父が幼い頃(大正時代初期)、お坊っちゃまの遊び相手として毎日伺候した泰勝寺の長岡家では、おやつとして肥後の銘菓がふるまわれたという。父はそれが楽しみで毎日通っていたようだが、父の手記には熊本一流の菓子舗、福栄堂や米屋(よねや)の高級和菓子としか書いてなく、どんなお菓子だったのかはわからない。六間町にあった福栄堂も七軒町の米屋も今はないので、それぞれの菓子舗でどんなお菓子が作られていたのか調べてみたが、福栄堂の「さおしか」という和菓子が人気商品だったらしいことだけがわかった。おそらく父もこの「さおしか」を食したことがあるに違いない。
この「さおしか」というのは「小牡鹿」と書いて若い牡鹿のことだ。万葉集の中にも度々この言葉が出てくる。そして今日では「さおしか」と言えば徳島県の銘菓として知られている。福栄堂の「さおしか」と同じお菓子なのかどうかはわからないが、徳島の「小男鹿本舗冨士屋」の創業者はもとは江戸の武士だった人で、明治時代の前期に江戸菓子をベースに「さおしか」を考案したといわれる。このお菓子が熊本に伝わったのか、はたまた偶然名前だけが同じで別ものだったのか、食べたことがある方が健在であればぜひ聞いてみたいものだ。
ちなみに「さおしか」が詠まれた和歌を一首
我が岡にさを鹿来鳴く初萩の花妻どひに来鳴くさを鹿 (大伴旅人)
(わがをかに さをしかきなく はつはぎの はなつまどひに きなくさをしか)
(大意)私の岡に若い牡鹿がやって来て、まるで萩の花に求婚をするかのように鳴いている。
▼今日の泰勝寺(立田自然公園)
この「さおしか」というのは「小牡鹿」と書いて若い牡鹿のことだ。万葉集の中にも度々この言葉が出てくる。そして今日では「さおしか」と言えば徳島県の銘菓として知られている。福栄堂の「さおしか」と同じお菓子なのかどうかはわからないが、徳島の「小男鹿本舗冨士屋」の創業者はもとは江戸の武士だった人で、明治時代の前期に江戸菓子をベースに「さおしか」を考案したといわれる。このお菓子が熊本に伝わったのか、はたまた偶然名前だけが同じで別ものだったのか、食べたことがある方が健在であればぜひ聞いてみたいものだ。
ちなみに「さおしか」が詠まれた和歌を一首
我が岡にさを鹿来鳴く初萩の花妻どひに来鳴くさを鹿 (大伴旅人)
(わがをかに さをしかきなく はつはぎの はなつまどひに きなくさをしか)
(大意)私の岡に若い牡鹿がやって来て、まるで萩の花に求婚をするかのように鳴いている。
▼今日の泰勝寺(立田自然公園)