猪木はその一般社会を相手に闘っているのだと。

 だからこそ、一般社会の強者の象徴・権威であったアリと闘ったのだと。

 世界中からも酷評された猪木アリ戦だったが、今になって手の平を返すように、この試合が評価されるようになってきた。

    ここに至るまで何十年もの時間を要したのは時代を先取りし過ぎていたからなのだろうか。

 当時、15ラウンド中、殆ど変化の少ない試合であるにも拘わらず、固唾を飲んで両者の一挙手一投足を凝視していたのはマイノリティな我々だけだった。

 「リアルファイトだったから、一般人には面白くなかった。」

 ただ、それだけのこと。

    今なら、この言葉の意味を多くの人が理解しているだろうに。

 もっとも、リアルファイトなんて、滅多にないプロレス界の体質にも起因していることは我々も重々承知している。

   

 

 私はこの日を境に物事を批評するには、それに対し、充分な情報・知識を知り得ていなければならないと思うようになった。

    この試合実現のために一説には10億という借金を背負いながら、おまけに世界中から普通なら再起不能になるほどのバッシングを受けた猪木が、それらをバネに更に強く立ち上がっていく姿に我々は大きな勇気をもらった。

 

 10月1日は「INOKIKI(猪木・忌)」。早いもので一周忌を迎える。


闘魂、再見! ~京都プロレス美術館

2023-07-05 | プロレス

闘魂、再見! ~京都プロレス美術館

 

 京都市左京区の「京都プロレス美術館」に久方ぶりにお邪魔した。

 京阪電車、出町柳駅から北へ徒歩約10分。

 比叡山を望む閑静な住宅街の一角にあるプロレス愛好家、湯沢さん宅の一室が「京都プロレス美術館」としてオープンされている。

 展示室の真ん中にある「憩いのリング」上にはメインとなる "猪木タワー” が燦然と聳えている。

 

 

   

    あの頃の猪木は、ちょうど、今の大谷翔平のように太陽のような輝きとオーラに満ちていた。

 

 

 

 

 レオン・スピンクスとの異種格闘技戦で使用したグローブ。

 

 

 

 マニアにしか、わからないであろう・・・井上編集長の著書と遺品のメガネ。

 その他、マニア垂涎のプロレスお宝が所狭しと・・(失礼ながら、本当に狭いのだが)並んでいる。

 

 

 

 

 

   これが伝説の18文。

 

 

 

 当時は私も、まだ純真な少年だったから、シンほど悪い奴はいないと彼をシン底、憎んでいた。

 ところが、このサーベルを彼に持たすギミックは猪木のアイデアだったという。

 みんな、あの頃は生きるのに必死だった。シンもシン日本も。

 

 

 あの当時はシンの背中を高橋レフェリーが洗っていたりとか、ブッチャーとシンがワンプレートで食事してたりなんての写真開示はご法度だったろう。

 本当はみんな仲良しだった。

 

 ファン以外にはごみ溜めにしか見えないかもしれないが、これは場外乱闘やデスマッチの用品展示である。

 

 

 猪木のお別れ会のリング上で坂口が猪木の遺影写真を胸に抱くなんて、あの頃は夢にも思わなかった。

 再見!猪木! 再見!あの頃!

 

 湯沢館長は相変わらずのテンションでプロレスを熱く語った。

 

 京都プロレス美術館の訪問には、予約必須です。

 


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「闘う前に負けること考えるバカいるかよ!」 ~プロレスラー墓名碑2022・アントニオ猪木 ④

2023-02-25 | プロレス

「闘う前に負けること考えるバカいるかよ!」 ~プロレスラー墓名碑2022・アントニオ猪木 ④

 

1990年2月10日、TOKYOドームのメインは、アントニオ猪木、坂口征二VS橋本真也、蝶野正洋。

控室で臨戦態勢に入っている猪木と坂口がインタビューに答えていた。

かつて黄金コンビとして最強を誇った二人だが時は移り、凋落と引退の影が忍び寄っていた。

相対するは、これから絶頂期を迎える若い力の二人。世代交代を印象付けるようなカードである。

アナウンサーが「もし負けるようなことがあったら・・・」と口を滑らせた。

猪木は怒り「出る(闘う)前に負けること考えるバカいるかよ!」とアナウンサーにビンタを喰らわす。

それは、猪木自ら、己を張って、自らに闘魂注入したような一撃だった。

人間誰しも、強大な難敵を迎えなければならないときがある。

そんなとき、この言葉を思い起こし、己に闘魂ビンタを浴びせたい。

これから、私も大きな敵を迎えるのだ。

 

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プロレスラー墓名碑2022  ~アントニオ猪木 ③

2023-01-18 | プロレス

プロレスラー墓名碑2022  ~アントニオ猪木 ③

 

<猪木をめぐる好敵手>

 好敵手とは力の拮抗した対戦相手、ライバルという意味であるが、プロレス界では、この言葉だけでは言い表せられない要素がある。

 いくら、力が拮抗していようと試合が嚙み合わなければ、名勝負は生まれないからだ。

 猪木は「スウイングする。」と表現していた。

 ジャズ音楽のウキウキするようなテンポのことだが、要するにお互いがノッテいる試合ができるということだろう。

 そのためにはお互いの力量を認めながら、尚且つ、波長が合わなければならない。

 ある意味、恋人と形容してもいいかもしれない。

 私感ではあるが、猪木の最初の好敵手は東京プロレス時代のジョニー・バレンタインだったろう。

 日本プロレス時代ではドリー・ファンク・ジュニアではなかったか。

 そして、新日本プロレスになってからは、タイガー・ジェット・シンだと思っている。

 そのころは、私も子どもだったから、シンほど悪い奴はいないと思って、彼を心底、憎んでいた。

 新宿でショッピング中の猪木・倍賞美津子夫妻を襲って、パトカーが出動するという事件まで起こしている。

 観客にも容赦なく襲ってくるシンは本当に狂っているのだと思っていた。

 そのころの新日本はTV局は付いているものの、招聘できる外人レスラーは殆どが二線級で興行的に客を呼べるレスラーはいなかった。

 有名どころは全日本にほぼ独占されていたからだ。

 新日本は自らの手で客を呼べるスター・レスラーを作らねばならなかったのだ。

 シンにしても、二線級から這い上がろうと必死だったにちがいない。

 ヒール・レスラーのTOPになるべく、彼は徹底して、自らをヒールに変えていった

 それは記者の目が届くプライベートにおいても、同様だったろう。

 猪木と新日本にとっても、シンがTOPヒールになることが自身と会社の盛衰のカギを握っていたのだ。

 シンがサーベルを振り回して猪木を襲うのを見て、「何と悪逆非道な!」と思っていたが、シンにサーベルを持たすことを思いついたのは実は猪木本人だったという説がある。

 こんなところにも、プロデユーサー猪木の片鱗を垣間見る。

 今から思うと新宿事件は広告宣伝費のかからないパブリシティだった。

 しかし、彼等の試合は「ショーだ!」などと嘲る人の言葉を宇宙に吹っ飛ばすくらいの命掛けの闘いだったのは間違いない。

 「本当に相手を殺すつもりだ」と感じるくらい、彼等は人生を掛けていた。

 

 

 リングを降りたシンは慈善活動家としても有名でカナダ政府に表彰されたり、東日本大震災で被災した児童への募金活動に取り組んだことでも知られている。

 相対的にだが、ヒール・レスラーの本性は善人であることが多いようだ。

 

 猪木は常々、「風車の理論」を唱えていた。

 力が拮抗していなくても、風を受けるように相手の技を受けて受けて受けまくって、相手の良さを最大限に引き出した、その上で更に上の力で相手を制すというもの。

 人の長所や良さを引き出すことに長けているとは、人間のスケールの大きさによるのだろうか。

 そんなふうに名勝負を作れたのも、猪木の特性だった。

 先ごろ、猪木の後を追うように亡くなったジョニー・パワーズも、その一人だった。

 ストロング小林、大木金太郎、マサ斎藤らもそうだった。

 当初はそんな試合をしていたが、猪木と闘ううちに、やがて、好敵手へと育っていったのは、スタン・ハンセンやハルク・ホーガン、藤波辰爾、長州力らだったろう。

 

 そして、猪木は最大の敵と相対していく。

 最大の敵とは「一般社会」、所謂、世間である。

 

 

 


プロレスラー墓名碑2022 ~アントニオ猪木 ②

2023-01-06 | プロレス

プロレスラー墓名碑2022 ~アントニオ猪木 ②

 

アントニオ猪木が脱兎の如く、ロープ最上段に駆け上がり、鷹のように空中から舞い降りて襲い掛かる。

フライングニードロップだ。猪鬼はキラー・コワルスキーになった。

プロレス界の暗黙の了解のひとつに他人の技を使ってはならないというものがある。

プロレスラーの必殺技は大切な商品であると同時に専売特許なのだ。

むやみに人真似することは許されない。

ところが、猪木はプロレスラーでありながら、プロレスラー・ファンなのであった。

彼は憧れのレスラーに成りきって、その技を駆使して見せる。

いつの間にか、彼だけに許された特権なのだろうか。

ダブルアーム・スープレックスの猪木はビル・ロビンソンになった。

バックドロップの猪木はルー-テーズになった。

ジャーマン・スープレックスの猪木はカール・ゴッチになった。

エルボーバットを繰り出す猪木はジョニー・バレンタインになった。

まるで、彼等との激闘の思い出を懐かしむように「掟破り」を敢行していた。

古舘伊知郎が「掟破りの逆サソリ」という名フレーズで藤波・長州戦をリリースするのは、それより、ずっと後のことであった。

「闘魂注入ビンタ」だという。

「1,2,3,ダアー!」と共に、猪木引退直前から引退後の彼の代名詞なのであるが、全盛期を知るものとしては、これほど、違和感を憶えるパフォーマンスはない。

鈍った人間にカツを入れるという意味では、確かに猪木は昔から使っていた。

出稼ぎレスラーというものがいる。

ギャラを稼ぐためだけに日本にやってきた外人レスラーのことだ。

彼等はケガをしないように適当なファイトでお茶を濁す。

もちろん、生活がかかっているのだから、それもわからないではない。

だが、オーナーでもある猪木はお金を払って見に来てくれるファンのため、それを許さなかった。

強烈なビンタを喰らわして彼等の闘争心を目覚めさせ本気を出させるのである。

攻撃型のビンタもある。

星野勘太郎が、このビンタを喰らって鼓膜が破れたというのを聞いたことがある。

「1,2,3,ダアー!」にしても、全盛期には1,2,3なんて、言わなかった。

観衆が同調するかなんて、お構いなし。

拳を天に向かって突き上げて、ダアーなのか、何か叫んでいただけなのか、わからないがシンプルな勝利の雄たけびだった。

自分のためだけに勝利の余韻と恍惚に浸っていたのだろう。

まさに燃えるようなギラギラした目と鋼の肉体に豹のような柔軟さ、バネを併せ持つ。

引退後の猪木しか知らないファンに、リアルイノキは本当に凄かったんだぜと自慢したくなる。


プロレスラー墓名碑2022  ~アントニオ猪木 ①

2022-12-29 | プロレス

プロレスラー墓名碑2022   ~アントニオ猪木 ①

 

 10月1日の朝10時ころだったろうか、突然、ネットニュースのディスプレイに猪木の訃報が流れた。

 ついに、その日がやってきたのだ。

 覚悟はしていたが、まるで、肉親の死に接したときのように深い喪失感と虚無感に襲われた。

 今更ながら、この男の存在が自分に与えた影響の甚大さに気づく。 

 予感はあった。

 いや、我々に予告するように彼はファンに向け「最後の闘魂」というユーチューブにより、刻々と変化する状態を発信していたのだから。

 難病に侵されてボロボロとなった猪木が、それでも病魔と闘う姿をファンにわざわざ見せるなんて、闘魂は最後まで、闘魂だった。

 慌てて、私も追悼となるブログ記事を1時間ほどで書き上げて、弔うように発信した。「闘魂、天に燃ゆ」

 ★★★

 猪木について語るには、もちろん、プロレスラーとしての猪木が基盤となるのだが、プロデューサー、事業家、政治家、哲人など、すべてのフェイスを包含しなければ意味をなさない。それくらい、スケールの大きな人だった。

 猪木の言うことを真に受けてはならないという人がいる。

 誠に常人の思考範囲ではとても理解できないところがあった。

 事業などに手を出さず、プロレス・格闘技だけに専念していればよかったのにという人がいる。

 そもそも、私利私欲の事業家ではなかったのだから、その観点は全く論を俟たない。

 人類規模の課題解決に挑むことこそ、彼のロマンだったのだから。

 もっとも、こんな現代のドン・キホーテ、ドリーマー猪木の側にいて、とんでもない目にあった人も多かったのも事実。

 ところが不思議なことに彼を憎んで去っていった人も、いつの間にか、またブーメランのように彼のもとに戻ってくる。

 そんな現象を書き始めたら、キリがなくなるので、第一回はレスラーとしての猪木にスポットを当ててみる。

 猪木が全盛期をやや過ぎたある日、新日会場である大阪府立体育館の一階の一番奥の席で観戦していて、ふと、あることに気がついた。

 一番奥の席であるにも拘らず、猪木の表情がはっきりと読み取れるのだ。

 猪木より大きな坂口であっても、表情まで、読み取ることなどできないのにである。

 猪木はリング上で人生を表現できる稀有のレスラーだった。

 俳優?ショー?いや、ちょっと違う。

 やはり、プロレスは村松友視いうところの独自のジャンルであり、猪木はガチンコの実力+αという観点で、その世界の頂点にいた。

 猪木の闘う姿に観客は感情移入し、ついには自身さえ、猪木と同化していった。

 イノキコールは自分自身の人生へのシュプレヒコールだった。

 観客ひとりひとりが猪木のファイトをみたあと、今度は自分が自分のリングで闘うために。

 

 

  
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闘魂・天に燃ゆ ~追悼・アントニオ猪木

2022-10-01 | プロレス

闘魂・天に燃ゆ ~追悼・アントニオ猪木

 難病と闘っている姿を最後の最後まで我々に発信してくれた。

 「苦しみの中から立ち上がれ!」

 全盛期に我々に発したメッセージは死ぬ直前まで変わることがなかった。

 子どものころから、ずっと生きる勇気をいただいてきたように思います。

 ありがとうございました。

 もう、闘わなくていいんですよ。

 ご冥福をお祈りいたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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プロレスラー墓名碑2021 ~ストロング小林

2022-01-09 | プロレス

プロレスラー墓名碑2021   ~ストロング小林

 

 晴天のへきれきとは、このことだろうか。

 ワンダースターでは、年末に「プロレスラー墓名碑」と銘打って、当年に没した個人的にインプレッシブなレスラーの記事をアップすることにしているのだが、2021年はその該当者がおらず、やれやれと思っていたところだった。

 というのも、年初には、闘病中のアントニオ猪木の容態がすこぶる悪いようで、もしかしたらと危惧していたのである。

 先ほどの”やれやれ”は定期的に猪木自身で発信しているSNSによると、持ち前の闘魂で危機を脱したかと思えたことにもよる。

 ところが、年末も押し迫った大晦日に、あの名勝負「猪木・小林戦」の一方の雄、ストロング小林が逝去されたというではないか。

 心の整理がつかないまま、ストロング小林を振り返ることにした。

 

 

 小林は60年代後半から74年2月まで、国際プロレスのエースとして、君臨していた。

 その後、猪木との試合を経て、新日本に移籍し、坂口征二とのコンビで活躍した。

 プロレスファン以外の方にとっては、引退後の俳優、「ストロング金剛」として、記憶されておられるかもしれない。

 国際プロレスは馬場や猪木のような大スターを擁しているわけではなく、興行的にも経営的にも苦しかったようだ。

 ただ、ストロング小林(当時は小林省三)は若い頃から、その実力やスター性を買われており、私ももっとも、注目していたホープだった。

 欧州遠征からの凱旋帰国試合はTVマッチだったが、南アフリカの大型選手ウイリアム・ホールのドロップキックを、まるで蠅を払うように空中で払いのけたのにはびっくりした。

 こんな日本人パワーファイターは見たことがなかった。

 その後、小林はビル・ミラーを破り、IWA世界ヘビー級王者となり、名立たる大物レスラーたちの挑戦を撃破し続けていた。

 そのストロング小林が国際を脱退して、馬場と猪木に挑戦するというではないか。

 当時のプロレスファンはびっくり仰天した。

 彼は性格的にも温厚で真面目で大人しい人だと報道されていたから、なおさら、その大胆な行動に驚いた。

 これは水面下で相当なことが蠢いていると誰もが感じた。

 今になって、様々なことが白日の下に晒されたが、やはり、その通りだった。

 国際内でのパワハラによる孤立、新日と全日の激しい興行戦争が背景にあった。

 国際と全日の妨害を恐れた過激な仕掛人、新間寿が試合当日、小林の自宅に泊まり込んで、会場に小林を連れて行ったというエピソードがそれを物語っている。

 とにもかくにも、これをきっかけに「猪木・小林戦」は実現した。

 この試合を機にプロレスファンになった人も多いと聞く。

 それくらいの名勝負となった。

 私にとっても、ベストバウトで未だに、毎日のように、あのシーンが脳裏をよぎる。

 

 

 

 これはPVでスタート時のさわりだけなのだが、緊迫感が今でも伝わってくる。

 ラストは小林が猪木を流血させたうえ、見事なブレーンバスターでキャンバスに叩きつけるも、猪木は間一髪、返す。

 小林はカナディアン・バックブリーカーに攻撃を変化させるも、猪木はリバース・スープレックスで返す。

 猪木は浮足立った小林をテーズ流バックドロップ、止めは伝説のジャーマンで仕留めた。

 簡単に言うとこうなのだが、解説し出すと、このシーンだけでも、枚挙にいとまがないくらい奥が深い。

 ただ、はっきり言えることは、敗れたといえ、この瞬間がストロング小林がレスラー人生の中でもっとも、輝いた瞬間だったということである。

 ご冥福をお祈りします。

PS.(プロレス美術館のバックナンバー記事より)

                   

 

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