た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

火炎少女ヒロコ 第三話(草稿) ~17~

2015年10月06日 | 連続物語



♦    ♦    ♦


♦    ♦    ♦


 富士山麓、樹海の闇は濃い。
 木立が揺れ、コウモリが飛び立つ。遠くの梢でフクロウがけたたましく笑う。
 枯れ枝を敷き詰めただけの掘っ立て小屋の前に、女が倒れている。砂にまみれ引き裂かれた異国の衣装。乱れた黒髪。赤く腫れ上がった頬。頬に流れた涙の跡。
 女に意識が戻った。
 重そうに頭をもたげ、彼女は周囲をいぶかしげに眺めた。その表情は次第に、信じられない、という驚きに変わった。
 女は掘っ立て小屋に視線を向けた。入り口の筵はめくられている。中に、胡坐を組む骨と皮ばかりの男。月明かりは小屋の中まで届かなかったが、男の体が仄かに青白く発光している。水面に映る月光のように冷たい光である。
 ヒロコの目が大きく見開かれた。
 『わたし・・・戻ってきたの?』
 相手の心に問いかけた答えは、心へと返された。
 『そうだ。ヒロコよ』
 確かに、予言者であった。二か月ほど前、半狂乱になって森を駆け抜けたときに出会った、あの予言者であった。あのときと全く同じ姿勢で座禅を組んでいる。何もかもが、夜の闇の深さまで、あのときと同じに思えた。
 彼女はひどく混乱した。彼女は半分だけ身を起こした。
 『あなたが戻したの? ここに?』
 『そうだ』
 『どういうこと? わたし・・・わたし、夢を見ていたの?』
 夢にしては長過ぎた。砂漠にかかる灼熱の太陽も、畳みかける爆撃の振動も、数多流れた血も、自分を無理やり抱き寄せ唇を奪ったアラブ人の感触も、燃え盛る炎の熱さも。何もかも、夢というにはあまりに克明過ぎた。だが、夢なら夢であって欲しい。できればあの西の最果てで起きたことすべてが夢であって欲しい。それは藁にもすがる思いであった。
 予言者が微笑んだ(と、ヒロコは感じた)。
 『現実はみな、夢のようなものだ。夢はみな、現実のようなものだ。どちらを終着点とするかの問題だ』
 『質問に答えて』
 『シリアでお前が燃やした数だけの人骨は、すべてあの地に残っている』
 ヒロコの目から涙が溢れた。
 『どうして、どうしてあなたは私をシリアに送ったの』
 返答はない。
 『どうしてそんなことしたの』
 月明かりを浴びた枯葉が一枚、滑るように二人の間に落ちた。
 ヒロコは震える拳を握りしめた。彼女は身がよじれるほど切なかった。猛烈な自己嫌悪に襲われていた。あの砂漠地帯にいるときは────あのときも良心の呵責があったとは言え、それでも、敵を燃やすことで何か自分の存在価値が上がる気さえした。自分を特別な人間のように錯覚した。敵からベドウィンたちを守ることが、自分に課せられた使命のように本気で思い込んだ。しかし日本に戻った途端、夢から覚めたようにあっさりと意識が逆転した。なんて愚かなことをしてしまったのか。人殺しをすれば人に認められるとでも思っていたのか。特別な力? それが何ほどのものなのか。多国籍軍に簡単に防がれたことで明らかではないか。自分なんて、強くも、偉くも、なんともない。自分なんて────出刃包丁を振り回して、やたら人を殺傷したがる狂人と同じじゃないか。
 もう二度と母国には帰れない。帰るべきではないと思っていた。織部警部補の誘いすら断ったではないか。あのとき、自分は覚悟を決めたのだ。最期の覚悟くらい、自分で決めたいと思って決めたのだ。それなのに。
 地面を引っかくように動かした手に、すべすべした小石が触れた。夜気が沁みて冷たい。しかし懐かしい手触りである。そう言えば、シリア砂漠にはこのような丸々とした小石はなかった。皆、ごつごつ、ざらざらとしていた。
 ヒロコは小石を拾い上げ、胸の前で両手に握りしめて温めた。冷え切ったこの小石も、体温で包み込めば、温かくなるに違いない。 
 そうだ。まだ、望みはある。
 『お願いを・・・しても、いいですか』
 『なんだ』
 『今度こそ、ユウスケ君のもとに、送ってください』
 予言者は干からびた唇を引き攣らせて笑った。青白い光が増した。
 『こんな身になっても、それでも、会いたいのか』
 ヒロコは頷いた。
 『どうしても会いたいか』
 『どうしても』
 会ってから死にたい、という気持ちは読み取られたくなかった。
 『よかろう』
 冷え冷えとした夜風が吹き抜ける。落ち葉がざわめく。骨と皮だらけの男の輪郭がぼやけた。体全体から放たれる光はいや増しに増してまばゆく、刺すように強いオーラが彼の全身から発散された。彼は再び、幽体離脱を始めたのだ。
 『準備はできたようだ』
 『準備? 何の準備?』
 半透明の身体がヒロコの前に屈みこみ、片膝を突いた。ヒロコはがくがくと震えた。不意に沸き起こった底知れぬ不安に胸が押し潰されそうであった。ユウスケを、自分は燃やしている。シリアでさらにたくさんの人を燃やしてきた。自分は今、彼のもとに現れて、いったい何をしようとしているのか。自分は彼に許されたとでも思っているのか。
 <寒い>
 彼と再会したとき、本当の意味での「審判」が、自分に下される。
 これ以上、存在してもよいのか、という、審判が。
 <ユウスケ君>
 男の手が肩に触れた。
 <お願い>
 雷鳴に打たれたような衝撃を全身に浴びた。彼女は樹海の森から消えた。
 小さなつむじ風が起こり、彼女の先ほどまでいた場所を掃き清めた。
 森に静寂が戻った。何万年も前から変わらない、夜露と無数の短い命を包み込んだ、じっとりと重い静寂である。
 雲が月を隠した。
 フクロウが一声、低く鳴いた。



(第三話おわり)




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火炎少女ヒロコ 第三話(草稿)  ~16~

2015年09月22日 | 連続物語

 『逃げるぞ』
 それからのことを、ヒロコはあまり覚えていない。腕を引っ張られ、強引に砂地を走らされたはずだ。一頭のラクダに乗せられ、自分のすぐ背後にシャイフも跨った。砲弾の飛び交う中をラクダは猛り狂ったようにじぐざぐに走った。こういう混乱した時は、ジープなんかよりラクダの方がよほど目立たない、というシャイフの目算があったのかも知れない。とにかく、爆発で跳ね上がった砂をかぶり、脇腹すれすれのところを機関砲が突き抜け、何が何だかわからない状況で、幾度かほとんど吹き飛ばされたような気さえしたが、体のどこにも痛みを覚えていないので、してみると無事だったのだと言えよう。
 気がつけば、彼女とシャイフはラクダを捨てて岩山を登っていた。促されるままに、彼女は必死で岩をつかみ、ざらざらした山肌を這い上った。肘をすり剥き、血がにじんだ。生きたい、という本能的衝動だけで手足を動かしていた。疲れを意識する余裕さえなかった。やがて巨大な岩と岩の隙間に、大人が背を屈めて入れるだけの洞穴が現れた。二人はその中に転がり込んだ。
 冷たいごつごつした地面に伏し、肩で息を切らせながら、ヒロコは自分が、身に着けていた豪華な衣装や装身具のほとんどを振り捨ててきたことに気付いた。
 薄紫のベールだけは辛うじて頭にかぶったまま、全身砂まみれの惨めな格好で、彼女は今、洞穴にいた。男と二人きりで。
 嫌な予感を、ヒロコは覚えた。
 洞穴の内部は外から見るよりも広い。以前に誰かがそこで焚火をした跡もある。光が差し込まないので夜のように暗く、すぐ隣にいるシャイフの表情さえはっきりと見えない。
 彼に腕をつかまれ、ヒロコは痙攣した。有無を言わせぬ力強い手だった。汗ばんで上気し、鋼鉄のように固かった。
 外では、いまだ爆撃が続いている。その音は地鳴りのように洞窟の中にまで響き渡る。
 シャイフは息を荒げながら、囁くように言った。
 「You OK?」
 彼の知るほとんど唯一の英語である。大丈夫かと訊いてきたのだ。ヒロコはまだ頭がぼんやりしている。頭痛と吐き気も収まっていない。
 「You, fire,OK?」
 燃やす能力は復活したかと訊いているのだろう。ヒロコは力なく首を横に振った。
 暗がりがひんやりと重みを増した。
 生唾を呑み込む音。
 腕を握る男の手にさらに力がこもった。痛い。病的にかっと見開いた目で、彼は東洋の女を見つめた。
 『わが軍はお終いだ。我々もお終いだ。だが、私の望みは一つだけ叶わせる』
 アラビア語だったが、内容は明確にヒロコの頭に届いた。オーラである。彼は再び、強力なオーラで伝えてきたのだ。
 ヒロコは激しく怯えた。彼の手を振り解こうともがいたが、叶わなかった。
 自分はなんでこんな目に遭うんだろう。男に強く抱き寄せられながら、ヒロコは心に思った。ベールが黒髪から落ちた。武骨な手が彼女の小さな背中をまさぐる。なんでこんな目に。自分が悪いのだろうか。いったい何が悪かったのだろう。人を燃やしたりするようなバケモノに生まれたこと?
 <それって、私が悪いの? じゃあ私はどうすればよかったの?>
 男の熱い唇が彼女の唇に吸い付いた。情熱的で、官能的である。
 <この人に抱かれながら爆撃されて死ねば、それはそれでいいのかも>
 そんな考えがふと脳裏をよぎった。自分の人生に早く区切りをつけたい、という前から心に巣食う願望も、それを後押しした。
 息苦しくなった。男の手が彼女の尻を激しく撫でた。
 腐ったキャベツに顔を押し付けられたような、どうしようもない嫌悪感が、彼女の腕に尋常でない力を与えた。
 男の分厚い胸板を、どこにそんな力が残っていたのか、というほどの勢いで、突き放した。
 <死ね!>
 彼女はありったけの念を込め、男が燃え上がることを願った。しかし、燃えない。何一つ変化はない。多国籍軍のシールドは完璧に彼女の能力を封鎖しているのだ。
 奈落の底に落ちるような絶望感が彼女を襲った。
 アブドゥル=ラフマーンは汗だくの顔でにやりと笑い、腕を大きく振り上げると、手のひらで日本人女性の頬を思い切り叩いた。ぱん、と音がした。意識が遠のくほどの痛みを覚え、ヒロコはのけ反った。
 大きな影が彼女にのしかかる。さらに何発か、彼女の抵抗の意志を根こそぎ奪うかのように、両頬に張り手を浴びた。そのたびに彼女は短い叫び声を上げた。
 腫れ上がった頬に涙が溢れ出た。
 <嫌! 嫌!>
 その時ふと、背後から肩に手を掛けられた感覚を覚えた。それは今、まさに自分に覆い被さろうとする男の手ではない。がりがりに痩せたほとんど骨だけの手。どこか懐かしい感覚である。死神に手をかけられたような冷たさがあった。ああ、自分は死ぬのだ、と彼女は思った。途端に、体の芯を捻じ曲げられるような衝撃を覚えたが、その衝撃すら、なぜだか懐かしいものを感じた。
 次の瞬間、彼女は忽然としてその場から姿を消した。
 完全に消えたのだ。
 踏みつけられた薄紫のシルクのベールだけが、後に残った。
 驚愕のあまり声も出ないシャイフを、F15のロケット弾が洞穴ごと跡形もなく吹き飛ばしたのは、それから十秒と経たない後のことであった。

♦    ♦    ♦


 (つづく)



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火炎少女ヒロコ 第三話(草稿) ~15~

2015年09月15日 | 連続物語

 ヒロコは立ち上がった。拳を握り、目を見開き、意識を集中した。
 青空。
 迫りくる敵機から伝わる、蜂の大群のようなうなり。先ほどと同じであった。何一つ変化がない。変化のないことが、異変を告げていた。ヒロコは焦り、再度意識を集中した。しかし変わりはなかった。彼女がどれだけ念じても、敵機は一台も燃え上がらなかった。何度か悪夢で見た光景のような気がした。まさか、とヒロコが愕然とした瞬間、今まで感じたこともない、まるで津波に呑み込まれるような猛烈なエネルギーを彼女は浴びた。あまりの衝撃に彼女は悲鳴を上げて悶絶し、胃液を吐き出した。
 <何? 何これ? 私より────私より遥かに強い力だわ!>
 部隊全体に動揺が走った。人々は騒ぎ始めた。アブドゥル=ラフマーンは汗を浮かべ、椅子に倒れ込んだヒロコの肩を支えた。
 『どうした。ヒロコ。何が起こった』
 『でき、できない・・・・強力な・・・ずっと強力な・・・』
 『効かないのか』
 『できない・・・』
 <そうよ。やっぱり平和が一番いいのに、私はいったい何をしようとしたんだろう>
 いよいよ近づいてきた何十台もの敵機を見上げながら、ヒロコは呆然と、この緊急事態にそぐわない思いにとらわれていた。
 <普通に食べて、普通に過ごして・・・もう遅いかしら。なんで勝てる、なんて思ったんだろう。勝てると思っていたのかしら。ああ。決まりきっているわ。平和が一番じゃない。すごい数の飛行機。殺しに来たのね。私たちみんな、殺されるのよ。死ぬときって苦しむのかしら。来ないで。お願いだから来ないで。もうあんな近くまで・・・・駄目よ。逃げられない。私、たくさん燃やしてきたから、今度は燃やされるのよ、もちろん。全部、全部私のせいよ。もうすべて遅いわ>
 一方、はるか上空から高度を下げつつある編隊の中心には、四機ほど横に連なって飛ぶF15戦闘機があった。カワセミのくちばしのように鋭く尖った機体。それぞれのコクピットの後部座席には、さまざまな肌の色を持つ特殊能力者たちが搭乗していた。彼らは互いに離れていても意識を連携させ、目に見えない巨大なオーラを形作っていた。
 金髪、長身の男、ダスティン。米軍で訓練を受けた特殊能力者である。
 黒髪に褐色の肌、淡緑色の瞳を持つ女、スシーラ。インド生まれイギリス育ちの特殊能力者である。
 縮れ毛に広い額、丸縁眼鏡をかけたユダヤ人男性、イツハク。体全体を小刻みに震わせてオーラを出している。
 長い巻き毛に吹き出物の多い顔をした、混血の中年女性、アレクサンドラ。四人の中で最年長である。米軍で訓練を受け、今回の合同作戦ではリーダーを務める。
 彼女が心から心へと、他の三名に語りかける。
 <今のところヒロコの能力を防ぐことに成功。爆撃開始一分前。各機展開後もこのままシールドをかけ続けること。大丈夫。大したことないわ>
 彼女は鼻で吐息をついて、目を細めた。
 <可愛そうに。あの子、芸をきちんと仕込まれないうちに見世物に出されたのよ>
 コクピットの偏光ガラスに、美しい曲線を描いて地平線が映る。
 それから、不毛の大地。そこに寄せ集まった、ゴミのような集団。
 アレクサンドラは声を出した。声を出すこと自体好まないような、ひどく冷めた声だった。
 『攻撃開始』
 次の瞬間、シリア砂漠を覆う蒼穹に、矢のような火花が走った。
 空気をつんざく音。地響きがして、アル・イルハム側に唯一あったスカッドミサイルが激しい衝撃音とともに高々と黒煙を上げた。
 鋭い擦過音が次々と繰り出された。まるでロケット花火である。あちこちで爆発音とともに砂塵が高く舞い上がる。大地にねじ込まれるような悲鳴が溢れ、人々は逃げ惑った。
 地上では戦車やカノン砲で応戦したが、とても太刀打ちできる相手ではなかった。まるで、蟻の群れが潰されるように、ベドウィンの兵士たちは次々と倒れていった。
 一頭のラクダが燃上しながらいななき、崩れ落ちた。
 死者の流した血は砂漠に浸み込み、すぐに乾いた。
 ベドウィンたちは大混乱に陥った。轟音を上げて飛び交う機影の下で、人々は右往左往し、逃げ惑い、呪いの言葉や悲痛な叫び声が岩山まで響き渡った。
 呆然自失のヒロコの手を取る者がいた。病的なまでにぎらぎらとした目で彼女を見つめる。シャイフのアブドゥル=ラフマーンである。
 『逃げるぞ』

 (つづく)


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火炎少女ヒロコ 第三話(草稿) ~14~

2015年09月01日 | 連続物語


 「しっ、来るわ」
 「ヒロコ」
 入口の布がさっと開いた。アブドゥル=ラフマーンが護衛兵を従えて姿を現した。
 ヒロコの変わり身は素早かった。彼女は瞬時に手のひらで頬の涙を拭い、しっかり身を起こし、別人のように生き生きとした笑顔を浮かべて彼らを迎え入れた。
 族長は鋭い視線を二人に向けた。黒い鼻髭が引き攣ったように動く。
 『逃げることを勧めたな』
 彼の言葉を兵士が英訳する。それに答えたのは、うろたえた織部ではなく、ヒロコ自身であった。彼女は片言の英語ながらしっかりと張りのある声で答えた。
 『違うわ。元気を出せって、言ってくれたの』
 『逃げることを勧められたろう』
 『違うわ。違うわ。もちろん確かに、ここにいて大丈夫か、と彼は聞いたわ。彼はそう聞いたけど、私は逃げない。そんなことには決してならないわ。もう大丈夫。もうほんとに大丈夫。私、とても長い間、日本人に会ってなかったから。とても長い間、私は孤独だった。日本人に会えて、話して、よかった。私はもう元気。とっても元気。ミスター・オリベのおかげよ』
 まるで別人のような快活ぶりである。笑顔を振りまき、はしゃぐように喋った。アブドゥル=ラフマーンは眉を顰めた。織部も、彼女の豹変ぶりに唖然とした。
 ヒロコは懸命に復活を演じた。
 『もう大丈夫。今度の戦いにも出られるわ。ね、見て。ミスター・オリベと話して、私こんなに元気よ』
 『では多国籍軍との戦いに備えることができるのだな』
 ヒロコは激しく頷いた。
 『そう。大丈夫。大丈夫だから。だから、ミスター・オリベを安全に帰してね。お願い』
 シャイフは険しい目でじっとヒロコを伺っていたが、納得したように頷いた。
 『よし。わかったヒロコ。この東洋人は確かに、お前を元気にさせた。お前の心に巣食う悪魔を追い出したようだ。安心しろ。彼は安全に送り返す』
 『きっとよ。きっと。お願い』
 『オリベ。お前の仕事は済んだ。出ろ』
 問答無用であった。抗弁の余地はなかった。シャイフに顎で促され、織部は後ろ髪をひかれる思いで天幕の外に出た。すぐに兵士二人が両脇につく。虚脱感でしゃがみこみそうになるのをこらえ、織部は歩いた。彼の救出作戦は失敗したのだ。しかし彼自身の命はひとまず、ヒロコによって救われた。ヒロコは自分よりも、同胞人を救う道を選んだのだ。
 炎天の下、織部は下唇を強く噛んだ。
 <無力だ・・・・なんて無力なんだ俺は! 畜生! 何のためにここに来たんだ? 何てこった・・・あの子の目! 可愛そうに。あんな重荷を背負って・・・人殺しという重荷だ。一生下ろせない重荷だ。ヒロコ! ヒロコ! どれだけの苦しみに君は耐えているんだ? 君はもう覚悟を決めているんだね。なんという覚悟だ。君は最後まで、自分が死ぬまで、人を殺し続けるつもりなんだな>
 思い詰めたその表情は、日に焼けた皺を刻んで、醜悪であった。  

♦      ♦      ♦


 二日後。
 空はこれから起こるであろう殺戮など全く無関心に、美しく青紫の朝日を迎えた。
 ラクダがいななく。兵士たちの号令が岩山にこだまする。
 テントの片隅で、祈りを捧げる老人の声がかすかに聞こえる。
 叫び声が上がった。
 見上げると、青空は点々と汚れ始めていた。それぞれの点は徐々に拡大した。翼が生え、機体の姿になった。多国籍軍である。その数、七、八十。
 怒号が飛び交う。人々は臨戦態勢についた。
 アル・イルハム側からはまだ一機の戦闘機も飛び立っていない。しかし巨大なスカッドミサイルと、十数台の戦車の主砲、それに数多のカノン砲、迫撃砲、機関銃などの銃口が、まるで、賓客の到来を待ちわびるクラッカーの列のように、一斉に彼方の空へと向けられた。
 その中心には、男八人が掲げる井げた状の神輿に乗って、ヒロコがいた。
 その姿は滑稽であった。滑稽なまでに、彼女は美しかった。
 宝石と刺繍の施された緋色と赤銅色の衣装を重ねてまとい、薄紫のシルクのベールを被っている。真っ白に化粧をし、豪奢な椅子に腰かけ、紅を引いた唇を一文字に結んで空を見つめていた。
 厚化粧を望んだのはヒロコ自身であった。胸中の動揺を、なるべく表に見せたくなかったのだ。今や、彼女はこの一帯の女王であった。女王である限り、死と直面する壮絶な場面においても、威厳を失いたくなかった。それがずたずたに心を病んだ彼女に残された、わずかな誇りであった。
 彼女の側には、堂々たる体躯の、アブドゥル=ラフマーン。そして百を超える護衛兵たち。皆一様に、緊張した面持ちである。
 誰かが生唾を呑む音。
 幾重にも重なり合った轟音が聞こえ、敵機の輪郭がはっきりと目視できるまでになった。
 多い。これまでにない数の敵機である。
 両手で顔を覆う者が現れた。どこからか悲鳴も聞こえた。
 兵士の一人が敬礼をして叫んだ。『これ以上近づくと危険です!』
 アブドゥル=ラフマーンが囁いた。『ヒロコ』
 空が轟く。
 ヒロコは立ち上がった。拳を握り、目を見開き、意識を集中した。

(つづく)





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火炎少女ヒロコ 第三話(草稿) ~13~

2015年08月24日 | 連続物語

 織部は立ちすくんだ。彼の目に涙が浮かんだ。それくらい彼女の変わりようは激しかった。
 落ち窪んだ目のふちとげっそりと痩せた頬。単に痩せたのではなく、精神の異常が顕わである。病的に見開いた虚ろな目。小刻みに震える指先。彼女は生きながらにして廃人と化していた。
 その姿はまるで、砂漠に根付くことなく枯れ朽ちてしまった一輪の花のようであった。それも、満開を知らないまま、まだうら若い蕾のままで。
 それでもヒロコは、完全に心の病に侵されているわけではなかった。彼女は闖入者に気づいた。焦点の合わない視線は彼を捉え、しばらく経ってからはっきりと焦点を取り戻した。表情に驚きが広がった。
 「け・・・刑事さん?」
 織部は膝を突いた。
 「ああ、ああ、そうだよ。覚えているかい?」
 「私を取り調べた刑事さん」
 「そうだ。刑事だ。覚えているかい? 今は休職中だがね。でも確かにあのころは刑事だったよ。そうだ。君を取り調べた織部だよ」
 言いながら、織部はやるせない悲しみでいっぱいであった。彼女をこんな姿にさせた何かに対する激しい怒りがあった。その何かは、特定の個人なのか、それともほとんど社会全体と言っていいほどのものなのか定かでなかった。しかし明らかに、この子にはまったく別な道もありえたはずだ。そういう思いがあった。
 彼はふと自分の両脇に兵士がいることに気づいた。英語で吐き捨てるように言った。
 『出てってくれ。彼女と二人だけにさせてくれ』
 『それはできない。命令だ』
 『それでは彼女の心を開かせることができない。無理だ。出てってくれ』
 監禁されて以来初めて発した強い口調であった。二人の兵士は互いに見交わしていたが、織部を残して立ち去った。
 二人きりになり、織部は改めてヒロコを見つめた。激しい当惑と喜びと不安のないまぜになった彼女の目に、自分の目の高さを保ったまま、にじり寄った。
 「織部だ。日本の織部だ。君が小学生の時から事件を担当してきた。わかるか?」
 泣きそうな笑顔が頷いた。
 「なんてことだ。がりがりに痩せ細って・・・どうして、こんなになるまで・・・今も・・・苦しいのか?」
 頬を震わせながら、彼女は頷いた。
 「私を捕まえに来たの?」
 「違う。そうじゃない。今は、日本の刑事じゃないんだ。俺は────昔からの知り合いとして、君に会いに来た。君の知人として。君のことが心配で来たんだ」
 彼は周囲に視線を走らせた。唾を呑み込み、意を決した顔で、ぐっと声を低めて言った。
 「ヒロコ。逃げよう。ここから逃げよう」
 ヒロコは目をまじまじと見開いて織部を見つめた。当惑する黒い瞳に、一瞬間、期待が掠め、消えていった。
 力なくヒロコは首を横に振った。
 「逃げよう。俺と一緒に。ここは地獄だ。死の世界だよ。さっき、首長みたいな男が、君の心に悪魔が宿っていると言った。だが違う。本当はここ全体が悪魔で、君は悪魔に囚われているんだ。君はまだ正気だ。大丈夫だ。逃げよう。多国籍軍の攻撃が始まる。これ以上・・・もう、何もしなくていいんだ。もう君は何もしなくていいんだよ、ヒロコ。だから、逃げよう」
 ヒロコは首を横に振った。涙が散った。
 「どうしてなんだ? 奴らをうまくだましてジープに乗り込もう。何とかなる。ここにいると君は狂ってしまう。全てが手遅れになる前に・・・どうしてだ? なあ、どうしてなんだ? ここから逃げたくないのか?」
 「駄目」
 「どうしてなんだヒロコ」
 「私は殺人鬼よ。逃げたって、行くところがないの」
 「ある。日本があるじゃないか。日本に帰ろう。日本が、日本が駄目なら、一時的にどこか別の国へ身を隠せばいい。とにかくどこでもいい。ここにいて人を殺し続けるよりはましだ」
 「しっ、来るわ」
 「ヒロコ」

(つづく)

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火炎少女ヒロコ 第三話(草稿) ~12~

2015年08月14日 | 連続物語


♦      ♦      ♦



 多国籍軍介入を三日後に控えた九月半ばの灼熱の午後。蜃気楼の揺らぐ砂漠の地平線に現れた一台のジープが、アル・イルハムの本陣までやって来て止まった。
 布と黒いリングを頭に乗せた兵士二人に挟まれ、車から降り立ったのは、日本人であった。砂塵に揉まれて薄汚れたよれよれのスーツに、無精ひげ。
 織部である。
 彼が二人の米国人とダマスカスに降り立ってから、一か月が経っていた。
 超能力の研究者集団という偽の肩書で、彼らはアル・イルハムに接触を試みた。イスラム圏の知識人や有力者たちの推薦書も周到に用意した。交渉はぎりぎりのところまでうまくいったかに見えた。しかし、アル・イルハムの幹部との初会合で、いきなり白人二人は捕えられ、織部と引き離された。もともとからアル・イルハムの狙いは日本人の織部一人にあったのだ。織部自身は机と椅子と床敷きのベッドと、鉄格子付きの窓しかない部屋に命令も説明もなく二週間監禁された。拘束された二人の米国人がその後どういう運命を辿ったのかは、織部は知らない。
 今、ジープから降り立った彼は、眩しそうに、砂漠と、岩山と、ベドウィンたちのテント村を見渡した。ラクダや羊はほとんどいない。その代わりに見えるのは、周辺にぐるりと置かれた、何台もの軍用車両や分捕り品の戦車。
 何とも異様な風景に彼の目には映った。破壊する物などない不毛地帯のど真ん中に、125ミリ砲を備えた戦車が鎮座している。伝統的な服装のベドウィンたちがライフルを担ぎ、山羊の毛で織った黒いテントの脇に、ジープやトラックが横付けされている。目的も時代も異なる物がいっしょくたに集められた観があった。
 織部は強烈な日差しに顔を顰めた。
 一行を、シャイフ・アブドゥル=ラフマーンが出迎えた。彼が歩けば、小石混じりの砂地までが威厳をもって鳴る。
 彼は品定めをするようにじろじろと無精ひげの東洋人を見つめた。
 『お前が日本人のオリベか』
 兵士が織部の耳元で英語に訳す。織部は頷いた。
 『お前はヒロコを昔から知っているのだな』
 織部はまた小さく頷いた。
 彼を穴のあくほど見つめていたシャイフの顔面に不意に怒気が広がったかと思うと、彼は腰にさした短剣の柄を握り、かちゃり、と、光る刃先を見せた。
 『お前はヒロコを取り戻しに来たのではないか』
 英訳を聞いて織部は動揺した。彼は汗を浮かべながら首を横に振った。
 『構わん。どうせその試みは成功しない。もし、お前が、ヒロコに逃げることをそそのかしたりしようものなら、お前の命はその時までだと思え』
 生唾を呑み込み、織部は頷き返した。
 『よし。それでは病人に会ってもらう。わかっているだろうが、彼女の心に巣食った悪魔を追い出すことが、今のお前の使命だ』
 有無を言わさぬ気迫である。織部は今更ながら、到底なしえない任務を引き受けてしまったのではないかと悔やんだ。しかし同時に、ヒロコに会いたい、一目見たいという衝動はかつてなく高まっていた。現在の自分が死と隣り合わせなら、ヒロコはそのまっただ中にいる、しかもたった十七歳で。
 織部は顔を上げ、族長の差し伸べた手の方向へ歩き出した。両脇には、カラシニコフを肩にかけた二人の兵士がしっかり密着してついて行く。
 他と比べてひときわ大きく立派な天幕へと織部は案内された。
 深呼吸し、中に入る。
 すぐに香の煙が鼻を突いた。そこには豪華な調度品に囲まれて、贅沢な装身具を身にまとい、肘枕に半身を沈めて窪んだ目を見開いた高瀬ヒロコがいた。
 織部は立ちすくんだ。彼の目に涙が浮かんだ。それくらい彼女の変わりようは激しかった。
 落ち窪んだ目のふちとげっそりと痩せた頬。単に痩せたのではなく、精神の異常が顕わである。病的に見開いた虚ろな目。小刻みに震える指先。彼女は生きながらにして廃人と化していた。


(つづく)

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休載

2015年07月27日 | 連続物語
生業が繁忙期に入るため、『火炎少女ヒロコ』の更新は八月下旬までお休みさせていただきます。

という告知がどれほど必要とされているかはいざ知らず。





※写真は新潟の海。海無し県にいるせいか、どうしても海が見たいという欲求に駆られ、車を走らせる。
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火炎少女ヒロコ 第三話(草稿) ~11~

2015年07月14日 | 連続物語

 『シャイフ・アブドゥル=ラフマーン様がお越しです』
 若い通訳は慌てて身を退いた。アラビア語のわからないヒロコも、名前だけは聞き取ることができる。彼女は火照った頬に手を当て、ひどくうろたえながら姿勢を正した。
 香の煙が乱れる。
 幕が開き、族長が姿を現した。
 白い長衣に何重にも巻いた首飾りを下げ、その上に族長だけが身に着けることを許された彩り豊かな外套を羽織っている。ここ数か月のアル・イルハムの軍事的躍進が、彼の威信をかつてないほど高めていた。腰には宝石を散りばめた金色の短剣。威風堂々とした立ち姿に似つかわしい、長く黒々としたあごひげ。
 族長はじろりと室内を見渡し、部屋の隅に小さくなっているサリムを見やった。
 『なぜお前がここにいる』
 『ヒロコ様のご命令で、戦況について説明していました』
 『ふむ。まあ、お前がいると都合がよい。わしの話すことを英語で伝えろ』
 『かしこまりました』
 族長は正面を向き、超人的な力を持つ女を見据えた。ヒロコは動揺を悟られないよう努めて彼を見返した。
 族長は片膝を立てて腰を沈めた。
 『同志ヒロコに神のご加護を。時が来た。多国籍軍がこちらに向かっている』
 サリムは目を見開いたが、すぐに英語に訳した。
 族長は続ける。
 『あなたの一層の活躍を、我々は期待している』
 ヒロコは身じろぎもせず、族長のアラビア語とサリムの英語に耳を傾ける。
 『今度の戦いは、今までのように簡単にはいかない』
 族長は自らを落ち着かせるために言葉を切った。貫くような視線でヒロコを捉える。
 胸を膨らませ、深呼吸を一つ。それからヒロコににじり寄った。
 『同志ヒロコ。時は来たのだ。我々は本当の意味で団結して、一つになって外敵に当たらなければいけない。一つにならなければいけないのだ。ヒロコ。あなたは砂漠にかかる月のように美しい。あなたは私の妻として相応しい。私もあなたの夫として相応しい男である。一つになろう。これは、あなたがムスリムに改宗する絶好の機会でもある。どうか、私と結婚してほしい』
 ヒロコは青ざめた。語られたのが求愛の言葉であることを、雰囲気で察知した。しかし、確かなことが知りたい。肝心の英語が聞こえてこない。若き通訳は、あまりに愕然として声が出なかったのだ。
 族長の鋭い視線が通訳を捉えた。
 『どうした。サリム。なぜ訳さない』
 『いえ、はい。ただいま』
 『なぜ汗を掻いている。なぜ顔が赤い』
 シャリフ・アブドゥル=ラフマーンは、怒りに満ちた形相で、若い通訳と東洋の女を見比べた。明敏な彼は直観ですべてを悟った。
 『おのれ、サリム。身の程を知れ!』
 黄金の短剣が抜かれ、鋭いうなりを立てて弧を描いた。青年の首が血しぶきを上げて胴体から離れた。あっという間の出来事であった。首は、絶叫を上げることもできず天幕にぶつかり、床に転がった。
 ヒロコは癲癇を起こしたように全身を痙攣させた。あまりの恐怖に腰が砕け、逃げ出したくても後ずさりすらできなかった。ヒロコは恐れおののいた。数多の人を焼き殺しながら、今初めて、彼女は死の恐怖というものを味わった。大量の鮮血。血痕が彼女の衣服にかかっている。アブドゥル=ラフマーンも、首のない胴体が倒れるときの返り血で真っ赤である。足元には血の池。
 天幕の裾から、ジャミラががたがたと震えながら中を見つめていた。
 顔までも血に染めた族長が、凄まじい形相でヒロコを睨みつけた。
 もちろん、彼自身も命の危険と隣り合わせであった。火炎少女に燃やされる恐れがある。だが、彼の気迫ははるかにヒロコの能力を上回った。ヒロコは怒りを覚える余裕すら与えられなかった。彼女は子犬のように怯えた。
 アブドゥル=ラフマーンは短剣を鞘に納めた。荒い息で肩が上下する。
 『敵の襲来に備えろ』
 彼は広い背中を向けた。
 『血の付いた物はすべて替えさせる。通訳も新しいのを見つける』
 そう言い捨てると、彼は天幕の外に立ち去った。もちろん全てアラビア語だったが、ヒロコは不思議とその内容を正確に理解できた。彼のオーラから読み取ったのだ。剣を抜いた後の族長からは、今までになく強力なオーラが発散されていた。彼は、ほとんど特殊能力者に近い力を持っていた。
 あとに、凄惨な胴体と首と、大量の血と、ヒロコが残された。ランプの灯りがそれらを無情にもくっきりと照らした。
 ヒロコは嗚咽した。
 夜風で天幕がばた、ばた、とはためいた。

(つづく)

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火炎少女ヒロコ 第三話(草稿) ~10~

2015年07月07日 | 連続物語

 「アイスが食べたい」
 日本語で言い放った。
 ジャミラは眉を顰め、顔を覗き込んだ。「What?」
 「アイス。アイスよ。アイスクリーム」
 「Oh. No. No ice cream」
 「わかってるわよ。どうせここには冷蔵庫がないもの。こんな砂漠のど真ん中じゃ」
 「マーファヒムトアレーク」
 ヒロコの苛立ちは頂点に達した。「アラビア語でしゃべらないでよ。イングリッシュ。イングリッシュ!」
 ジャミラはうろたえて天幕を出て行った。
 残されたヒロコは舌打ちする。宝石を嵌めた指が震え、髪が乱れる。自分はこんなところで何をしているのだろう、と彼女は思った。日本語の通じない、暑くてもアイスも食べられないような辺鄙な場所で。
 何をしているか? 殺人をしているのだ。殺人────それ自体は、回を重ねるごとに、ヒロコの心を前ほどかき乱さなくなっていた。そのことも彼女自身驚きであった。彼女は自分が人の死に関して不感症になっているのを自覚した。だが、ずっしりと重い、まるで焼け焦げた死体が自分の胸に次々と折り重なっていくような重苦しさを、日を追うごとに強く感じていた。
 ヒロコは吐息をついた。
 ジャミラは背の高い通訳の男を連れて戻ってきた。彼の名はサリム=カルハシュ。ヒロコがこの地で意識を回復して以来彼女の通訳を任されている。この部族で唯一英語のできる男である。鼻髭を蓄え、彫りの深い目をしている。
 彼が入ってくると、ヒロコの様子が変わった。さりげなく髪の乱れを直し、毅然とした態度を取る。頬がうっすらと紅潮している。
 サリムは深くお辞儀をした。それから、『何をお望みですか』と英語で尋ねた。
 ヒロコは伏し目になり、小声の英語で答えた。
 『彼女を外へ』
 サリムは頷き、ジャミラにアラビア語で外へ出るよう指示した。ジャミラは驚きと憤りの表情でじっとヒロコを見つめると、部屋を出て行った。
 広い天幕に、青年と二人きりになった。ヒロコは脇の天幕を見つめながら、熱い吐息をついた。
 サリムは凛々しい眉の奥にある情熱的な眼差しで女主人を見つめた。その視線を、目を合わさなくともヒロコは痛いほど感じ取っていた。ユウスケは────ユウスケはもちろん、彼女の思い出の中で依然として大きな位置を占めていたが、いかんせん、彼はここにいなかった。会える見込みもなかった。果てしない砂漠と打ち続く戦闘は、ヒロコの精神をひどく疲弊させた。どれだけもてはやされても、心は洞穴のように空虚であった。虚しさのあまり死んでしまうのではないかと思った。何より彼女は若かった! 彼女は慰めを欲していた。また、慰めを求めても許される地位にあった。
 紅潮した顔をさらに火照らせ、ヒロコは視線を落としたまま、小さく頷いて見せた。それが合図だった。サリムは興奮した眼差しで彼女を見つめたまま足元まで近寄ると、その場でひざまずき、額が床に突くほどの礼拝をした。
 「サイェート(ご主人様)」
 そうつぶやくと彼は面を上げ、ヒロコの右の素足を両手に取り、接吻した。
 ヒロコは目を閉じた。
 足の甲に潤いを感じた。そして情熱。接吻は儀礼的なものに終わらなかった。柔らかく離れ、また柔らかく戻ってきた。足の甲から、指先、土踏まずへと。ヒロコは目を閉じて口を半開きにし、官能の疼きに身を委ねた。
 なぜか哀しくて涙が目に溢れた。
 絶えず監視される身である主人と下僕に許された、これはぎりぎりの戯れであった。どちらが言い出したわけでもなく、始まり、続いてきた戯れであった。これ以上は決して進んではいけない、という暗黙のルールだけがそこにはあった。
 だが今日はサリムの方が興奮していた。彼は我慢ができなくなったのか、思わずヒロコの足首を強く掴んだ。あっ、とヒロコが思ったちょうどその刹那、天幕の外からジャミラのアラビア語が聞こえてきた。
 『シャイフ・アブドゥル=ラフマーン様がお越しです』

(つづく)


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火炎少女ヒロコ 第三話(草稿) ~9~

2015年06月30日 | 連続物語


 織部は十二の少年のように顔を真っ赤に染めた。

 ──────あの時、自分は魂をアメリカに売ったのだ。そう、織部は回顧した。自分の職業も、日本も、家族も、ある意味ではあの時、捨てたのだ。そして今、彼らの指示を受けて、彼らと共に飛行機に乗り、シリアに向っている。
 <そうだ>彼は爪を噛み、眉間に皺を寄せた。<俺は結局、あの娘に会いたいだけなんだ。どんな手段を使っても会いたいんだ。あの娘の今を見てみたい・・・会って、それからどうする? この切ない胸の内でも告白するか? は、は! はは!・・・だけど、俺はほんとに、あの娘をNASAなんかに引き渡すつもりか?>
 彼は通路を挟んだ隣の席を一瞥した。見ると、そこに座る白人が、先ほどからじっと彼の方を観察している。
 「おい、ジョージ」
 極まりが悪くなった彼は、白人に新聞を突き出してみせた。
 「ここんとこの記事にはなんて書いてあるんだ」
 彼は英字新聞の内容をほとんど理解していなかったのだ。ジョージと呼ばれた顔の小さなとんがり頭の白人は、彼が指差す部分に目を通し、片言の日本語で答えた。
 「ヒロコのこと」
 「それぐらいわかってらあ。これだけ写真が載ってりゃあな。ここの飛行機が墜落して燃えてる写真も、ヒロコのしわざか」
 「ミグ23。ヒロコが燃やした」
 「ミグ23・・・シリア空軍か」
 「イエス。シリア空軍。ついにシリア政府、世界にお願いした。軍隊送ること。いよいよ世界から軍隊シリアに集まる。ヒロコとても危険」
 ジョージの隣に座る別の大柄な白人が英語でジョージに囁いた。ジョージは頷き、織部を振り返った。ぐっと声を落として囁く。
 「この飛行機、別の国のエージェント乗っているかも知れない。ヒロコの話題ダメ」
 けっ、と吐き捨てるように呟いて織部は前を向いた。面白くなさそうにソファに身を沈め、爪を噛む。
 <畜生。『とても危険』ってなんだ。どっちがどっちに対して危険だってんだい。ほんといろんなことがわかんなくなってんな。何であの娘はシリアなんかにいるんだ? あいつの意志か、これは?・・・じゃあおい、俺はどうだ。俺は果たして自分の意志でこの飛行機に乗っているのか? は! 大した「自分の意志」だよ。この売国奴が!・・・畜生、駄目だ。人間、いったん日陰に追い込まれると、性根までどんどん腐っていくみてえだ・・・いや。違う。違うぞ。俺にも正義感のかけらってものがまだ残ってらあ。俺はヒロコを救い出しに行くんだ。そうだ。そうだろう? それが俺の、俺だけが知る使命だ。ヒロコ、俺が助けに行くぞ。俺が行くまで死ぬな。誰かに傷つけられたりするな。それに・・・・それに、もう無益に人を燃やすな、馬鹿が>
 機体が揺れた。乱気流に入ったのだ。

♦     ♦     ♦


 線香の重い薫りが天幕の中に漂う。ランプの灯りが十七の乙女の肌を紅に染める。憂いを帯びて見開かれた黒い瞳には何も映っていない。腕や肩、額に巻かれた宝石の数々も、彼女一人だけのために銀の器に盛られたさまざまな果物も、彼女の倦んだ眼差しの先にはない。
 ヒロコは肘枕に寝そべり、たくさんの贅沢に囲まれ、この上なく憂鬱であった。
 部屋にはヒロコを除いてもう一人、隅の暗がりで片膝を突いて座り込み、じっとヒロコを見つめている女がいた。ジャミラである。彼女はヒロコの側仕えになっていた。
 線香の煙が蜘蛛の糸のように細く立ち昇る。
 立ち昇った煙は、夜風もないのに、途中で乱れる。
 <もう、百人くらい殺したろうか>
 ヒロコの目は苛々した光を宿した。
 <いや、そんなことはないわ。さすがに百にはまだ行ってない・・・>
 「ジャミラ」
 ジャミラはすぐに走り寄ってきた。
 「ホット!」
 手で首筋を煽ぐ真似をして英語で言うと、ジャミラは頷き、ヤシの葉で作った扇を取り出して女主人を煽ぎ始めた。ジャミラには幾つかの英単語しか通じない。そもそもヒロコの使える英単語もごく限られている。それらの言葉も、語の意味が伝わっているのか、ヒロコの手振りで何となく意図を理解しているのか怪しいものである。それに、ジャミラは最近、どんな命令を受けるときもどこか不機嫌そうである────ヒロコが最初の「奇跡」を行って戦車を燃やし、弟ハサンの仇を取った時は、泣きながら首筋に抱きついてきたのだが。あの時、生涯の服従を誓ったので、ヒロコもわざわざ彼女を侍従に指名したのだ。ちなみに長女のアイシャは「奇跡」の後もヒロコをいぶかしげに眺め、距離を置き続けた。
 扇で煽がれても、ヒロコの顔の曇りは一向に晴れなかった。やり場のない苛立ちが、もはや我慢できないほどに募る。
 「アイスが食べたい」
 日本語で言い放った。

(つづく)

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