熊日新聞に連載中の高浜虚子「漱石氏と私」は第6章、漱石が教職から職業作家へ転ずる直前、虚子との盛んな手紙のやり取りのあたりまで進んでいる。第3章には、「草枕」の題材となった明治30年暮れから31年正月までの小天旅行から帰った直後、漱石が虚子に送った手紙の内容や添えた句なども紹介されている。
これを読みながら、僕は以前から抱いているある疑問をふと思い出した。それは、「草枕」の有名な書き出し
「山路を登りながらこう考えた。智に働けば角が立つ
情に棹させば流される 意地を通せば窮屈だ とかくに人の世は住みにくい。」
ここでいう山路とは、漱石はいったいどこをイメージしたのだろうか。多くの文献で、これは「鎌研坂」から始まる山路のことだとあり、一般的にそう理解されているようだ。はたしてそうだろうか。
昭和13年、島崎尋常高等小学校(現城西小学校)の訓導(教員)をやっていたわが父は、その当時の島崎一帯の様子を、「西山(金峰山など)へ向けてなだらかな傾斜が続き、人家もまばらな里山の風景が広がっていた」と語っている。それよりさらに40年前の明治30年頃の様子は推して知るべしである。つまり、今日、「鎌研坂」と呼んでいる山路より、ずっと下から既に山路は始まっていたのである。大江村の家を出てから、師走の雨にうたれながら麹川沿いに登って行ったであろう漱石は、岳林寺の辺りで既に一里は優に歩いており、相当の疲労感を感じていたと思われる。「鎌研坂」に到達するずっと前に、件の書き出しのような思いに至っていてもおかしくないのである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/5d/93cc517065cae214a26f9db2fd16e6e5.jpg)
岳林寺から右の麹川沿いに登って行く。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/66/e05ee1a94140f815d207c85a16556672.jpg)
荒尾山を右に見ながら山路を登る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/0f/f6af9e815bf8606c1be7f4c1dfa3843d.jpg)
岳林寺から1㌔ほど登ったところに鎌研坂の入口がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/30/02597c25c79f623edb98493f973bef37.jpg)
杉林の中を進む石畳の道。入口脇に句碑「家を出て師走の雨に合羽哉」
これを読みながら、僕は以前から抱いているある疑問をふと思い出した。それは、「草枕」の有名な書き出し
「山路を登りながらこう考えた。智に働けば角が立つ
情に棹させば流される 意地を通せば窮屈だ とかくに人の世は住みにくい。」
ここでいう山路とは、漱石はいったいどこをイメージしたのだろうか。多くの文献で、これは「鎌研坂」から始まる山路のことだとあり、一般的にそう理解されているようだ。はたしてそうだろうか。
昭和13年、島崎尋常高等小学校(現城西小学校)の訓導(教員)をやっていたわが父は、その当時の島崎一帯の様子を、「西山(金峰山など)へ向けてなだらかな傾斜が続き、人家もまばらな里山の風景が広がっていた」と語っている。それよりさらに40年前の明治30年頃の様子は推して知るべしである。つまり、今日、「鎌研坂」と呼んでいる山路より、ずっと下から既に山路は始まっていたのである。大江村の家を出てから、師走の雨にうたれながら麹川沿いに登って行ったであろう漱石は、岳林寺の辺りで既に一里は優に歩いており、相当の疲労感を感じていたと思われる。「鎌研坂」に到達するずっと前に、件の書き出しのような思いに至っていてもおかしくないのである。
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岳林寺から右の麹川沿いに登って行く。
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荒尾山を右に見ながら山路を登る。
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岳林寺から1㌔ほど登ったところに鎌研坂の入口がある。
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杉林の中を進む石畳の道。入口脇に句碑「家を出て師走の雨に合羽哉」