徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

式子内親王と藤原定家

2024-03-22 20:45:44 | 歴史
 先日、学習院大文学部を卒業された天皇、皇后両陛下の長女愛子様は、卒業論文に「式子(しょくし)内親王」を取り上げられたとニュースで報じられた。式子内親王とは、後白河天皇の第三皇女で、平安時代末期から鎌倉時代初期に生きた「新古今和歌集」の女性歌人の代表といわれる。不勉強で式子内親王が詠まれた歌を知らないので「新古今和歌集」をパラパラとめくってみた。春の歌の中に次の式子内親王の歌があった。

  いま桜咲きぬと見えてうすぐもり春に霞める世のけしきかな

 愛子様卒業のニュースを聞いて僕がまず連想したのは「定家葛(テイカカズラ)」(下の写真参照)のこと。「定家葛」の名は、式子内親王を愛した藤原定家(ふじわらのていか)が、死後も彼女を忘れられず、ついにテイカカズラに生まれ変わって彼女の墓にからみついたという伝説に基づく能「定家」から付けられたという。
 もう3週間もすればわが家の近辺にもテイカカズラがそこらじゅうに白い花を咲かせ甘い香りを漂わせる。テイカカズラは繁茂の勢いが凄い。定家の妄執の強さを感じてしまう。


テイカカズラの花

   ▼能「定家」(シテ:観世清河寿)

清原元輔と立田山

2024-03-02 21:44:22 | 歴史
 藤崎八旛宮に弥生の朔日詣りをした後、ふと境内の清原元輔(清少納言の父)の歌碑のことを思い出した。大河ドラマに元輔が登場したことが頭の片隅にあったからだろう。何度も見ているのだが、あらためてじっくり見てみようと歌碑のところへ向かった。ちょうど神職の方が付近を高帚で掃いておられた。「コンニチワ」と声を掛けると「元輔の歌碑を見に来られたのですか?」とたずねられ、それからひとしきり元輔談義が続いた。

 元輔が肥後国司として赴任した時、濃い緑に覆われ「黒髪山」と呼ばれていた山を見て、ふるさと大和の龍田山を偲んで「龍田山」と名を改めたと伝えられる。「黒髪山から龍田山」への改名については諸説あるが、熊本出身の民俗学者・谷川健一も「列島縦断 地名逍遥」においてその説を紹介している。

 ところで前々から抱いていた疑問だが、山の改名が元輔の発案だとすれば、いったいどこから「龍田山(立田山)」を眺めたのだろうか。国司ともなれば一日の大半を国衙の中で過ごしたと考えられるが、元輔の時代の肥後の国府は「飽田国府」現在の二本木地区である。場所は現在のKAB(熊本朝日放送)付近と推定されている。江戸後期、熊本藩士・八木田桃水が著した「新撰事蹟通考」によれば、「国府ハ飽田郡宮寺村ニ在其遺基ヲ今古府中ト称ス、是国守ノ治府ナリ」とあり、平安初期以後の国府跡という。「地志略」に「石塘を出て南蓮台寺の前、東は白川、西は高橋に通ふ大道を限つて古の府なり」と位置を示している。

 それでは、飽田国府から立田山ははたして見えたのだろうか。直線距離にして約6㌔、今日のように視界を遮る建物は無かったとしても立田山の高さはせいぜい150㍍の低山である。この距離で大和の龍田山を想う情趣を味わえただろうか。国府を出た位置で立田山を眺めたことも大いに考えられる。たとえば京町台地の上から。飽田国府から真っすぐ北へ、大宰府へ向かう官道があったと考えられている。今日も残る薬師坂を登り、元輔の時代すでに創建されていた藤崎八旛宮の脇を通ると後に豊前街道となる道と重なる。京町台地に上れば当時は立田山が手に取るように見えたに違いない。在任中、大宰府には何度か往来があったかもしれない。
 また立田山西麓にも、蚕飼(子飼)から鞠智城の脇を通って大宰府に向かう車路(くるまじ)と呼ばれる官道もあった。そちらは立田山を間近に見ることができただろう。



清原元輔の歌碑(藤崎八旛宮境内)


歌碑の解説プレート


清原神社(北岡神社の飛地境内)


清原神社の祠に納められた座像四体


「飽田国府」のあった場所と推定されているKAB(熊本朝日放送)。


熊本朝日放送の位置



薬師坂(大宰府へ向かう官道の一部)


茶臼山時代の藤崎八旛宮配置図(上が東)


京町台から望む立田山


立田山西麓の官道(車路)

宇土櫓の復旧に向けて

2024-02-29 22:19:13 | 歴史
 現在、解体保存工事が行われている熊本城宇土櫓は、400年以上前の築城当時の姿を今に伝える「国指定重要文化財」です。現状の姿は素屋根に覆われて見ることはできませんが、近々、一般観光客も素屋根の中に入って工事の様子を間近で見ることができるようになるそうです。おそらく復旧工事が終わったらこんな近くで見ることはできないでしょうからぜひ見に行きたいものです。なお、復旧工事の完了予定は2032年です。


素屋根を覆うシートには熊本地震前の宇土櫓の写真が印刷されています。


熊本地震前の宇土櫓(加藤神社鳥居前から)


熊本地震前の宇土櫓(西出丸広場から)


川瀬巴水が描いた昭和23年頃の宇土櫓


昭和2年に行われた解体再建工事前の宇土櫓


昭和13年(1938)日独防共協定を結んでいたナチスドイツの青少年組織ヒトラーユーゲントが来日。
宇土櫓前で記念撮影


 昭和25年頃、今の加藤神社前が駐車場となっていた。大型観光バスによる観光ブームの始まり。

おそらく「宇土櫓」が歌詞に登場する唯一の唄「五十四万石」

檜垣媼と二本木遊郭

2024-02-28 22:36:49 | 歴史
 一昨日の記事「観能記~檜垣~」の関連記事ということで、今日は「檜垣媼と二本木遊郭」の関係について。
 檜垣が白川のほとりに結んだ草庵が寺歴の始まりという蓮台寺(熊本市西区蓮台寺2)には、檜垣の墓石とも伝えられる「檜垣の塔」がある。この塔は室町時代にはすでに著名であったという。この塔のまわりを取り囲む玉垣の寄進者名が塔の門柱に刻まれている。この玉垣は昭和10年に熊本市の水前寺北郊で開催された「新興熊本大博覧会」の際に造られたものらしい。そしてその寄進者名には二本木遊郭の妓楼名がずらりと並んでいる。なぜ、二本木遊郭がこぞって寄進したかというと、檜垣が遊女たちの守り神として崇敬されていたからである。女流歌人として知られる檜垣は若い頃、都の白拍子(しらびょうし)だったと伝えられる(世阿弥の創作だという説もあるにはあるが)。白拍子というのは高貴な人たちを相手に歌舞を行なう遊女だったといわれる。二本木遊郭の遊女たちは、ほど近い蓮台寺に祀られた檜垣を心の拠りどころとして生きていたのだろう。
※右の写真は檜垣媼座像(蓮台寺所蔵)


蓮台寺山門


檜垣の塔

▼檜垣の塔の門柱に刻まれた寄進者名
【左】
世話人 富貴楼、橋立楼、日本亭
寄付者 八起楼、豊遊楼、幸支店、松島楼、小松楼、第一翁、高砂支店、八千代楼、越楽楼、
    益城屋、第二翁、二葉楼、昭和楼、旭屋、第二日本亭、老松楼、清漣楼、第二三遊楼、
    一心楼、旭屋支店など
【右】
発起人 蓮台寺、幸楼本店、清川楼
寄付者 鴬楼、湊川楼、福恵楼、花月楼、相生楼、一楽、板倉楼、松ヶ枝楼、銀杏閣、舞鶴楼、
    大富楼、松琴楼、美人荘、松亀楼、博多楼、第二一楽、松屋、三遊楼、梅ヶ枝、都本店、
    東京亭、松濱楼、有明楼、都支店、第二松鶴
※不鮮明なため一部誤りや遺漏があるかもしれない。

徳川宗春のゆめのあと と「伊勢音頭」

2024-01-26 21:08:55 | 歴史
 自分がYouTubeにアップした動画が意外なところに貼り付けられているのを発見すると、嬉しさとともに「なんで?」と訝しむ気持が相半ばする。
 そんな例の一つが「徳川宗春の実像」と題するサイトのブログに貼られた「伊勢音頭」の映像である。このサイトの主宰者はどなたかわからないが、おそらく名古屋の方なのだろう。
 徳川宗春といえば徳川吉宗のライバルと目された大名ということは「暴れん坊将軍」程度の知識しかない僕でもわかっているが、このサイトを走り読みさせていただくと、徳川御三家筆頭の7代尾張藩主となった宗春が、吉宗の緊縮財政政策に対し、地域活性化のため積極財政政策をとったそうだ。そして、宗春は新地を開いて設置した三つの遊郭(西小路遊廓・富士見原遊廓・葛町遊廓)に公許を与えた。そのうちの西小路遊郭は伊勢古市から来た経営者や遊女が主体だったらしい。いきおい伊勢色が強い遊里となったが、「伊勢は~」で始まる伊勢河崎の「河崎音頭」がヒットし「伊勢音頭」と呼ばれるようになったという。そんなわけで、西小路遊廓と「伊勢音頭」は切っても切れない関係になったというわけ。


俗説「檜垣のこぼし坂」

2024-01-18 20:44:21 | 歴史
 昨日の熊日新聞ローカル版の連載コラム「坂道を上れば」に「桧垣のこぼし坂」が取り上げられていた。内容的には既知のことがほとんどだったが、10数年前の蓮台寺訪問をきっかけに、檜垣媼の功徳の道のことを調べ始め、現地訪問や資料調べなどを通じて得た知識をブログに随時載せてきた。そこで一度これまでの概要をまとめてみることにした。

 一昨年、熊本市で行われた「第4回アジア・太平洋水サミット」で、天皇陛下がオンライン講演をされ、平安時代の閨秀歌人である檜垣嫗の歌
 年ふれば我が黒髪も白河のみづはくむまで老いにけるかな
を「水の都くまもと」のたとえに引かれた。
 檜垣媼は白川の畔、今の蓮台寺辺りに結んでいた草庵から、篤く信仰する岩戸観音へ閼伽の水を供えるため、水桶を担いで四里の道を日参したと伝えられている。その道の最大の難所が後世に「檜垣のこぼし坂」と呼ばれた山道である。高齢の檜垣媼の足もとがふらつき、水桶の水をこぼしこぼし登ったので誰が言ったか「檜垣のこぼし坂」と呼ばれたという。檜垣媼は室町時代に世阿弥が創作した能「桧垣」のモデルとなったが、世阿弥の能では百歳に及ぶと思しき老女として登場するので、こぼし坂の話もさもありなんと思われるのだが、日本古代中世文学の研究家である妹尾好信教授(広島大学)によれば、「後撰集」に選ばれたこの歌は、旧知の藤原興範と再会した時、挨拶として詠まれた当意即妙の歌なのであって、決して実際に彼女が「みずはぐむ」老女であったわけではなく、女盛りを過ぎた年齢になったことを誇張して言ったまでで、実際の年齢は三十代かせいぜい四十歳くらいだったのではないかという説を唱えている。檜垣媼が藤原純友の乱のあおりを受けて零落し、肥後白川の畔に流れてきたのはまだ三十代の頃という説もあり、水桶からこぼしこぼし登ったという「檜垣のこぼし坂」の伝説にも疑問符が付く。しかも、檜垣媼は後年、岩戸観音近くの「山下庵」に移り住んだとも伝えられている。
 また、異説もあって、その昔、この坂を登ったところに寺があり、その寺の小法師(こぼし)さんがよくその坂を上り下りしていたので「こぼし坂」と呼んだという俗説もある。
 歴史上の人物には後世の人々によって創造された話が伝説となっていることも多いが、それもまた歴史のロマンと言えるのかもしれない。
※上の写真は蓮台寺に伝わる檜垣媼像


金峰山を望みながら旧松尾東小学校の前を通り過ぎ、ひたすら急坂を登っていく。


上松尾の集落を通り抜け


みかん畑の中を登って行くと


「桧垣のこぼし坂」の標柱が立てられた地点に着く。


標柱の辺りには山水が湧いているが、かつてここには小さな泉があった。


標柱には「桧垣のこぼし坂」の由来が書かれている。




   ▼創作舞踊「檜垣水汲みをどり」

熊本の風景今昔 ~厩橋(うまやばし)~

2024-01-17 19:07:20 | 歴史
 かつて熊本城の内堀として、また物流の大動脈として城下の経済や生活を支えた坪井川。この坪井川には多くの橋が架けられていますが、中でも今日最も渡る人や車が多い橋の一つが厩橋(うまやばし)ではないかと思います。熊本藩主の住まい「御花畑屋敷」の馬場や厩(馬小屋)の目の前にあったためこう呼ばれるようになりました。
 下の2枚の写真の間には150年の時の隔たりがありますが、時代の流れを感じさせます。


明治初期に冨重利平が撮影した厩橋


現在の厩橋


 この絵図は熊本大学付属図書館が寄託された永青文庫資料のうちの一つで、明治時代初期に赤星閑意によって描かれた「熊本城東面図」。東側上空からの鳥瞰図となっている。流れている川は、江戸時代に内堀としても使われていた坪井川。二つの橋が架かっているが、左側が厩橋(うまやばし)で手前の廓状になったところに厩(馬小屋)があったのでこの名が付いた。現在の厩橋と位置は変わらないので厩のところに現在の熊本市役所が建っていることになる。従ってその外側の広い道が今の電車通り。厩橋を渡ったところが須戸口門で、竹の丸へ通じている。右側の橋は藪ノ内橋(やぶのうちばし)で現在高橋公園の谷干城像があるあたりに架かっていた。川が右に曲がった奥に見える橋が下馬橋(げばばし)で、現在の行幸橋とほぼ同じところにあった。その左側に見えるのが広大な藩主の御花畑屋敷である。川の左岸には船着場があり、水運による物流が盛んに行われていた。天守閣の後ろにそびえる最も高い山が金峰山である。

   ▼厩橋で踊る(2015.2.1 熊本城稲荷神社初午大祭 舞踊団花童)

名店と女将

2024-01-06 22:50:24 | 歴史
 3年ほど前、フォローさせていただいているブログ「水前寺古文書の会」さんの「明治42年頃の熊本の遊びどころ」という記事の「料理屋 附 待合」の部には、当時の人気店が23店舗ほど紹介されていて、その中になんと、今のわが家の隣りに「一休」という料理屋があったことに驚いたことを書いたことがある。
▼「水前寺古文書の会」さんの記事内容 
 一 休  京町2丁目132番地 電話158番 女将 森しげ子
 開業日猶浅しと雖も、眺望の絶佳なると、土地の閑静なると、包丁の美なるとを以て次第に盛名を博せり。地は京町の高台に在るを以て望界甚だ広く、居ながらにして遠くはあその噴火より近くは竜田の翠色坪井の万甕を眸裏に収め、眺望の佳なる此の楼に及ぶものなし。女将は西券でならした芸娼お繁といふ女宰相なり。得意料理は木の芽田楽。

 わが家の旧番地は「京町2丁目131番地」。つまりお隣さんというわけだ。この料理屋のことをくわしく知りたいと思い、いろいろ手を尽して調べたのだが、いかんせん115年も前のこと。知っている人はもちろん、書かれた史料も見つからない。47年前に他界した祖母は何か聞いていたかもしれないが、つれあいを亡くした祖母が小学生の父と叔父を連れて今の家に越してきたのは大正時代の終わり頃。料理屋のあとにはYさんという地主さんが既に「八景園」という茶店を出していたらしい。
 この料理屋「一休」の女将は西券でならした芸娼お繁とあるが、西券というのは二本木遊郭内にあった西券番のことで、「明治42年頃の熊本の遊びどころ」の中に次のように紹介されている。

 この券番は芸妓の線香所又は集会所といふを当れりとす。即ち芸妓一同の申し合せを以て組織せるものにして、別に営業主なるものなし、此券番に於て寧ろ芸妓が主にして券番は従たるなり。同券は前にも記せる如く、歴史の古きと、名妓と美姫とに富むを以て毎夜箱切れの有様なりといふ。

 つまり、芸妓たちが主体的に運営していた券番で、才色兼備の芸妓が多かったようでお繁もその中の一人だったのだろう。


太平洋戦争開戦の日

2023-12-08 17:24:53 | 歴史
 今日12月8日は太平洋戦争開戦の日。父にとって82年前のその日がどんな日だったのか、あらためて父の回顧録を読み直してみた。(2011.12.7 記事再掲)



昭和29年頃の紺屋今町周辺。白川に沿って走る道路が国道3号線。白川べりのビルが防空監視哨があった元九電熊本支店。


戦時中、父が勤務した三菱熊本航空機製作所で製造された爆撃機「飛龍」

夏目漱石旧居と謡

2023-12-02 22:36:04 | 歴史
 昨日、朔日詣りで藤崎八旛宮へ行く時、夏目漱石の熊本第六の旧居前を通りかかると隣接地の建物が解け、さら地になっていることに気付いた。第六旧居は熊本市が買い取って整備すると聞いているが、何か関連施設でもできるのだろうか。
 それはさておき、しばし立ち止まって標柱をあらためて読んでみた。次のように書いてある。

 漱石が熊本で過ごした最後の住居で、明治33年4月から熊本を去る33年7月までの3ヶ月住んだ後、上京し同年9月には英国留学へと旅立ちました。家主である磯谷氏一家の努力によって漱石のいたままのおもかげがそのまま残されています。漱石のここでの作に
 「鶯も柳も青き住居かな」
 「菜の花の隣もありて竹の垣」
の句があります。

 最初の句を読んでふと気付いた。漱石が第五旧居に住んでいた頃に始めたといわれる謡のなかでも好んで呻っていたという「熊野」の詞章に似たような一節があったような。帰ってから調べてみた。
 終盤、宗盛が熊野の東下りを許す前、熊野が世の諸行無常を儚むくだりで、「花前に蝶舞ふ紛々たる雪。」という熊野の謡に続いて、「柳上に鴬飛ぶ片々たる金」という地謡の一節がある。穿ち過ぎかもしれないが、後架宗盛とあだ名されるほど漱石が好んでいた「熊野」だけに、この一節が頭の隅にあったのかもしれない。

▼漱石第六旧居(熊本市中央区北千反畑町)


▼漱石第五旧居(熊本市中央区内坪井町)


▼漱石第三旧居(熊本市中央区水前寺公園)


 この「熊野」を下敷きに作られた長唄「桜月夜」には次のような「熊野」の詞章がそのまま使われている。
春雨の降るは涙か桜花 散るを惜しまぬ人やある
都の春は惜しけれど 馴れし東の花や散る
いとまごいして東路へ 花を見捨てて帰る雁


紅葉を眺めながら

2023-11-27 20:28:44 | 歴史
 熊本城域の紅葉もピークを過ぎつつあるというので、夕方になってから見に行った。旧細川刑部邸の紅葉をひと通り見た後、正門を出ようとすると係の男性が大銀杏の前に立っておられたので「だいぶ散りましたね」と声をかけた。それからしばらく大銀杏談議が続いた。話題が刑部邸の移築の話に移った。子飼から三の丸への移築の話が続いた後、この地にはかつて化血研(化学及血清療法研究所)があり、僕が子供の頃には売血で生計を立てる人が毎日列をなしていたので、祖母からは近づかないよう言われていたという話をした。その男性が一瞬複雑な表情をした後、「実は私の92歳になる母が昔、化血研で働いていたんですよ」と言われた。僕は「しまった!」と思ったが時すでに遅し。「あゝそうでしたか」と返すしかなかった。世の中、どこで誰に会うかわからないなぁと思いながら帰路についた。


熊本城監物櫓と大銀杏


旧細川刑部邸御宝蔵と紅葉

旧細川刑部邸にて

2023-11-21 17:29:25 | 歴史
 先日覗いたが紅葉が進んでいなかったので今日再び旧細川刑部邸を訪れた。この数日でだいぶ色づきもよくなった。
 来年度から熊本地震で被災した建屋や塀などの復旧工事に入るため5年間閉鎖される予定だという。春の梅🌸の時季そして秋の紅葉時季もしばらくは見ることができない。
 この屋敷は初代熊本藩主となった細川忠利の異母弟、細川興孝が興した刑部家の下屋敷を、平成2年から4年がかりで東子飼町から現在の熊本城内三の丸に移築されたもの。わが家の菩提寺である浄照寺(西子飼町)のご住職の話では、移築した当時は既に細川刑部家につながる方は住んでおられなかったらしい。
 細川家の研究をしておられる津々堂さんによれば、刑部家は嫡家を始めとして四家に分かれており、わが父が幼い頃お世話になった立田長岡家はその一つだそうである。


旧細川刑部邸のシンボルとなっている大銀杏


来園者は紅葉を背景に盛んに写真撮影


復旧工事が終わればまた熊本地震前のように建屋の中も見学可能となるだろう

熊本と福井の関係

2023-11-10 18:55:25 | 歴史
 このところNHK「ブラタモリ」は福井づいている。すなわち
  • セレクション 「福井 〜福井のルーツは“消えた都市”にあり!?〜」(11/2)
  • 「敦賀〜すべての道は敦賀に通ず?〜」(11/4)
  • 「鯖街道・京都へ〜鯖街道は何を運んだ?〜」(11/11)
 福井市は熊本市の国内唯一の姉妹都市である。姉妹都市となったのは、経済や産業面での共通点もさることながら、1840年に肥後熊本藩10代藩主・細川斉護公の三女である勇(いさ)姫が、越前福井藩主・松平春嶽公へ輿入れし、姻戚関係になったことや、熊本藩士で儒学者の横井小楠が福井藩に招聘されて藩政改革にあたるなど深い歴史的関係があったことが大きな要因になったようだ。
 2014年10月には熊本城二の丸広場で開催された「秋のくまもとお城まつり」で「熊本市・福井市姉妹都市締結20周年記念イベント」が行われた。
 そんなわけで福井には個人的にも親近感があり、彦根在勤時には小浜・若狭・美浜・敦賀あたりを旅したり、仕事では若狭から京都に至る「鯖街道」も通った。熊本の鶴屋百貨店で過去何度か行なわれた「福井県の物産と観光展」では絶品の鯖の一夜干しを購入したこともある。
 そして何よりも好ましい印象となっているのが、わが母校済々黌水球部がこれまで二度、福井市の大会で全国制覇をしていることである。


2014年10月10日 熊本市・福井市姉妹都市締結20周年記念イベント


高橋公園(熊本市千葉城町)の維新群像。左から坂本龍馬、勝海舟、横井小楠、松平春嶽、細川護久


勇姫と奥女中たち

標石が語るもの

2023-10-28 21:05:10 | 歴史
 熊本城周辺を歩いていると、ところどころで「陸軍所轄地」と刻まれた標石がひっそりと佇んでいるのを見る。明治4年から昭和20年の終戦までの74年間、熊本城が日本陸軍の用地だった歴史を示す遺物なのである。
 明治4年(1871)に鎮西鎮台が熊本城に置かれたことに始まり、以後、明治6年(1873)には熊本鎮台、明治21年(1888)には第六師団へと変遷した。この間には神風連の乱や西南戦争の現場となった。その後、日清・日露戦争、日中戦争そして太平洋戦争と軍事基地として派兵・兵站の拠点となったのである。
 散歩の足をとめて標石をじっと眺めていると、ここで軍務に就いた人、ここから戦地へ赴いた人など多くの人々の魂が込められているような気がしてくる。


監物櫓下の標石


熊本地震からの復旧なった監物櫓


かつて陸軍施設が軒を連ねていた二の丸広場

新堀のみなと

2023-10-12 21:43:54 | 歴史


 今日、千葉城町から磐根橋のたもとまで歩いて来た時、ふと思いついて下の県道への曲がりくねった坂道を降り始めた。途中で県道の向こう側に錦坂と暗渠化された坪井川の旧流路が見えたのでしばらく眺めていた。明治時代の一時期、ここが港だったなんて気づく人はまず居るまい。
 父の教員仲間だったI先生が師範学生時代の昭和10年にまとめた京町についての研究レポートがある。各種文献や地区の長老の話などをまとめたものであるが、その中にこんな記述がある。

――商業都市としての京町の本通りには遊郭が生じて、今の加藤神社(新堀)の所は坪井川の河江の港として、天草、島原よりの薪船等が、百貫の港のようにどんどん港付し、一つの港町として栄えたのである。ゆえに港町にふさわしい遊郭ができるのももっともである。――

 明治7年に錦山神社(後の加藤神社)が城内から新堀に遷座した時、下を流れる坪井川の舟客が錦山神社に登るために付けられたのが錦坂なのであるが、ほぼ同時に京町・新堀に公許の遊郭が開設され、京町・新堀は「聖と俗」混淆の町と化したのである。しかし明治10年に起きた西南戦争の兵火によって錦山神社は社殿を焼失、京町遊郭も焼失して再建を断念した。舟客が陸続と舟付けした新堀の港もわずか3年余という短い繁栄に終ったのである。
※右の写真は坪井川園遊会での舟運の再現イベント