熊本県山都町の通潤橋が文化審議会より国宝答申したことにより、今秋、熊本県では二番目の国宝が指定されることになった。
小学校の頃、通潤橋や布田保之助の話を先生から聞いた覚えがあるが、今も県内の小学校などでは教えているのだろうか。
参考のため、戦前の小学校の修身教科書に載っている「通潤橋」の話を下記してみた。
▼通潤橋(昭和18年出版 初等科修身より)
熊本の町から東南十数里、緑川の流れに沿うて、白糸村というところがあります。あたり一面高地になっていて、緑川の水はこの村よりもずっと低いところを流れています。また、緑川に注ぐ二つの支流が、この村のまわりの深い崖下を流れています。
白糸村はこのように川にとり囲まれながら、しかも川から水が引けないところです。それで昔は水田は開けず、畠の作物はできず、ところによっては飲水にも困るくらいでした。村人たちはよその村々の田が緑の波をうつのを眺めるにつけ、豊かに実って金色の波がうつのを見るにつけ、どんなにかうらやましく思ったでしょう。
今からおよそ百年ほど前、この地方の総莊屋に布田保之助という人がありました。保之助は村々のために道路を開き、橋をかけて交通を便にし、堰をもうけて水利をはかり、大いに力をつくしましたが、白糸村の水利だけはどうすることもできないので、村人と一緒に水の乏しいことをただ嘆くばかりでした。
いろいろと考えたあげくに、保之助は深い谷をへだてた向こうの村が白糸村よりも高く、水も十分にあるので、その水をどうかして引いてみようと思いつきました。しかし、小さな掛樋の水ならともかくとして田をうるおすほどのたくさんの水を引くのはなまやさしいことではありません。保之助はまず木で水道を作ってみました。ところが水道は激しい水の力で一たまりもなくこわされ、固い木材が深い谷底へばらばらになって落ちてしまいました。
けれども、一度や二度のしくじりでこころざしのくじけるような保之助ではありません。今度は石で水道を作ろうと思っていろいろと実験してみました。水道にする石の大きさや水道の勾配を考えて、水の力のかかり方や吹きあげ方などをくわしく調べました。とりわけ、石の継ぎ目から一滴も水ももらさないようにする工夫には一番苦心しました。そうしてやっと、これならばという見込みがついたので、まず谷に高い石橋をかけ、その上に石の水道をもうける計画を立てて、藩に願い出ました。
藩の方から許しがあったので、一年八ヶ月を費やして大きな眼鏡橋をかけました。高さが十一間余り、幅が三間半、全長四十間。そうしてこの橋の上には三筋の石の水道が作ってありました。
初めて水を通すという日のことです。保之助は礼服を着け、短刀をふところにしてその式に出かけました。万が一にもこの工事がしくじりに終ったら、申しわけのため、その場を去らず、腹かき切る覚悟だったのです。工事を見とどけるために来た藩の役人も、集まった村人たちも、他村からの見物人も保之助の真剣な様子を見て、思わず襟を正しました。
足場が取り払われました。しかし、石橋はびくともしません。やがて水門が開かれました。水は勢い込んで長い石の水道を流れて来ましたが、石橋はその水勢にたえて相変わらず谷の上に高くどっしりとかかっていました。望みどおりに水がこちらの村へ流れ込んだのです。
「わぁ」という喜びの声があがりました。保之助は長い間、苦心に苦心を重ねた難工事ができあがったのを見て、ただ涙を流して喜びました。そうして水門をほとばしり出る水を手に汲んで、おしいただいて飲みました。
まもなく、この村にも水田の開ける時が来て、百町歩ほどにもなりました。しだいに村は豊かになり、住む人は増えて、藩も大いに収益を増すようになりました。
橋の名は通潤橋と名付けられ、今もなお深い谷間に虹のような姿を横たえて、一村の生命を支える柱となっています。
小学校の頃、通潤橋や布田保之助の話を先生から聞いた覚えがあるが、今も県内の小学校などでは教えているのだろうか。
参考のため、戦前の小学校の修身教科書に載っている「通潤橋」の話を下記してみた。
▼通潤橋(昭和18年出版 初等科修身より)
熊本の町から東南十数里、緑川の流れに沿うて、白糸村というところがあります。あたり一面高地になっていて、緑川の水はこの村よりもずっと低いところを流れています。また、緑川に注ぐ二つの支流が、この村のまわりの深い崖下を流れています。
白糸村はこのように川にとり囲まれながら、しかも川から水が引けないところです。それで昔は水田は開けず、畠の作物はできず、ところによっては飲水にも困るくらいでした。村人たちはよその村々の田が緑の波をうつのを眺めるにつけ、豊かに実って金色の波がうつのを見るにつけ、どんなにかうらやましく思ったでしょう。
今からおよそ百年ほど前、この地方の総莊屋に布田保之助という人がありました。保之助は村々のために道路を開き、橋をかけて交通を便にし、堰をもうけて水利をはかり、大いに力をつくしましたが、白糸村の水利だけはどうすることもできないので、村人と一緒に水の乏しいことをただ嘆くばかりでした。
いろいろと考えたあげくに、保之助は深い谷をへだてた向こうの村が白糸村よりも高く、水も十分にあるので、その水をどうかして引いてみようと思いつきました。しかし、小さな掛樋の水ならともかくとして田をうるおすほどのたくさんの水を引くのはなまやさしいことではありません。保之助はまず木で水道を作ってみました。ところが水道は激しい水の力で一たまりもなくこわされ、固い木材が深い谷底へばらばらになって落ちてしまいました。
けれども、一度や二度のしくじりでこころざしのくじけるような保之助ではありません。今度は石で水道を作ろうと思っていろいろと実験してみました。水道にする石の大きさや水道の勾配を考えて、水の力のかかり方や吹きあげ方などをくわしく調べました。とりわけ、石の継ぎ目から一滴も水ももらさないようにする工夫には一番苦心しました。そうしてやっと、これならばという見込みがついたので、まず谷に高い石橋をかけ、その上に石の水道をもうける計画を立てて、藩に願い出ました。
藩の方から許しがあったので、一年八ヶ月を費やして大きな眼鏡橋をかけました。高さが十一間余り、幅が三間半、全長四十間。そうしてこの橋の上には三筋の石の水道が作ってありました。
初めて水を通すという日のことです。保之助は礼服を着け、短刀をふところにしてその式に出かけました。万が一にもこの工事がしくじりに終ったら、申しわけのため、その場を去らず、腹かき切る覚悟だったのです。工事を見とどけるために来た藩の役人も、集まった村人たちも、他村からの見物人も保之助の真剣な様子を見て、思わず襟を正しました。
足場が取り払われました。しかし、石橋はびくともしません。やがて水門が開かれました。水は勢い込んで長い石の水道を流れて来ましたが、石橋はその水勢にたえて相変わらず谷の上に高くどっしりとかかっていました。望みどおりに水がこちらの村へ流れ込んだのです。
「わぁ」という喜びの声があがりました。保之助は長い間、苦心に苦心を重ねた難工事ができあがったのを見て、ただ涙を流して喜びました。そうして水門をほとばしり出る水を手に汲んで、おしいただいて飲みました。
まもなく、この村にも水田の開ける時が来て、百町歩ほどにもなりました。しだいに村は豊かになり、住む人は増えて、藩も大いに収益を増すようになりました。
橋の名は通潤橋と名付けられ、今もなお深い谷間に虹のような姿を横たえて、一村の生命を支える柱となっています。