徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

熊本城坪井川園遊会

2019-03-14 20:09:50 | イベント
 坪井川園遊会も今年で15回目。九州新幹線全線開通を盛り上げようと平成17年から熊本ルネッサンス県民運動の主催で始まり、平成24年からは、実施主体を「熊本城坪井川園遊会」実行委員会に移し、継続して行われてきた。河畔舞台での伝統芸能や坪井川川下り、老舗料亭体験などが行われてきたが、新幹線が開通した平成23年には桜の馬場城彩苑が開業し、「花魁道中」など、さらにプログラムの充実が図られた。今や熊本市の伝統文化として定着しつつある「熊本城坪井川園遊会」には、熊本城復興を推進する役割も期待されている。

◆期 間 3月23日 ~ 5月5日
◆会 場 桜の馬場城彩苑(熊本市中央区二の丸1-1-1)

▼平成21年度坪井川園遊会の様子



熊本うたとおどり

2019-03-13 17:02:39 | イベント
 現在開催中の「春のくまもとお城まつり」。今週末は熊本の伝統芸能が一堂に集結し、春の熊本城を唄と踊りで彩る「熊本うたとおどり」が行われます。
 ぜひ、この機会に熊本の文化に触れてみてはいかがでしょうか。

 ◆日 時:3月16日(土)・17日(日)11:00~15:00 ※荒天中止
 ◆会 場:熊本城二の丸広場特設ステージ
 ◆出 演:田中祥子・福島竹峰社中・熊本城おもてなし武将隊
      舞踊団花童・山鹿灯籠踊り・能楽観世流ほか


「規工川佑輔と歌を詠む人びと」展

2019-03-12 19:56:22 | 友人・知人
 教職のかたわら、歌人として、また少女詩人・海達公子研究の第一人者として永年活躍され、一昨年5月、惜しまれつつ他界された規工川佑輔先生の企画展が開かれます。
 晩年の10年間ほど、先生にご指導いただきましたが、毎年3月、荒尾市で開催される「海達公子まつり」へご一緒したことなどをなつかしく思い出します。

 ◆期 間 2019年3月16日~5月6日
 ◆会 場 玉名市立歴史博物館(熊本県玉名市岩崎117)
      Tel 0968-74-3989

※パンフレットをクリック → 拡大


西部第十六部隊と酒井先生

2019-03-11 20:09:32 | 友人・知人
 熊本城二の丸の西大手門への通路(現在閉鎖中)の脇に「歩兵第十三連隊の跡」記念碑がある。今日散歩のついでにしばらくながめていたら、ふと4年前に他界された酒井恭次先生のことを思い出した。酒井先生は僕がブリヂストン時代に最もお世話になった横浜工場の産業医である。亡くなる数年前から、毎年、年賀状には必ず戦時中の熊本の「西部第十六部隊」にいた頃の思い出が書かれていた。よほど懐かしい想い出だったのだろう。「西部第十六部隊」というのは、この記念碑の「歩兵第十三連隊」が昭和12年の支那事変で出征した後、その補充部隊が集められ、この部隊が後に「西部第十六部隊」となった。
 先生は久留米のご出身だが横浜勤務が永く、亡くなるまで逗子市に住まわれた。今日は先生のお住まいにほど近い小坪漁港で歌い継がれている「小坪いかとり歌」でも聞きながら先生を偲びたい。


歩兵第十三連隊の跡



あれから8年・・・

2019-03-10 20:40:20 | 熊本
 明日11日は東日本大震災発生から、そして翌12日は熊本に九州新幹線が開通してから8年という日だ。8年前、熊本の新しい歴史が始まるという記念すべき日だったが、祝賀ムードの自粛ということで、記念イベントはすべて中止、「新幹線開業を発射台に」し「新幹線くまもと創り」を進めようという目論みははずれた。あれから8年たった今、当初期待されていた開業による波及効果はどうなったのだろうか。


九州新幹線開業(2011.3.12)


九州新幹線開業(2011.3.12)


桜の馬場城彩苑開業(2011.3.5)



九州新幹線応援ソング

ブラタモリ ~阿波踊り~

2019-03-09 21:24:29 | 日本文化
 今夜のブラタモリは「阿波踊り」。日本の代表的な徳島発祥の盆踊りである。今夜、ブラタモリで紹介された「阿波踊り」の由来や歴史など、例えば徳島の地形的な特徴、吉野川のこと、藍産業のこと、盆の念仏踊りがルーツで、牛深ハイヤ節などの影響を受けながら徐々に進化して行った踊りのこと等々、断片的には既知のことがほとんどだったが、この番組でそれらが体系的に整理された感じでスッキリした。


森山加代子さん

2019-03-07 13:04:39 | 音楽芸能
 今朝の熊日新聞で歌手の森山加代子さんの訃報を知った。わが青春時代のスターたちがこの頃次々と亡くなっていく。なかでも森山さんは、家庭でテレビを見るのが普通になり始めた頃、洋モノのポップスを歌う女性歌手として、初めてアイドル的な存在となった人だけに寂しさはひとしおだ。僕が中学3年生だった昭和35年に、イタリアのミーナの歌をカバーした「月影のナポリ」でレコード・デビュー。いきなり大ヒットしてスターダムへ駆け上がった。弘田三枝子、田代みどり、九重祐三子ら、後に続いた女性ポップス歌手の先頭を走っていた。ネットニュースなどでは昭和45年にヒットした「白い蝶のサンバ」を代表曲としているようだが、僕にとってはやっぱり「月影のナポリ」。青春時代の思い出を彩っていただきありがとうございました。享年78歳。合掌


ニホンザル出没

2019-03-06 13:45:54 | ニュース
 わが家の裏にニホンザルが出没した。昨年から今年にかけて、熊本市内にニホンザルが出没しているというニュースはテレビで見ていたが、とうとうわが家近辺にも現れたかという感じだ。フェンスの上を西から東の方へ渡って行ったが、なにしろ一瞬のことで撮影もできなかった。実はわが家のあたりは京町台地の北東側のへりに位置し、かつては丘腹には草木が生い茂っていた。昔はキジやタヌキなどは普通に見かけたし、今年97歳の母によれば、猿が現れたこともあるという。一応、熊本市の鳥獣対策室に目撃情報を伝えたら、京町駐在所のおまわりさんが見廻りに来られた。

「草枕」異聞

2019-03-05 20:49:25 | 文芸
 熊日新聞に連載中の高浜虚子「漱石氏と私」は第6章、漱石が教職から職業作家へ転ずる直前、虚子との盛んな手紙のやり取りのあたりまで進んでいる。第3章には、「草枕」の題材となった明治30年暮れから31年正月までの小天旅行から帰った直後、漱石が虚子に送った手紙の内容や添えた句なども紹介されている。
 これを読みながら、僕は以前から抱いているある疑問をふと思い出した。それは、「草枕」の有名な書き出し
 「山路を登りながらこう考えた。智に働けば角が立つ 
    情に棹させば流される 意地を通せば窮屈だ とかくに人の世は住みにくい。」
ここでいう山路とは、漱石はいったいどこをイメージしたのだろうか。多くの文献で、これは「鎌研坂」から始まる山路のことだとあり、一般的にそう理解されているようだ。はたしてそうだろうか。
 昭和13年、島崎尋常高等小学校(現城西小学校)の訓導(教員)をやっていたわが父は、その当時の島崎一帯の様子を、「西山(金峰山など)へ向けてなだらかな傾斜が続き、人家もまばらな里山の風景が広がっていた」と語っている。それよりさらに40年前の明治30年頃の様子は推して知るべしである。つまり、今日、「鎌研坂」と呼んでいる山路より、ずっと下から既に山路は始まっていたのである。大江村の家を出てから、師走の雨にうたれながら麹川沿いに登って行ったであろう漱石は、岳林寺の辺りで既に一里は優に歩いており、相当の疲労感を感じていたと思われる。「鎌研坂」に到達するずっと前に、件の書き出しのような思いに至っていてもおかしくないのである。


岳林寺から右の麹川沿いに登って行く。


荒尾山を右に見ながら山路を登る。


岳林寺から1㌔ほど登ったところに鎌研坂の入口がある。


杉林の中を進む石畳の道。入口脇に句碑「家を出て師走の雨に合羽哉」

水前寺成趣園の富士山

2019-03-04 18:39:27 | 熊本
 熊本市の観光名所、水前寺成趣園のシンボルである日本庭園の、通称「富士山」と呼ばれる築山は、熊本地震で頂上部分が60㌢ほど陥没しましたが、今日から、もとのとがった形に戻す復旧工事が始まりました。築山の高さはおよそ8.5㍍。工事は今月20日ごろまでに完了する予定だそうです。
 水前寺成趣園の築山は江戸時代の中頃に作られ、西南戦争時には官軍がその頂上を削って砲台を据えていたという歴史もあります。桜が満開の頃には「富士山」も元の姿に戻っていることでしょう。




武夫原頭に草萌えて

2019-03-01 16:30:32 | 歴史
 父が亡くなって今年で19年。生前、父が最も好きだった歌が、五高(旧制第五高等学校)の寮歌「武夫原頭に草萌えて(ぶふげんとうにくさもえて)」だった。酒が入るとよく歌っていたものだ。といっても父は五高のOBというわけではない。父は師範学校の卒業。本人は済々黌-五高と進みたかったらしいのだが、祖父が早世し、寡婦となった祖母のもとでは経済的に厳しかったのだろう。父の生家は五高にほど近い立田山の麓だったこともあり、幼い頃から五高に馴染みがあったようだ。門前の小僧よろしく、寮歌も幼い頃から知っていたのかもしれない。今思えば、父はこの歌を歌う時、万感の想いを込めていたのかもしれない。


熊本大学五高記念館(熊本地震被害により休館中)

          武夫原頭に草萌えて(五高寮歌)