徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

「草枕」異聞

2019-03-05 20:49:25 | 文芸
 熊日新聞に連載中の高浜虚子「漱石氏と私」は第6章、漱石が教職から職業作家へ転ずる直前、虚子との盛んな手紙のやり取りのあたりまで進んでいる。第3章には、「草枕」の題材となった明治30年暮れから31年正月までの小天旅行から帰った直後、漱石が虚子に送った手紙の内容や添えた句なども紹介されている。
 これを読みながら、僕は以前から抱いているある疑問をふと思い出した。それは、「草枕」の有名な書き出し
 「山路を登りながらこう考えた。智に働けば角が立つ 
    情に棹させば流される 意地を通せば窮屈だ とかくに人の世は住みにくい。」
ここでいう山路とは、漱石はいったいどこをイメージしたのだろうか。多くの文献で、これは「鎌研坂」から始まる山路のことだとあり、一般的にそう理解されているようだ。はたしてそうだろうか。
 昭和13年、島崎尋常高等小学校(現城西小学校)の訓導(教員)をやっていたわが父は、その当時の島崎一帯の様子を、「西山(金峰山など)へ向けてなだらかな傾斜が続き、人家もまばらな里山の風景が広がっていた」と語っている。それよりさらに40年前の明治30年頃の様子は推して知るべしである。つまり、今日、「鎌研坂」と呼んでいる山路より、ずっと下から既に山路は始まっていたのである。大江村の家を出てから、師走の雨にうたれながら麹川沿いに登って行ったであろう漱石は、岳林寺の辺りで既に一里は優に歩いており、相当の疲労感を感じていたと思われる。「鎌研坂」に到達するずっと前に、件の書き出しのような思いに至っていてもおかしくないのである。


岳林寺から右の麹川沿いに登って行く。


荒尾山を右に見ながら山路を登る。


岳林寺から1㌔ほど登ったところに鎌研坂の入口がある。


杉林の中を進む石畳の道。入口脇に句碑「家を出て師走の雨に合羽哉」