昨日は、台風による雨風が激しかったため、
ウォーキングは休みました。
今回とりあげるのは、1901年生まれのエドムンド・ラッブラの曲。
ノーサンプトンで生まれた彼の家は、労働者階級出身で、
決して音楽的には恵まれた環境にはなかった。
しかし、学校に入ってから作曲などをし始めたようだ。
RCM(王立音楽大学)では、グスタフ・ホルストなどに指導を受け、
ホルストは彼に給費生になるようすすめたようだ。
それほど、彼の経済環境は恵まれていなかったのだろう。
1933年にはフランスのヴァイオリニストと結婚したようだ。
また、第二次世界大戦の時には兵役に服し、
戦後の1947年にはローマ・カトリックに改宗した。
そしてオックスフォード大学から講師として招かれ、
その職務についたようである。
「感謝のしるし」はハドリーの場合と同じように、
ヴォーン・ウィリアムズの70歳の誕生日を祝して
BBCから委嘱された小品のようだ。
彼自身が書いたCDの英文の解説によると、
依頼を受けた1942年はラッブラが兵役に服していた時期で、
その時彼はウェールズの遠く離れた場所に配属されていたという。
しかし、そんな事情もあって1週間の時間が与えられ、
そこで小編成の管弦楽用にオーケストラーションをしたが、
その時は「序奏とフーガ風舞曲」と呼んでいたようだが、
確かに音楽の形式を正確に記したタイトルではあるのだが、
そんな小品なのに長いタイトルはどうかと考え、
70歳の誕生日の時ラッブラの作品をとりあげる放送番組の際に
「感謝のしるし」というタイトルに改めたようである。
ゆっくりとした序奏の部分は重苦しい感じもするが、
愛情をこめたようなやさしい旋律である。
そのあと管楽器により舞曲のような旋律が現われ、
それは繰り返されながら、盛り上がる。
そして最後は冒頭の序奏の部分が再現され、やさしく終わる。
ジャイルズ・ファーナビーのヴァージナル作品に基づく即興曲は、
交響曲第1番のフルスコアがパン出版された1937年のあと、
軽い感じの曲を作曲しようと考え、彼が興味を持っていた
16世紀の作曲家ジャイルズ・ファーナビーのヴァージナル作品をもとに
小編成のオーケストラ用に組曲として作曲したもののようで、
これはこれで、さわやかな感じの新古典派主義的な作品でいい。
ウォーキングは休みました。
今回とりあげるのは、1901年生まれのエドムンド・ラッブラの曲。
ノーサンプトンで生まれた彼の家は、労働者階級出身で、
決して音楽的には恵まれた環境にはなかった。
しかし、学校に入ってから作曲などをし始めたようだ。
RCM(王立音楽大学)では、グスタフ・ホルストなどに指導を受け、
ホルストは彼に給費生になるようすすめたようだ。
それほど、彼の経済環境は恵まれていなかったのだろう。
1933年にはフランスのヴァイオリニストと結婚したようだ。
また、第二次世界大戦の時には兵役に服し、
戦後の1947年にはローマ・カトリックに改宗した。
そしてオックスフォード大学から講師として招かれ、
その職務についたようである。
「感謝のしるし」はハドリーの場合と同じように、
ヴォーン・ウィリアムズの70歳の誕生日を祝して
BBCから委嘱された小品のようだ。
彼自身が書いたCDの英文の解説によると、
依頼を受けた1942年はラッブラが兵役に服していた時期で、
その時彼はウェールズの遠く離れた場所に配属されていたという。
しかし、そんな事情もあって1週間の時間が与えられ、
そこで小編成の管弦楽用にオーケストラーションをしたが、
その時は「序奏とフーガ風舞曲」と呼んでいたようだが、
確かに音楽の形式を正確に記したタイトルではあるのだが、
そんな小品なのに長いタイトルはどうかと考え、
70歳の誕生日の時ラッブラの作品をとりあげる放送番組の際に
「感謝のしるし」というタイトルに改めたようである。
ゆっくりとした序奏の部分は重苦しい感じもするが、
愛情をこめたようなやさしい旋律である。
そのあと管楽器により舞曲のような旋律が現われ、
それは繰り返されながら、盛り上がる。
そして最後は冒頭の序奏の部分が再現され、やさしく終わる。
ジャイルズ・ファーナビーのヴァージナル作品に基づく即興曲は、
交響曲第1番のフルスコアがパン出版された1937年のあと、
軽い感じの曲を作曲しようと考え、彼が興味を持っていた
16世紀の作曲家ジャイルズ・ファーナビーのヴァージナル作品をもとに
小編成のオーケストラ用に組曲として作曲したもののようで、
これはこれで、さわやかな感じの新古典派主義的な作品でいい。