昨夜、高校の後輩Nくんの訃報が届いた。病を得て長く、最近状態があまりよくないことは聞いていた。5級下なのでまだ70まえ。この長寿時代には早過ぎた感は否めない。
彼は僕などは及びもつかない一流の水球選手だった。彼との思い出で忘れられないのは、彼が高校3年の時、済々黌水球部が長年続けていたインターハイの全国大会出場を逃した時のことだ。その前年はインターハイで優勝したが、3年生がごっそり卒業し、春先はさすがにチーム力が落ちていた。しかし、夏頃になると前年とは違うチームの形が整いつつあった。その軸となっていたのがフォワードのNくんと同級生のバックスMくんだった。当然、全国大会には行けるものと思っていた。ところが九州大会で3位以内に入れず、全国大会の出場権を逃したのである。彼らのショックは大きかった。それから、残るもう一つの目標、国体へ向けて猛練習を再開した。Nくんを始め、メンバーの目の色があきらかに変わっていた。連日、激しい練習が重ねられた。合宿も行い、チームは見違えるほど強化されていった。それでもチーム浮沈のカギを握っているのはNくんだった。彼には試合によって出来不出来の差が大きいという難点があった。そこで国体に向けた試合形式の練習では、コーチから、彼のマンマークには必ず僕が付くように指名された。その頃、僕は大学を出て熊本に帰ったばかりで、仕事の合間に暇さえあれば泳いでいたので、まだ幸い大学の現役時代と変わらない体力を有していた。しかし、夏休みが終わりに近づき、国体が迫って来た頃、彼の体力とスキルの上達は目ざましく、僕は対応しきれなくなっていた。国体では優勝もありうると確信したのはその頃である。そして、前年のインターハイと同じ福井で済々黌は優勝した。
高校卒業後、彼は早稲田大学に進み活躍した。日本代表にも選ばれたが、日本水球がアジアの中で低迷する時期だったこともあり、オリンピックに出場することはかなわなかった。
今日、お通夜でお棺の中に眠る彼の顔を見ながら、「僕も後を追うのに大して時間はかからんよ」と、いつも友人を見送る時と同じ言葉をつぶやいた。
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福井国体(昭和43年)におけるNくん
彼は僕などは及びもつかない一流の水球選手だった。彼との思い出で忘れられないのは、彼が高校3年の時、済々黌水球部が長年続けていたインターハイの全国大会出場を逃した時のことだ。その前年はインターハイで優勝したが、3年生がごっそり卒業し、春先はさすがにチーム力が落ちていた。しかし、夏頃になると前年とは違うチームの形が整いつつあった。その軸となっていたのがフォワードのNくんと同級生のバックスMくんだった。当然、全国大会には行けるものと思っていた。ところが九州大会で3位以内に入れず、全国大会の出場権を逃したのである。彼らのショックは大きかった。それから、残るもう一つの目標、国体へ向けて猛練習を再開した。Nくんを始め、メンバーの目の色があきらかに変わっていた。連日、激しい練習が重ねられた。合宿も行い、チームは見違えるほど強化されていった。それでもチーム浮沈のカギを握っているのはNくんだった。彼には試合によって出来不出来の差が大きいという難点があった。そこで国体に向けた試合形式の練習では、コーチから、彼のマンマークには必ず僕が付くように指名された。その頃、僕は大学を出て熊本に帰ったばかりで、仕事の合間に暇さえあれば泳いでいたので、まだ幸い大学の現役時代と変わらない体力を有していた。しかし、夏休みが終わりに近づき、国体が迫って来た頃、彼の体力とスキルの上達は目ざましく、僕は対応しきれなくなっていた。国体では優勝もありうると確信したのはその頃である。そして、前年のインターハイと同じ福井で済々黌は優勝した。
高校卒業後、彼は早稲田大学に進み活躍した。日本代表にも選ばれたが、日本水球がアジアの中で低迷する時期だったこともあり、オリンピックに出場することはかなわなかった。
今日、お通夜でお棺の中に眠る彼の顔を見ながら、「僕も後を追うのに大して時間はかからんよ」と、いつも友人を見送る時と同じ言葉をつぶやいた。
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福井国体(昭和43年)におけるNくん