昨日、YouTubeに投稿した「俚奏楽 伊勢土産」には「坂は照る照る 鈴鹿は曇る」という「鈴鹿馬子唄」のフレーズが織り込まれている。この一節を聞きながら、ふと漱石の「草枕」を思い出した。峠の茶屋の婆さんとの会話の合間に、馬の鈴の音が聞こえ、画工を「夢現」の世界に誘う。
―― 会話はちょっと途切れる。帳面をあけて先刻の鶏を静かに写生していると、落ちついた耳の底へじゃらんじゃらんと云う馬の鈴が聴こえ出した。この声がおのずと、拍子をとって頭の中に一種の調子が出来る。眠りながら、夢に隣りの臼の音に誘われるような心持ちである。余は鶏の写生をやめて、同じページの端に、
春風や惟然が耳に馬の鈴
と書いてみた。山を登ってから、馬には五六匹逢った。逢った五六匹は皆腹掛をかけて、鈴を鳴らしている。今の世の馬とは思われない。
やがて長閑な馬子唄が、春に更けた空山一路の夢を破る。憐れの底に気楽な響がこもって、どう考えても画にかいた声だ。
馬子唄の鈴鹿越ゆるや春の雨 ――
漱石が鈴鹿峠を歩いて越えたという話は聞いたことがない。おそらく小天温泉へ向かう峠道で五六匹の馬と馬子に出逢い、聞き覚えた「鈴鹿馬子唄」が頭に浮かんだのだろう。
「鈴鹿峠」は東海道土山宿から坂下宿への峠道で難所の一つであり、お伊勢参りに向かう西国の旅人にとっての要衝である。「伊勢土産」を作った本條秀太郎さんも漱石と同じようにこの風景を表現したかったのかもしれない。
―― 会話はちょっと途切れる。帳面をあけて先刻の鶏を静かに写生していると、落ちついた耳の底へじゃらんじゃらんと云う馬の鈴が聴こえ出した。この声がおのずと、拍子をとって頭の中に一種の調子が出来る。眠りながら、夢に隣りの臼の音に誘われるような心持ちである。余は鶏の写生をやめて、同じページの端に、
春風や惟然が耳に馬の鈴
と書いてみた。山を登ってから、馬には五六匹逢った。逢った五六匹は皆腹掛をかけて、鈴を鳴らしている。今の世の馬とは思われない。
やがて長閑な馬子唄が、春に更けた空山一路の夢を破る。憐れの底に気楽な響がこもって、どう考えても画にかいた声だ。
馬子唄の鈴鹿越ゆるや春の雨 ――
漱石が鈴鹿峠を歩いて越えたという話は聞いたことがない。おそらく小天温泉へ向かう峠道で五六匹の馬と馬子に出逢い、聞き覚えた「鈴鹿馬子唄」が頭に浮かんだのだろう。
「鈴鹿峠」は東海道土山宿から坂下宿への峠道で難所の一つであり、お伊勢参りに向かう西国の旅人にとっての要衝である。「伊勢土産」を作った本條秀太郎さんも漱石と同じようにこの風景を表現したかったのかもしれない。