徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

細川藤孝(幽斎)公の存在

2015-02-10 19:49:53 | 歴史
 明後日の12日に放送される「信長59通の手紙」など、細川家に貴重な古文書が数多く残されているのは、肥後細川家初代の細川藤孝(幽斎)公の存在が大きいようだ。文武両道に秀で、室町幕府の足利義輝・義昭両将軍に仕えた後、織田信長、豊臣秀吉に重用され、徳川家康が徳川幕府を開いた時には、武家の在り方をレクチャーし、さらには、「古今和歌集」を後世に伝承する古今伝授の役割を担った文化人として天皇家からも大事にされたという人物だ。

明治41年出版の「教訓百首註解:新撰」には次のように紹介されている。

藤孝は三淵晴貞の子にして細川元常の養子なり。将軍義輝の弑(しい)に遭ふや、その弟義昭を奉じて将軍たらしめしは藤孝の力多し。されど義昭昏愚にして、藤孝の諌を用ひずして、遂に信長に廃せられぬ。
足利氏亡びし後、藤孝は信長に属して、軍多く、遂に丹波の國に封ぜられしが、信長の弑に遭うや、髪を削って幽斎と号し、子忠興と共に京都に上り、忠興が光秀の女婿なるの故を以て、異心なきを盟ひて、秀吉に報ぜり。関ヶ原の役には幽齋は宮津に在り、忠興は東軍に属しければ、石田三成兵を遣はして宮津を囲ましむ。幽齋予め之を察し、其の所蔵する和歌相伝二十一代集源氏物語等の珍書が兵火に罹らんことを憂へ、参議藤原実條に依りて、悉く之を朝廷に奉り、一首の和歌を添へて曰く
いにしへも今もかはらぬ世の中に、こゝろの種をのこす言の葉
幽齋は戦乱の世に生れ、文学に達し、武事に精しく、和歌に巧みにして、朝廷の典故に精通せり。徳川氏の制度儀式を定むるや、幽齋に聞きて決するもの頗る多かりきといふ。慶長十五年七十七歳を以て卒せり。


水前寺成趣園の細川藤孝公像。気のせいか細川護煕元首相に見えるが・・・


藤孝公ゆかりの古今伝授之間