Mars&Jupiter

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アレクサンドル・グレチャニノフの交響曲第1番ロ短調作品6を聴きながら二俣川から弥生台まで歩く

2008-09-20 09:27:41 | 古典~現代音楽ロシア編
昨日は二俣川から弥生台駅まで歩きました。
途中聴いたのは1864年モスクワ生まれのグレチャニノフの作品。
アレクサンドル・グレチャニノフ(Alexander Grechaninov)は、
CDの解説書によれば、学生時代には教会の合唱団のソリストとして歌い、
14歳からピアノ・レッスンを受け始めた。
1881年には、モスクワ音楽院でチャイコフスキーの友人、
ニコライ・キシュキンのピアノ・クラスに入ったようだ。
その後タネーエフやアレンスキーなどに師事し、
1890年にはペテルブルク音楽院に移り、
リムスキー=コルサコフに師事したようである。
ロシアで1917年に革命が起こったあとは、
ロンドン、プラハ、パリとヨーロッパ各地を転々とし、
最終的にはアメリカ合衆国に移住し、
1946年にアメリカの市民権を獲得して、
その後1956年ニューヨークで亡くなった作曲家である。

交響曲第1番ロ短調作品6は、1894年に作曲された。
第1楽章アレグロ・ノン・トロッポは、
ボロディンなどを想起させる国民楽派の流れを受ける音楽だ。
悲しげなロシア民謡風の主題はとても印象的である。
途中から金管楽器も加わり荒々しくスケールの大きい感じとなるが、
とにかくロマン派らしい音楽でとても聴きやすい曲である。
第2楽章アンダンテ・ソスティヌート・アッサイは、
ロシア民謡風の音楽で、のどかな牧歌的な音楽である。
ところどころに哀愁がただよい、重々しさもある。
第3楽章モルト・ヴィヴァーチェは、軽快で華やかな曲で、
その舞踏的な音楽は、ボロディン風な印象を受ける。
第4楽章アレグロ・スピリトーソは、フィナーレらしく、
軽快で華やかな曲であり、やはりボロディン風な曲だ。
親しみやすいような旋律が多く、聴きやすい音楽である。
最後は爽快感のある圧倒的な高揚感の中で終わる。
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ロスティスラフ・ボイコの交響曲第2番、交響曲第3番ニ短調を聴きながら二俣川から西谷まで

2008-09-19 09:50:30 | 古典~現代音楽ロシア編
昨日は二俣川から西谷駅まで歩きました。
夜は横浜のア・マシケラ・ロ・プレチェネッラで食事する。
いつも横浜から和田町まで歩く時に通りががるので
気になっていた店ではあったが、実際に入ってみた。
水牛のモッツァレッラで作ったナポリピッツァはうまい。
とはいえ空腹ということもあり、食べるのはあっという間であった。

今回からは、協奏曲編に移る前に、
交響曲編で触れなかったその他の作品について補足したい。
まずは、ロシア・ウクライナ(旧ソ連)編で数曲とりあげる。
昨日途中聴いたのは1931年レニングラード生まれのボイコの作品。
ロスティスラフ・ボイコ(Rostislav Boiko)は、
CDにある解説書によると、グリンカ・コーラル・カペラで学び、
モスクワ音楽院ではハチャトゥリアンに師事し、1957年に卒業した。
合唱指揮者として活動し、作曲の分野では歌劇や交響曲、
オラトリオや映画音楽などを多く残しているようだ。
しかし、何といってもキャリアからしても分かるように、
合唱曲や歌曲の分野でよく知られているようである。

交響曲第2番作品64は、1978年に作曲された作品で、
スコアは1982年に出版されている。
第1楽章アダージョは、重々しい感じで始まる。
弦楽器群が奏でる哀愁ただよう旋律はロシア的である。
ロシアの広大な大地を感じさせる雄大な音楽である。
音楽はやがて激しい音楽になっていき、金管楽器が活躍する。
ラフマニノフを想起させるような壮大な音楽であり、
後半はオーボエなどの管楽器や打楽器を中心に、
東洋風のエキゾティックな音楽の部分も垣間見せる。
第2楽章アレグロは、前楽章から切れ目なく入り、
金管楽器が活躍する華々しい感じの軽快な曲で、
ラフマニノフの交響曲第2番の第2楽章に似た
ダイナミックな部分のある音楽である。
第3楽章アンダンテ・カンタービレは、
ロシア民謡風の旋律でゆるやかに始まり、
中間部にみられるのどかな音楽は牧歌的で美しい。
ロマンティックな音楽は1970年代の作品とは思えないものだ。
途中盛り上がりをみせるところはあるが、
最後は消えていくように静かに終わる。

交響曲第3番ニ短調作品72は1982年に作曲された。
ソプラノと合唱団および管弦楽のために書かれた作品である。
ソプラノと合唱は第3楽章のみで登場するが、
そこで使われている歌詞は共産主義者の詩人
ミハイル・イサコフスキーの詩に基づいている。
1900年スモレンスク生まれのこの詩人の代表的な作品は、
有名な歌曲の歌詞「カチューシャ」や「ともし火」である。
第1楽章ポコ・ソスティヌートは、ゆったりとした曲で、
映画音楽風で、センティメンタルな感じである。
何となくヴィラ=ロボスの音楽を想起させられもする。
音楽は切れ目なく第2楽章に入るが、
センティタメント・コン・アッバンドーノのこの楽章は、
その前楽章のセンティメンタルな部分を残しながら、
感情の赴くままにとあるように次第に荒々しさも加え、
軽快なそして情熱的な音楽になっていく。
その音楽はショスタコーヴィチ風なところもみられる。
第3楽章グラーヴェは、ゆったりと始まる中、
合唱が加わって彼の音楽の本領が発揮される音楽となる。
彼が合唱指揮者として活躍していたこともあり、
ソプラノ独唱と合唱はブルガリア民謡のように心に響いてくる。
第4楽章アレグロ・ソスティヌートは、軽快で華々しいフィナーレである。
その音楽はハチャトリアンからの影響も感じ取ることができる。
最後はショスタコーヴィチ風の社会主義リアリズム的な感じで終わる。
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福士則夫の「樹霊~ソロ・パーカッションのための」、「海流~6人の打楽器奏者のための」を聴きながら

2008-09-18 10:35:59 | 古典~現代音楽日本編
昨日は飲み会があったため、ウォーキングは休みました。
今回とりあげるのは、1945年生まれの福士則夫の作品。
彼は東京芸術大学卒業後、1973年フランスに渡り、
パリ国立音楽院で学び、オリビア・メシアンに師事する。
日本では、和声を矢代秋雄、作曲を池内友次郎、諸井誠、
三善晃に師事し、1977年にはアンサンブル団体の
「ヴァン・ドリアン」を結成しており、
その後作曲した作品は、国内外問わず演奏されているようだ。

樹霊~ソロ・パーカッションのための」は、1995年に作曲された。
パーカッション奏者の菅原淳からの委嘱による作品で、
CDの演奏も菅原淳によるものである。
マリンバと5つのウッドブロックにより演奏される。
乾いたようなマリンバの木質の響きがいい。
リズムだけが存在する音楽ではあるが、
その作り出されるリズムは人の語りのようにも思えたりもする。

「海へ~6人の打楽器奏者のための」は1988年に作曲された。
パーカッション・グループ72のために作曲されたこの作品の、
第一部は木質・金属鍵盤打楽器を中心とした曲になっている。
木質の乾いた響きと、金属の冷たい響きが、組み合わさり、
めまぐるしく変化していく音楽はまるで生き物のようで、
後半は、ヴァーレーズの「電離」をも想起させる盛り上がりをみせる。
その後はガムランを思わせるような響きになり面白い。
第2部は皮膜打楽器を中心とした作品である。
太鼓などの響きが前面に出てくるとリズム以上に、
音楽はダイナミックな部分が際立ってくる。

なお、今回とりあげた器楽曲・室内楽曲日本編の
CD等の情報は、以下のアドレスに載せてあります。
http://www1.ocn.ne.jp/~bocchi07/chamber-music-cd-japan.html
を参考にしていただければ幸いです。
次回からは協奏曲編に入る前に、
交響曲編で触れなかった作曲家の作品を少し取り上げます。
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武満徹の「そして、それが風であることを知った」を聴きながら、希望が丘から西谷まで歩く

2008-09-17 07:00:28 | 古典~現代音楽日本編
昨日は希望が丘から西谷駅まで歩きました。
途中聴いたのは、1930年東京生まれの武満徹の作品。
武満徹の経歴については以前触れたこともあるので省略する。
「そして、それが風であることを知った」は1992年に作曲された作品。
フルート奏者オーレル・ニコレの日本での代理人
小尾旭の委嘱を受けて作曲されたようである。

曲は現代的でありながら、そこに美しさがあり、
ドビュッシーのように絵画的、映像的である。
どこかある風景の中に聴き手が迷いこみ、
周囲を見渡してここはどこだろうと思う感じで、
そこには風が吹き続け、その中で呆然となる風景を思わせる。
現代曲でありながら、どこまでも美しい、
そこが武満徹の音楽の素晴らしさかもしれない。

「海へ」はアルト・フルートとギターのための作品である。
第1楽章の「夜」は1981年にトロントで初演されている。
その時の演奏者は聴いたCDの演奏者であるエイトケンのフルート。
そしてギターはキューバの有名な作曲家レオ・ブローウェルである。
SEAという字をもとにEs-E-A(変ホ-ホ-イ)からなる音を
使うアイデアが面白く、フルートの技巧的な部分もなかなかである。
第2楽章「白鯨」も幻想的な美しい曲である。
尺八の奏法をフルートの演奏に活かしているところも面白いが、
ギターの演奏も存在感のある美しい旋律を奏でている。
第3楽章「鱈岬」はギターの独奏から始まる曲で、
フルートが入り、印象主義的な世界に入り、
ロマンティックな美しさも垣間見せる曲である。

昨日は卒業生と飲みながら、楽しい時間を過ごした。
みんなそれぞれの人生ではあるが、
その生き方を聞いて元気づけられるところがある。
作曲家の人生も色々あるなあと思わせるところがあるが、
どのような人生がいいのかには答えはない。
少なくともこれでいいというものはないが、
こうやって生きていくというものがあれば、
強く生きることができるのかもしれない。
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柴田南雄の「金管六重奏のためのエッセイ」と「カドリール」を聴きながら、横浜から和田町まで歩く

2008-09-16 06:33:00 | 古典~現代音楽日本編
昨日は横浜から和田町駅まで歩きました。
途中聴いたのは、1916年東京生まれの柴田南雄の作品。
彼は作曲を諸井三郎に師事し、1950年代から入野義郎と
12音技法の研究を開始し、「20世紀音楽研究所」を創設し、
ヨーロッパの前衛音楽の紹介したようだ。
1960年代終わりには日本の中の民謡を採集し、
作風も日本の民俗芸能を含んだ音楽に変化したようだ。

金管六重奏のためのエッセイは1965年に作曲された作品。
20世紀音楽研究所主宰の第6回現代音楽祭のために作曲された。
低音の持続音を響かせ静かに始まる冒頭は、
チベット仏教の音楽を想起させる感じである。
第1部のカップ・ミュートを使った金管による音楽は、
点描的に音を散らばせ、それぞれの楽器の存在感を示す。
第2部は動きのあるリズミカルな音楽であり、
不協和音を響かせながらクライマックスを築き、
その持続和音の中で華々しく終わる。

ピアノのためのインプロヴィゼーション第二は、
1968年に作曲され、第2回日独現代音楽祭で初演された。
「A音列」とよばれる4つの短い断片と、
「B音列」とよばれる4つの長い断片の組み合わせにより、
構成される音楽はジグソーパズルのようで、
ぶつ切りされた音の断片が次々と聴こえてくるという印象である。
最後も音楽が終わる感じではないところで突然終わる。
前衛的な音楽を紹介続けた柴田南雄らしい曲である。

「カドリール」は、1975年に作曲された作品。
日本的なものを取り入れる作風に転換し始めた時期の作品である。
解説書によると明治初めの鹿鳴館などで踊られた舞曲の「カドリール」が、
4人で踊ることから、この曲の名称の由来となっているが、
作曲者が自ら語るようにその4という数字が、
マリンバ奏者が示す西洋音楽様式のリズムと、
小鼓奏者が示す日本音楽のリズムと、
マリンバ奏者の心音である生体のリズムと、
全体を通じて、音楽的諸要素を決めるための、
ある数式から導かれた非周期的なリズムという
4つのリズム層の4の数字に呼応している。
音楽はそれら4つのリズム層によって構成されるようだ。
途中小鼓の音とともに小鼓奏者の掛け声の音まで聴こえ、
その小鼓奏者の音を録音されたテープと、
小鼓奏者の心音のテープの音も一緒に再生され、
聴いてみると実験的で意欲的な作品に仕上がっている感じである。
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