東京駅から八重洲通りを5分ほど歩くと「アーティゾン美術館」がある。かつての「ブリヂストン美術館」である。もっとも僕が東京勤務の頃は、このビルにはブリヂストン本社が入っていたので「ブリヂストン美術館」はその中の一部を使っていた。2020年に本社部門の移転に伴い、このビルが改修され「ミュージアムタワー京橋」の中の「アーティゾン美術館」として再スタートした。
この地は江戸時代には中橋広小路と呼ばれたところで、江戸初期まで今の八重洲通りは紅葉川という川だったそうである。東海道(今の中央通り)は紅葉川に架かった中橋を渡って日本橋の方に向かっていた。紅葉川が埋められ、中橋の名前だけが残って中橋広小路となった。この中橋界隈は、江戸歌舞伎の発祥の地でもある。京から江戸に下った初代猿若(中村)勘三郎が寛永元年(1624)に「猿若座」の櫓をあげたのがこの中橋南地だったという。現在、ずっと銀座寄りの京橋3丁目に「江戸歌舞伎発祥の地」の記念碑が建てられているが、建てる場所がなくてやむなくそこに建てられたもので、実際の発祥の地とは随分離れている。つまりこの中橋界隈は昔から文化の薫り高い地区だったわけである。
その「アーティゾン美術館」の所蔵品の中で、僕が最も好きな作品が岡田三郎助の「婦人像(紫調べ)」だ。岡田は佐賀県出身の洋画家で、女性像を得意とし、明治から昭和にかけて活躍した。
副題の「紫調べ」というのは、鼓(大鼓、太鼓、小鼓)で使用される紐、「調緒(しらべお)」のことで、小鼓の調緒は縦横に入っており、調緒の握りで音色を変化させることもできる。調緒の色は朱色が一般的だが、上級者は紫色を使う場合もあるという。
この地は江戸時代には中橋広小路と呼ばれたところで、江戸初期まで今の八重洲通りは紅葉川という川だったそうである。東海道(今の中央通り)は紅葉川に架かった中橋を渡って日本橋の方に向かっていた。紅葉川が埋められ、中橋の名前だけが残って中橋広小路となった。この中橋界隈は、江戸歌舞伎の発祥の地でもある。京から江戸に下った初代猿若(中村)勘三郎が寛永元年(1624)に「猿若座」の櫓をあげたのがこの中橋南地だったという。現在、ずっと銀座寄りの京橋3丁目に「江戸歌舞伎発祥の地」の記念碑が建てられているが、建てる場所がなくてやむなくそこに建てられたもので、実際の発祥の地とは随分離れている。つまりこの中橋界隈は昔から文化の薫り高い地区だったわけである。
その「アーティゾン美術館」の所蔵品の中で、僕が最も好きな作品が岡田三郎助の「婦人像(紫調べ)」だ。岡田は佐賀県出身の洋画家で、女性像を得意とし、明治から昭和にかけて活躍した。
副題の「紫調べ」というのは、鼓(大鼓、太鼓、小鼓)で使用される紐、「調緒(しらべお)」のことで、小鼓の調緒は縦横に入っており、調緒の握りで音色を変化させることもできる。調緒の色は朱色が一般的だが、上級者は紫色を使う場合もあるという。
蓑里会・うらら会・花と誠の会