

「檜垣の塔」は、檜垣の墓石とも伝えられ、この塔は室町時代にはすでに著名であったという。江戸時代初期の肥後熊本藩二代の加藤忠廣(加藤清正の嗣子)の時代に熊本城内の庭に移されていたが、加藤忠廣が改易され、小倉から細川忠利が移封された後、熊本城内でこれを見た父の細川忠興がこの塔を見覚えていて、「檜垣嫗は三代集(平安時代の勅撰和歌集である古今和歌集・後撰和歌集・拾遺和歌集の三歌集)にも選ばれた名嫗。その遺跡を移すのは名誉を傷つけるもの。この塔は『国の古跡』であるから蓮台寺に戻すように」と、忠利の御伽衆に伝え、蓮台寺に戻されたという。蓮台寺にはこの顛末を記した文献も残されているという。
ちなみに、忠興がこの「檜垣の塔」を蓮台寺で見たのは、天正15年(1587年)4月、豊臣秀吉の九州征伐に従った時。さすが古今伝授を受けた父藤孝の影響を受けていたのか、陣中の合間に蓮台寺へ馬を飛ばして檜垣の塔を見に行ったのだろうか。太閤秀吉が座したという東阿弥陀寺町の「殿下石」あたりから行ったとしても蓮台寺までは、馬を飛ばせば5分ほどで着いたかもしれない。それにしても細川忠利が熊本に移封されたのは寛永9年(1632)のこと。ということは忠興は少なくとも45年も前に見た「檜垣の塔」を憶えていたわけで、よほど強く心に残っていたものとみえる。
後撰和歌集に収められた檜垣嫗の歌
「年ふればわが黒髪も白河の みづはくむまで老いにけるかも」