聖母マリアを讃える青の壁画と聖堂 ~大塚国際美術館 陶板名画の旅 ④
大塚国際美術館に再現されている「聖ニコラオス・オルファノス聖堂」はビザンティン(東ローマ)帝国時代(紀元前315年)に建てられたギリシャ正教の聖堂でギリシアのテサロニキという街に建っている。
聖堂の入り口には、聖人ニコラオスが迎えてくれる。
入口右側に描かれた、ちょっと冴えない人物だが、この聖人こそサンタクロースのモデルである。
上の壁画には聖ニコラオスの生涯が描かれている。
聖母マリアを讃える青の壁画と聖堂 ~大塚国際美術館 陶板名画の旅 ④
大塚国際美術館に再現されている「聖ニコラオス・オルファノス聖堂」はビザンティン(東ローマ)帝国時代(紀元前315年)に建てられたギリシャ正教の聖堂でギリシアのテサロニキという街に建っている。
聖堂の入り口には、聖人ニコラオスが迎えてくれる。
入口右側に描かれた、ちょっと冴えない人物だが、この聖人こそサンタクロースのモデルである。
上の壁画には聖ニコラオスの生涯が描かれている。
「聖マルタン聖堂」は黄土色のロマネスク ~大塚国際美術館・陶板名画の旅 ③
「聖マルタン聖堂」(サンマルタン聖堂)はパリから300kmほど南にある小さな村、ノアン=ヴィック村に建つ聖堂。
淡い黄土色の地にくすんだ色調で人物や事物を描くこの聖堂の壁画は、典型的なロマネスク様式(ローマ風)と云われている。
10~12Cに建てられたローマ風のデザイン様式で厚い壁に小さな窓、そして円型のアーチ屋根が特徴的という。
鳴門にいるのに、ヨーロッパを旅しているような錯覚に陥りそうだ。
それにしても、くっつきあった、あの目付きは一体、何なんだろう。
大塚国際美術館・陶板名画の旅 ② ~エル・グレコの部屋
エル・グレコの大祭壇衝立画が次のサプライズ。
大祭壇衝立画の復元は陶板画に複製する「大塚国際美術館」にしか成し得なかった。
何故なら、大祭壇衝立画は19世紀初頭のナポレオン戦争で破壊され四散し、現在では幻の祭壇画となっているからだ。
スペインのプラド美術館にあるエル・グレコの5点の作品「キリストの 復活」(左上)、「キリストの磔刑(たっけい)」(中央上)、「受胎告知」(中央下)、「聖霊 降臨」( 右上)、「キリストの洗礼」(右下)にルーマニア国立美術館の「羊飼いの礼拝」(左下)を加え原寸大で推定復元したもの。
厳粛と威厳に満ちた壮観な空間がそこにはあった。
「キリストの磔刑(たっけい)」
「受胎告知」
「キリストの 復活」
エル・グレコ「オルガス伯爵の埋葬」サント・トメ聖堂、トレド(スペイン)
・エル・グレコ「聖アンドレアと聖フランシスコ」1590-1595年頃 プラド美術館(スペイン)
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大塚国際美術館・陶板名画の旅 ① ~システィーナ礼拝堂
徳島県鳴門市の「大塚国際美術館」を初めて訪れた。
山をくり抜いて建てたという情報通り、バス停横の入り口は山に面しており、山中に踏み入るよう。
長いエスカレーターを登り建物に入ると、それでもB3Fというから、最初から美術館のスケールの大きさに驚かされる。
まず、最初に現れるのがシスティーナ礼拝堂である。
システィーナ礼拝堂は、ローマ教皇の公邸であるバチカン宮殿にある礼拝堂でサン・ピエトロ大聖堂北隣に位置するその建物とともに、ミケランジェロ、ボッティチェッリら、ルネサンスを代表する芸術家たちが内装に描いた数々の装飾絵画作品で世界的に有名な礼拝堂だ。
とくにローマ教皇ユリウス2世の注文でミケランジェロが1508年から1512年にかけて描いた天井画と、ローマ教皇クレメンス7世が注文し、ローマ教皇パウルス3世が完成を命じた、1535年から1541年にかけて描いた『最後の審判』はミケランジェロの絵画作品の頂点とされている。
あまりのスケールの大きさに圧倒され、今まで訪れなかったことを悔いた。
今をときめく米津玄師の「lemon」の絵が掲げられていた。彼はイラストレーターでもあった。
紅白のとき、ここで「lemon」を歌ったのを思い出した。
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嵐山 鵜飼 ~かがり火や 水面に映る 鵜匠わざ
夕暮れの大堰川に浮かぶ鵜飼い船の舟先のかがり火が瞬いていた。
やがて、帳が降り始めると、水面に炎や灯りが映り、幻想的で美しい雰囲気に包まれる。
伝統的な装束に身を包んだ鵜匠が「ほうほう」と鵜たちに声を掛けながら、巧みな技で彼等と通じ合う。
鵜たちは次々と川に潜り魚を捕ると屋台船から歓声があがる。
鵜飼は古来より歌にも詠まれた伝統的な漁法である。
「大堰川うかべる舟のかがり火にをぐらの山も名のみなりけり」 在原業平
高石ともやさんを偲んで ~「私に人生と言えるものがあるなら」、そして、「街」
高石ともやさんのご訃報に接し、心よりご冥福をお祈りします。
「受験生ブルース」の時代は全く知りませんが、1980年代、全国各地のYHを使って旅するようになってから、各地で歌われている歌を通じて、高石ともやさんを知るようになりました。
特に「街」は北海道から沖縄まで各地の替え歌となり旅人によってご当地ソングのように歌われていたのが印象深いです。
私も最近、勤務地域にて、「街」の替え歌を作ってみました。
8月17日、病気のため死去。82歳でいらっしゃいました。
1960年代後半の日本のフォークソングの創世期以来、2020年代まで現役フォークシンガーとして活動し、また、マラソンランナーとしても活躍した。1960年代後半、全国各地でメッセージ・フォークを歌い、「受験生ブルース」などの話題作も発表。1970年代に入り、ブルーグラスやトラディショナル・フォーク、日本の民謡などを歌い始める。ザ・ナターシャー・セブンとして活動の他、宵々山コンサートを始める。
(ウイキペディアより)
嵐電 妖怪電車 ③ ~嵐山駅 「キモノ・フォレスト」
四条大宮駅を出発した「嵐電 妖怪電車」は、24分ノンストップ運行と妖怪たちのサービス?のあと、終点の嵐山駅に到着した。
大人気の妖怪電車は折り返し便も完売!のお報せ。
妖怪のお出迎え。
嵐山駅は観光客に溢れる駅であるにもかかわらず、改札口がない。
これは、「電停のある小さなまち」がコンセプトの、まちづくりの一環で、改札口を廃止した結果、マルシェと一体となり、開放感がある駅となった。
おまけに足湯まである。
また、「友禅の光林」とも称される「キモノ・フォレスト」が駅を彩る。
「キモノ・フォレスト」とは、京友禅の生地をアクリルで包み、高さ約2mのポールにしたものを駅構内や線路脇のいたる所に設置し、京友禅の林に見立てたもの。
嵐山駅の敷地全体を覆い尽くす京友禅の柱はなんと600本というから、圧巻である。
お隣の嵯峨駅の嵐電。
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嵐電 妖怪電車 ② ~阿鼻叫喚の妖しトレイン
漸く乗り込んだ妖怪電車車内は薄暗いブラックライトの中、骸骨やお札などが不気味に浮き上がる絶妙のインテリアが施されている。
嵐山まで24分間ノンストップの妖しトレイン。
突然、乱入する妖怪たちに怖がる子どもたちの阿鼻叫喚っぷりで盛り上がる車内。
「無理やってぇい!!怖いってぇい!!」と怖がる若い女の子たちが微笑ましい。
平気顔の子どもよりも怖がってくれる女性の方が妖怪冥利に尽きるというところか。
ここだけの話。乱入した本職妖怪よりも、ずっと不気味な乗客がいた。もしかしたら、ホンモノかも!?
嵐電 妖怪電車 ① ~四条大宮駅・魔界への改札口
京福電気鉄道の嵐山本線は四条大宮駅と嵐山駅間7.2キロを24分で結ぶ人気路線で「嵐電」と呼ばれている。
その嵐電では、毎年8月後半頃に「嵐電 妖怪電車」というイベントが行われる。
照明を落とし、おどろおどろしいBGMを流した特別列車の車内に、妖怪が乗り込んでくる。
四条大宮駅前には出発の2時間以上前から特別乗車券を求める長蛇の列ができていた。
何といっても、嵐山行の妖怪列車は夕刻の2便しかないうえに定員は1便130名である。
私が到着したのは1便出発の1時間半前で当然ながら1便には乗車できず、3時間以上待って、最終の2便にどうやら乗り込むことができた。
上の行列写真、注意が必要だ。妖怪が紛れ込んでいるかもしれない。
魔界の駅員が切符の確認にやってきた。
妖怪電車がホームにスーっと、すべりこんできた。
妖怪たちが降りてくる。
大念佛寺・万燈会 ~お盆の送り火
平野区の融通念佛宗の総本山、大念佛寺で8月16日、万灯会法要が営まれた。
お盆に戻ってこられたお精霊を、灯明でお送りお還しすると同時に、戦没者慰霊と世界平和も祈る。
一灯一灯の祈りは万灯の祈りになり、また万灯の祈りは個々の一灯の祈りに繋がるという。
お盆のたびに日本のこころは美しいなと思う。
8月25日(日)には恒例の「町ぐるみ博物館」の全館一斉オープンデーを迎えるが、中核となる全興寺はお化けと妖怪に染まることになる。
月末には大念佛寺の「ザ・ゴースト・ミュージアム」もオープンするので、少しは涼しくなってもらいたいものだ。
エッセイ「 ‟どんどこ” が聞こえる。」 ~初盆と「三丁目の夕日」
母は毎朝、家族の誰よりも早く起きて、家事にドタバタとしていた。
当時、団地住まいの家で私の部屋は台所の真横だったため、毎朝、このドタバタで目覚めることになる。
このドタバタが “どんどこ” に聞こえたのは母が偏平足で床を踏むためだった。
また、私の寝床はベッドではなくて、畳に布団というスタイルだったため、床の振動が直に鼓膜に響いたせいらしい。
とにかく、この ‟どんどこ” が当時、目覚まし時計の代わりにもなっていた。
母は専業主婦だったわけではなく、家族が出ていったあともパートや勤めで忙しかったのに、私が帰るころには夕餉の支度にも抜かりなかった。
毎度毎度の食事の支度に感謝しながらも、いつかは恩返ししなければと朧気ながら思っていた。
あれから、幾星霜。
両親と何十年か振りに同居することになった。
両親の老衰は日毎に進行していく状態だった。
長い闘病の末、父を見送ると同時に母の急激な衰えも顕著になってきた。
それでも、すぐにドタバタと動く性格故、家の中で何度か転倒と骨折を繰り返し、ついには要介護4(殆ど寝たきり状態)となった。
いつの間にか、毎朝のドタバタも私がやるようになっていた。
そして、気がつくと、私も ‟どんどこ” と床を踏んでいた。
私も偏平足だったのだ。
夜中に下の世話や錯乱のため何度も起こされるので殆ど眠れない日が続いていた。
仕事しながらの介護生活は果てしなく続くように思われた。
今朝方、ベッドの中でまどろんでいると、久々に ‟どんどこ” が聞こえたような気がした。
初盆の朝を迎えていた。
仏壇に手を合わせると母はいつものように穏やかに微笑んでいた。
(あずき煮えた)
久々に西岸良平先生のコミック「三丁目の夕日」を読んだ。
雑誌サライ7月号の付録に「三丁目の夕日」の特別編集本が付いていたのだ。
コミック本は殆ど読まない私だが、「三丁目の夕日」だけは別で断捨離の際にも、捨てきれずに未だに何冊か保有している。
懐かしい昭和のアイテムが幾つも登場し、郷愁を誘いながらも、どこかに忘れてきたような、ほろっとした人情を思い起こさせる。
「ALWAYS 三丁目の夕日」として映画化もされた。
「ALWAYS」という言葉には、「いつまでも変わらないもの、いつまでも変えてはいけないもの」といったメッセージが込められているそうだ。
「 ‟どんどこ” が聞こえる。」は、「三丁目の夕日」の読後に書いたエッセイなので、そのインフルエンスが多少、あるかもしれない。
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なら燈花会 ② ~ほの灯りに包まれて
浮御堂をあとに会場を廻る。
浅茅ヶ原、国立博物館前、浮雲園地、春日野国際フォーラム甍、猿沢池。
暑さと人いきれにうんざり気味だったのが、浅茅ヶ原での「ほの灯りライブ」が一服の涼となり、一息つくことができた。
牧野由希子さん&松井優樹さんのギターとフルートに癒された。
興福寺五重塔の見えない猿沢池も今だけの風景。
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なら燈花会 ① ~浮御堂のリフレクション
毎度毎度の「なら燈花会」の散策であるが、今回だけは4年振りとなる。
まず、いつも通り、一番のお気に入り、奈良公園・鷺池に浮かぶ「浮御堂」からスタート。
「浮御堂」は檜皮葺き(ひわだぶき)、八角堂形式(六角形)のお堂で、周囲を蝋燭の炎で照らされると鷺池に映るリフレクションが美しい。
向日葵が咲く丘で ~「永遠の一瞬」
ぎらつくような夏の太陽光を一身に受けて咲く向日葵。
あのころは向日葵のように暑さなんて、お構いなしに夏空の下で躍動していた。
時は知らぬ間に駆け抜けていったが、煌めいた想い出が今でも色褪せないのは、
きっと、あの時が「永遠の一瞬」だったから。
向日葵が咲く丘を歩けば、また、君に会えそうな気がする。
母・一周忌に寄せて ② ~絵画は生きた証
母はいつも働いているイメージがある。
家事に内職に勤めに奉仕活動に介護に・・・と。
それでいて、これほどの絵画を遺しているとは思わなかった。
死んで初めて目にする俳句や絵画の数々にただ驚くばかりだ。
私はこの人をほんとは知らなかったのかもしれない。
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