た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

火炎少女ヒロコ 第三話(草稿) ~8~

2015年06月23日 | 連続物語


♦    ♦    ♦


 ヒロコの運命は一変した。アラジンのランプで魔法にかけられたかのようであった。もう少しで砂漠に一人追いやられ、朽ち果てたかも知れない、そんな寄る辺ない身の上から、一足飛びに、アル・イルハム部族(それが彼女を匿った部族の名前であった)の守護神的存在に祭り上げられたのだ。生と死の境するこの不毛地帯で最も不幸な立場から、一夜にして最も恵まれた地位へと上り詰めたことになる。
 彼女は彼女専用のテントを一張り与えられた。六人の侍女と高価な衣装と、毎日食べきれないほどのご馳走を提供された。夢のような生活であった。ヒロコは戸惑ったが、拒絶しなかった。一つに拒絶の方法を知らなかったのと、もう一つに、これは同情に値するが、彼女としては、人生で初めてちやほやされたのだ。それもいきなり、アラブの王族並みのとびきり豪勢なちやほやである。どんなに慎み深く控えめな性格でも、その誘惑に抗することはできなかったろう。ヒロコは着飾った。胸を張り、毛織物のソファに優雅に寝そべり、銀の器からなつめやしの実を取って食べ、そして、傲慢さを身につけた。 
 人々は彼女の前に額づいた。族長も。もちろんダリアの家族たちも。
 アル・イルハムとしても、シリア解放戦線の報復攻撃に備えて、是が非でもヒロコに部族内に留まってもらう必要があった。
 シリア解放戦線は実際、すぐ反撃に出た。だが、戦車であろうが騎兵であろうが、ヒロコの視野に入った途端に炎上させられては、太刀打ちできなかった。特殊能力の持ち主も戦闘員に駆り出された。彼らはヒロコの心理を操作しようとしたが、彼女はもはや完全に心を閉ざす能力を身につけていた。ヒロコにかなう者はいなかった。アル・イルハムは瞬く間に勢力を広げ、一大軍事組織になった。もともとは政府よりであったが、いつしか政府を脅かすほどの存在になった。シリア政府もようやく、国家安全保障に関わるという理由で鎮圧に乗り出したが、時すでに遅かった。アル・イルハムには国内から、また隣国から、さまざまな思惑の人物たちが参入してきていた。協力を申し出る者、政治的利用を狙う者、軍事顧問を名乗る者・・・。組織は次第に、征服欲と支配欲にまみれ始めた。拡大それ自体が目的化した。案ずることはない。我々にはヒロコがいる。
 ヒロコ。彼女の名前は瞬く間に中東全域に───いや、世界中に広まった。

 ダマスカス行きの飛行機の機内で、それらの事実を改めて確認した日本人がいた。日焼けした鷲鼻の顔。新調の高価なスーツ。膝元に英字新聞を広げているが、記事を読んでいるようには見えない。先ほどから写真ばかりを睨んでいる。写真は二点、一つは黒いチャドルに顔を隠したヒロコの写真。もう一つは墜落して燃え盛る戦闘機。鷲鼻の彼は爪を噛みながら怖い形相で考え事をしている。ときどき呻き声を漏らす。彼が呻くたびに、隣の白人女性が眉を顰める。
 呻く男は、織部警部補である。
 彼の視線は紙面にありながらも、心の中では思い起こしていた。およそ二か月前のことだ───────。

 駅前の食堂で飲んでいた彼は、下膨れでてかてか顔の、橋爪と名乗る男に声を掛けられた。「商談がある」という彼の誘いに乗り、小料理屋に場所を移して話を聞いた。驚いたことに、橋爪は自分の身分を、アメリカNASAの仲介人だと明かした。
 「へへへ、びっくりしましたか」
 橋爪は織部の反応を楽しむように口の端に唾液を溜めて笑った。「無理もありませんやね。たかが一人の女子高生のために、ついにNASAが動き始めたんですわ」
 織部は不信感でいっぱいの表情で相手を見返した。
 「目的は何だ」
 「もちろん、研究ですよ。研究です。人類の発展と世界の平和のための研究ですわ。願っただけで人を燃やせる少女がいるなんて言ったら、そりゃ研究の価値が大有りでしょ。NASAはそういうことでは常に世界の先駆者たれ、と思っていますからな」
 酔いを醒まそうと懸命に首を振りながら、騙されてはいかんぞ、と織部は心に何度も叱咤した。
 「俺に何の用だ」
 「彼女を捕まえていただきたいんです。あなたは彼女と面識があり、過去の事件で捜査担当だったってことも知っています。彼女はもともと閉鎖的な性格だ。孤独な十七の女の子だ。彼女の両親というのも、実の両親ではないそうですな」
 織部はますます驚いた。その情報を、彼は最近ようやく入手したところだったのだ。
 「あんたどこまで知ってんだ」
 「あなたの知っている範囲のおよそ一、五倍くらいですよ。でもそれ以上じゃありません。へへ。彼女の潜伏している先は、遠からず我々が突き止めます。しかし彼女との直接の交渉は、彼女の良く知っている人物が適当だろうとNASAでは思っとるんです。幸い────いや、不幸にも、と言うべきでしたな、あなたはヒロコの事件の管轄を外され、職業への意欲を無くしておられる」
 顔をどす黒く染め、織部は押し黙った。
 「いや、隠されんでもいい。我々にとっては都合のいいことなんですわ。え? そんなことまでよく調べ上げたなと思っておいでですか? NASAを舐めちゃいけません。まあ、今回のことには他のいろんな機関も協力しているんでね。実にいろんな機関がね。言ってみりゃ、アメリカ一国がこぞって彼女を欲しがっているんです」
 今度は顔から血の気が退くのを、織部は感じた。「まさか、CIAとかも絡んでいるのか」
 「ま、何でもいいんですよ。上はね。上が誰であろうと、我々下々は命令されたまま動き、約束の金をもらえばいいんです。そうでしょ? とにかく、わたしゃ仲介人としてあなたを確保すればいいんで。へへ。NASAは、あなたの身分と財産を保証します。警察官は病気を理由に休職していただきたい。だが警察を辞めている間も、警察だった時と同じように、いやそれ以上に行動できる自由が与えられます。いい話でしょ? 今よりずっと懐も温かくなりますぜ。へへへへ。ヒロコを探し出す心配はございません。それはNASAやその他の情報網が、遠からずやってのけます。心配ご無用。あなたの使命はヒロコと交渉し、NASAに手渡すこと。それだけです。それが終わればまた警官に戻ってもよし、報奨金を元手にカリブ海あたりでバカンスを決め込んでもよし。取り敢えず当座の資金として、あなたにはこれだけが与えられます」
 橋爪の差し出した五本のむっちりと太った指を、織部は、グロテスクな蛾の幼虫でも見るように眺めた。
 「五十万か」
 「五千万です」
 眩暈がした。
 「ヒロコを受け渡すことに成功すれば、さらに同じだけ」
 本当に昏倒してしまうんじゃないかと、織部は思った。もちろん酔いのせいではない。金額で目がくらむなんてさすがに恥ずかしいことだと、彼は必死に眉間に意識を集中させた。
 「なんで・・・それにしても、どうして俺なんだ? なんで俺みたいな者にそんなに出す気なんだ、アメリカは」
 橋爪はビールを織部のグラスに注いだ。しかし目は彼から離さなかった。
 「ヒロコはすでに、日本国内にはおらん、と思われます」
 「本当か?」
 「わかりませんがね。まあ、あの連中のやることは────あの連中というのは、つまり特殊能力者のことですが────常軌を逸してますんでね。奴らは、ひょっとすると、ぽん、とトランポリンでも跳ぶように跳んで、そのまま海外まで飛んでいったとしても、あながち不思議じゃないですからな。へへへ。いずれにせよ、ヒロコは海外に潜伏した可能性が高い。海外にいるとなると、ちとややこしくなるんです。捕まえるのがね。でもあなたは日本人で、警察として有能でおられる。ええ。そして、何より、ヒロコと面識がある。まあそれほど親しくは無いと言いたいでしょうが、しかしあなたのざっくばらんで積極的な性格は、内向きのヒロコと実は通じ合いやすいんじゃないかと我々は睨んどるんです。いろいろ調査した結果ね。つまり、あなたは適任なんですよ。へへ。それに・・・へへへ。まあね」
 「それに、何だ」
 「え? 言わせるんですか?・・・いやあ、まあ・・・へへ。それに、何よりですな、あなたは昔からヒロコに、個人的に強い関心を持っておられる。非常に強い、ね」
 織部は十二の少年のように顔を真っ赤に染めた。
 
(つづく)



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

火炎少女ヒロコ 第三話(草稿) ~7~

2015年06月16日 | 連続物語

 <死ね>
 ヒロコが念じた、その瞬間に、戦車という戦車から激しく火柱が上がった。六台全部が一度に燃え上がったのである。いや正確に言えば、車体が燃えているのではない。中にいる人間が燃えているのだ。業火で地平線は怪しく揺らめいた。砂漠に幾つもの太陽が落ちたかのようであった。間もなく爆音が立て続けに起こった。電気系統か何かに引火したのだろう。炎も煙も、一層激しくなった。もちろん、這ってでも出てくる兵士は一人もいない。皆真っ先に焼け死んだのだ。
 あまりにも異様な光景であった。人々は声を上げることすら忘れ、今まさに起こっていることを見つめた。誰もが、自分の目を信じられなかった。
 ざわめきが、徐々に人々の間に広がった。歓声を上げる者もいれば、必死に祈る者、ひそひそと仲間内でささやき合う者。彼らの視線は一様にしてヒロコにあった。言葉はなくとも、目の前で繰り広げられている魔力がこの東洋の少女から発せられたことは、そこにいるすべての者が理解した。それほどの強烈なオーラを、今の彼女は放っていた。
 燃え盛る車両の中の一台で、地響きを伴うほどの爆発が起こった。砲弾に引火したのだ。また一台。黒煙が上がる。戦車の周りにいた歩兵たちが慌てふためいて逃げて行く。
 大空へと絞り出すように、大歓声が沸き起こった。ベドウィンたちは今こそ、勝利を確信した。銃声が鳴り、拳が振り上げられ、人々は歓喜の表情で抱き合った。
 ヒロコは一人、立ち尽くしていた。まるで故郷を焼かれた人のような表情で、天高く立ち昇る複数の黒煙をじっと見つめた。これで何人の人を焼き殺したことになるのだろうか。彼女は心の中で数え挙げようとした。だが戦車一台に何名の戦闘員がいたかさえわからない。自分はもう数えきれないほどの人を殺したことになるのだなと、ふと思った。自分に焼かれるのは、どんな気分なのだろう、とも。みんなどんな気分で死んでいくのだろう。
 自分に近づいてくる人の気配に気付いた。シャイフ・アブドゥル=ラフマーンである。傍らに背の高い男を連れている。部族内で唯一英語が話せるので、半月前ヒロコが砂上に現れ意識を回復した時も、彼女と族長との通訳を任された男である。
 二人はヒロコの前で立ち止まった。
 シャイフは胸に手を当て、ヒロコに向ってお辞儀をした。
 通訳の男がぎこちない英語で要件を伝えた。ヒロコは辛うじてその意味を理解した。
 『偉大なる同志ヒロコ。シャイフ・アブドゥル=ラフマーンが、あなたを宴に招待したいと言っています』

(つづく)




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

火炎少女ヒロコ 第三話(草稿) ~6~

2015年06月12日 | 連続物語


♦    ♦    ♦


 日は徐々に高みから砂漠を熱する。
 鉄板の上で平べったいパンがいい香りを上げ始めた。カップに注がれた紅茶のすえた様な香りがそれに混ざる。朝食の始まりである。
 『はい、ヒロコ』
 ハサンがちぎったパンをヒロコに手渡す。ヒロコは小さく頷いてそれを受け取る。ハサンはもっと話しかけたそうだが、ヒロコが俯いて応じない。
 みな、車座になって、味気のないパンを黙々と食べる。
 天幕が風でバタバタと鳴る。
 『今日はお姉ちゃんがルブ(ラクダの名前)の乳しぼりね』とジャミラ。
 アイシャは不機嫌である。『ヒロコも乳しぼりをやるべきよ』
 『無理よ。ヒロコにラクダの乳しぼりはまだ無理よ。やり方がわからないわ』
 『やり方は教えればいいでしょ。私たちは忙しいじゃない。機織りもあるし、薪を拾ってこなくちゃいけない。羊の放牧もあるし。ルブの乳しぼりはヒロコに任せるべきよ』
 『無理よ』
 『できるわ』
 ハサンがもぞもぞと顔を出してきた。『ぼく、ヒロコに教えてあげるよ』
 『あんたは黙ってて』突き放すようにアイシャが言う。
 母親のダリアは黙っていた。眉間に皺を寄せ、深刻に考え込んでいた。娘や息子たちの会話をまるで聞いていないようにも見えたが、その実、神経過敏なほど耳をそばだてていた。険しい表情になると、彼女の端正な顔立ちは、砂漠に住むトカゲのように皺だらけになり、老けて見えた。
 テントの中は薄暗い。
 彼女は紅茶を喉に流し込んだ。それから首を横に振った。
 『ヒロコは乳しぼりを覚える必要はないわ』
 『どうして』
 『彼女はここを出ていかなくちゃいけない』
 子供たちは三人とも食事の手を止めた。皆一様に驚きの表情を浮かべていた。その雰囲気で、当のヒロコも何か不都合なことが起きたことを悟った。
 ハサンが母親の衣の裾をつかんだ。『ヒロコはまだ病人だよ。砂漠に出ていくのは無理だよ』
 『出ていくのよ』
 そう言うダリアの目は厳しい。潤んでるようにも見える。二姉妹は声も出せずに母親を見つめた。
 『出ていくのよ。ヒロコはここにいれば、もっと不幸になるわ』
 誰も、何も言い返さない。
 ヒロコは静かに立ち上がった。言葉はわからなくとも、おおよその状況を理解できたからだ。まるで雨女サキコのように、ダリアや子供たちが何を考えているかわかるような気がした。
 自分はここを、出ていかなければいけない。
 しょせん、自分の居場所ではないのだ。だが、ここを出て、どこへ向かえと言うのか。この異国の砂漠地帯で、自分はたった一人放り出されるのか。帰る場所は、ない。頼れる人もいない───そう考えると、彼女は急に胸が苦しくなった。立っているのもやっとであった。呆然と佇むヒロコに、ダリアが声を掛けようとしたそのときであった。
 外で銃声が立て続けに何発も鳴った。大気をつんざくような音。テント村一帯が騒然とした。
 男たちの怒号が聞こえる。
 『敵だ!』
 『スンニ派の連中か? イスラエルか? アルカイダか? どこの連中だ!』
 『わからない!』
 『戦車が来るぞ! 戦車の大群だ!』
 『逃げろ!』
 『応戦するんだ!』
 『逃げろ!』
 ダリアの行動は素早かった。彼女はすぐさま荷物の下からライフル銃を取り出し、弾丸を装填した。ヒロコには見覚えのある形だったが、年式がよほど古いように見える。アイシャとジャミラは抱き合って怯えた。アイシャはすでに泣き出しそうである。ハサンは十歳の子供とは思えないほどの怒りの形相で立ち上がり、奇声を上げると、棒切れを持って外に飛び出した。
 『戻ってきなさい、ハサン!』
 ダリアはハサンを追うようにして、銃を抱いたままテントを飛び出した。続いてヒロコも。彼女はAUSP時代に叩き込まれた習慣で、とっさに戦闘用ベストを探したが、もちろんそんなものはなかった。自分用のライフルもない。ただ、戦闘態勢に入らなければいけないことは冷静に自覚していた。
 外に出てみると、すでに喧騒状態であった。砂ぼこりの舞う中を人や家畜が右往左往し、怒声や悲鳴が飛び交う。男たちはライフルを手に、ある者は馬に乗り、ある者は女たちを避難させた。杖を突く老人はひたすら天を仰ぎ、コーランを唱えた。女たちは、逃げ惑う者、羊やラクダを何とか安全な場所に誘導しようとあたふたする者、大声で呪いの言葉を叫ぶ者。しかしほとんどの者は、岩陰のある方へ全力で走り出していた。
 『シリア解放戦線だ!』
 『奴らが来た!』
 『皆殺しにされるぞ。奴らは人間じゃない・・・逃げろ! 逃げろ! 逃げろ!』
 ヒロコは遥か彼方の地平線に信じられない光景を見た。
 戦車が合わせて六台。砲口をこちらに向けて近づいてきている。その間三キロメートル。戦車の立てる振動が柔らかい地面を伝わって体を揺さぶるような気がした。戦車の周りには何人かの歩兵も見えた。
 銃を持って立ち向かおうとする者は皆無に等しかった。兵力の差は歴然としていた。だが、よく見ると何かがおかしかった。少年だ。一人の少年が、逃げ惑う人々に背を向け、戦車の群れに向って棒切れを振り回し、何か喚いている。
 ハサンである。ヒロコは愕然とした。
 「ハサン!」
 ヒロコは思わず叫んだ。母親ダリアの叫び声もそれに折り重なった。少年は引き返そうとしない。死んだ父親の仇が来たとでも思いこんでいるのだろうか、彼は全身全霊でもって、戦車に向って罵り続けた。
 一台の戦車の砲身が、正確な角度で少年に向けられた。
 <まさか>ヒロコは心で激しく否定した。<まさか、無抵抗の子供を狙うつもり?>
 戦車が揺れた。まるで、戦車が撃たれたかのようであった。しかし、実際には戦車が撃ったのだ。
 強烈な爆音とともに空に達するほどの砂煙が上がり、ヒロコは思わず地面に倒れ伏した。顔を上げると、先ほどまでハサンのいた場所の大地が抉り取られていた。ハサンの姿はすでになかった。彼の幼い姿は、どこにも見当たらなかった。
 母親ダリアの悲痛な叫び声が耳をつんざいた。二人の姉も泣き崩れた。
 あらゆる騒音が急に遠ざかったようにヒロコは感じた。焦げ臭い、と不思議なくらい冷静に心に思った。戦車の砲弾って、こんなに焦げ臭いんだ。それともこれはハサンが焼け焦げた臭い? 何なのあの戦車たちは? ハサンが何をしたと言うの? 子供一人殺すのに、あの人たちは主砲一発使うの? 
 <許さない>
 ヒロコは片膝を立て、立ち上がった。
 息子の命を奪われた母親がライフルを抱え、戦車に向って走り出すのが横目に見えた。彼女を止める男たちの声が聞こえる。ヒロコ自身に対しても、伏せろとか逃げろとか何か言われているのがわかった。だがヒロコは、しっかと大地に立ち、今やダリアに照準を合わせつつある戦車を睨んだ。その姿はまるで、憤怒と冷静沈着を併せ持つ不動明王のようであった。
 一瞬、ヒロコの脳裏を、憤りとは別のものが掠めた。それはほとんど心地良いほどの驚きだった。ここは、なんとわかりやすい世界なのだろう。殺すか、殺されるか。あの馬鹿馬鹿しいほど破壊的な戦車に比べたら、自分の存在は、ここでは、それほど異質じゃない───ヒロコは自分の存在意義が妙なかたちで承認されたような、小気味良ささえ感じていた。
 彼女には、絶対の自信があった。それは今までにないものであった。これが、AUSPでの訓練の成果なのか。自分はもはや、「病人」ではない。有能で精密な「兵器」になろうとしているのだ───ヒロコは刹那に、そんなことまで考えた。
 石ころだらけの砂漠の上に、朝日はすでに高く輝いていた。雲一つなかった。もともと砂漠にはほとんど雲がない。全ては公開処刑場さながらに明るみに曝け出されていた。泣き叫び逃げ惑う人々。今や二キロメートルまで近づいた戦車の列。最終的にはすべて者たちの死を待ち、呑み込もうとしているかのように絶対的な沈黙を保つ、果てしない不毛地帯。
 <死ね>
 
(つづく)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

火炎少女ヒロコ 第三話(草稿) ~5~

2015年05月31日 | 連続物語


♦    ♦    ♦


♦    ♦    ♦


 砂漠に夜明けが訪れる。
 褐色の大地に靄が立つ。岩肌が光る。目覚めたばかりのラクダが鼻息を荒げる。
 開けっ広げの黒いテントの下で、毛布を被って横向きに伏したまま、ヒロコはじっと外を見つめた。
 ここはシリア南部、ヨルダンとの国境にほど近い砂漠地帯である。
 砂漠と言っても石だらけである。枯れたような草がところどころに生える。遠くにはごつごつした岩山が連なる。どこまでも荒涼とした風景である。この風景は、見る者から安っぽい笑顔を奪う。ただ眺めているだけでも、眉間に深い皺が刻む。
 ベドウィンたちのテントが二十七張りほど集まっている。その一つに、半月ほど前から、ヒロコは一家族と共に寝泊まりしている。母親のダリア、ヒロコより一つ年下のアイシャ、二つ下のジャミラ、そして年が離れて十歳の弟ハサン。ダリアはイブン=サヘル=ファヘドの三番目の妻であったが、イブンは三年前、イスラエルとの戦闘で死んだ。
 砂漠の上に意識を失って倒れているヒロコをハサンが発見し、このテントで介抱して以来、ヒロコは家族の一員のように扱われている。ヒロコはアラビア語ができない。心も開かない。それでも、手振り身振りで言われたことを何となく理解し、家事を手伝い、食事を共にし、日々を過ごしている。
 今、家族の中で目覚めているのはヒロコだけである。彼女は体を少しだけ動かし、うつ伏せの状態になって、さらに外を眺め続ける。彼女が着ているものは、他のベドウィンの女性たちと同じく、ゆったりとした黒い長衣である。
 羊たちがメーメーと互いを起こし始めた。一羽だけいる痩せた鶏も鳴く。
 『ヒロコ。今朝はあなたが水汲みよ』
 目覚めたダリアがヒロコに声を掛けた。もちろんアラビア語の意味はわからない。が、彼女が指差している桶を見れば、指図された内容はわかる。
 ヒロコは小さく頷き、立ち上がった。
 黒いベールを被り、顔を隠す。桶を手にして、テントを出る。乾ききった風が、彼女を不毛の大地に迎え入れる。
 サンダル越しにも砂地の冷たい感触が伝わる。昼にはまた、熱せられたフライパンのようになるのだろう。
 ヒロコは二つの桶を担ぎ、黙々と歩き続けた。

 末っ子のハサンが上の姉の衣の端を引っ張りながら尋ねる。
 『ねえ、あの人、どこから来たの?』
 『知らない。絶対言わないんだもの』と長女のアイシャ。『シャイフ(族長)が地図を見せても答えないんだから』
 『帰るところがないのね』と次女のジャミラ。
 『帰るところがなくても、来たところはあるわ』と長女は言い返す。彼女は心を閉ざし続ける新参者に 少々不満げである。
 母親のダリアはテントの前に佇み、じっとヒロコの後姿を見送っている。
 『砂漠にたった一人、置き去りにされたんだから、不幸な子よ。アラーのお恵みがあの子にありますように。さあみんな、毛布を片付けて。朝食の準備よ』

 砂漠を行く一頭のラクダのように、ヒロコは歩き続けた。
 心の中に湧き起るものは、来る日も来る日も、同じであった。疑問と、困惑と、憤り。なぜ、予言者は自分をこの地に送り込んだのか。ここが中東に位置するシリアという国であることを理解するのに、ヒロコは三日もかかった。ベドウィンのテントの中で意識を取り戻したとき、何が何だかまるで分らなかった。予言者はなぜ、こんな僻地に自分をトランスポートさせたのか。これは彼の気まぐれな悪戯か? 日本人が一人もいない地の果てで、焼け付く日を浴び、喉の渇きに苦しみながら死んでいけばいいとくらいに思われたのか。だがそれではおかしいではないか。だって彼は、自分に生きることを勧めた。人類の天敵として生きればいいとまで言った。それに─────。
 ヒロコは井戸場にたどり着いた。一人の婦人が先に来てポンプから水を汲んでいた。向こうがアラビア語で短い挨拶を交わしてきたが、ヒロコはどう返していいかもわからないので、黙っていた。婦人は険しい目つきでヒロコを睨んでから、水の入った桶を手に去って行った。
 ヒロコは錆びついたポンプを動かし、二つの桶に水を満たした。
 ───それに、自分はユウスケ君に会いたいとお願いした。ユウスケ君に会うにはどうすればいいかを尋ねた。それなのに、なぜ。なぜシリアなのか。あの男は、どこまで自分をなぶり者にしたのか。許せない。絶対に許せない。あんな奴、会った時すぐに燃やしてやればよかったのだ───。

 ヒロコが水を汲んでいるさなか、ダリアたちのテントを、ラクダに乗った男が訪れていた。黒い鼻髭を横に伸ばし、アラブ人特有の垂れ気味で彫りの深い目つきをした、族長のアブドゥル=ラフマーンである。頭に巻いたスカーフを風になびかせ、彼はテントの前に降り立った。
 ダリアがそれを迎え入れた。
 『シャイフ(族長)・アブドゥル=ラフマーン様』
 『ダリアよ。家族の皆は元気か』
 『アラーのお導きによって』
 『結構だ。ヒロコは、今、ここにいないな』
 『はい。仰せの通り水汲みに行かせています』
 『うむ』族長は頷き、落ち着かなげに周囲を見渡した。『部族会議の結論が出た。ヒロコについてだが、やはりこのままここに置いておくわけにはいかない』
 ダリアは目を伏せた。
 『あの子がムスリムでないことが一番の要因だ。異教徒を我が部族の中に留め置く危険は、お前も分かろう』
 『あの子はまだここに来て数週間しかたっていません。アラビア語もわかりません。アラビア語が話せるようになれば、必ずあの子はムスリムになります』
 族長アブドゥル=ラフマーンは苛立ったように指で頬を掻いていたが、身を屈めると、見開いた目を未亡人に近づけた。
 『もしあの子がコーランを選ばなければ、あの子は侵入した異教徒として、ここの部族の男たちの餌食となろう』
 ダリアは衝撃のあまり息もできなかった。
 『シャイフ様、あれは、まだ子どもです』
 『選択できる年齢だ』
 『あれは、自分の意志を言葉にすることすらまだできないのです』
 『あの子の頑なさが我々の決定に従うことを拒むなら、同情の余地はない』
 『シャイフ・アブドゥル=ラフマーン様。あの子は、ここを出ても行くあてがないのです』
 『異教徒にここで暮らす道はない』
 族長はラクダに跨った。
 『三日だけ猶予を与える。ヒロコに答えを用意させておけ』
 族長を乗せたラクダは砂塵を上げて去って行った。

(つづく)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

殊勝な方々へ

2015年05月18日 | 連続物語
『火炎少女ヒロコ』をご愛読ありがとうございます。

第一話と第二話は、

ホームページ『火炎少女ヒロコ』

移行しました。

そちらもあわせてご覧ください。




※写真は年明けの諏訪湖
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

火炎少女ヒロコ 第三話(草稿) ~4~

2015年05月12日 | 連続物語

 『ユウスケ君は。ユウスケ君は無事ですか』
 それは彼女にとって、最も気がかりな質問であった。
 『ユウスケとは』
 『テレポートで私をここに連れてきた人。私・・・私、彼を・・・』
 『ああ、お前が燃やした男か。無事だ。将来、お前たちは再会する』
 感激のあまり、ヒロコは手が震えた。
 『また会えるの?』
 『ただし、幸福なかたちではない』
 ヒロコはひどく落胆した。
 『幸福なかたちでないって・・・どういうこと』
 ほとんど髑髏の顔が、じっと彼女を見つめる。
 『ねえ、教えて! 私たち、会わない方がいいの?』
 『会わざるを得ない』
 『会わざるを得ないって・・』背筋に寒気を覚えた。自分たちの再会が、互いをさらに不幸にする可能性はある。十分にある。何しろ自分は、彼を焼き殺そうとした人間なのだ。
 祈りを捧げる人のように、ヒロコは思わず予言者の前に両膝を突き、胸の前で手を組んだ。藁にもすがる思いだった。 
 『未来を・・・未来を意志するのなら、未来を変えることもできるんですか?』
 『愚か者が。未来がそうなるようにしか意志できない、そう言ったはずだが』
 未来がそうなるようにしか、意志できない。ヒロコは呆然と心の中で反芻した。
 『人間は自然の一部だ』予言者は続けた。『人間の意志は自然の作用を受ける。同じようにして、自然は人間の意志の作用を受ける。たった一人の人間の思いが、地球の裏側を変えることもある。だがそのたった一人の思いにも、地球の裏側が影響を及ぼすこともある。すべては巨大な因果の連鎖の中にある。どちらが原因でどちらが結果になるかは、すべて、程度の問題なのだ。』
 糸を引いた蜘蛛が一匹、ヒロコと予言者の間に降りてきた。蜘蛛に目の焦点が合い、予言者がぼやけて見える。予言者の言葉はあまりに難解であり、ヒロコはひどく混乱していた。だが何となく、納得できる気にもなるのが不思議であった。
 蜘蛛は自ら糸を切って地面に落ち、姿を消した。
 未来はそうなるようにしか、ならない、ということか。
 『私は───どうなるの』
 『さまざまな苦難が、お前を待ち受けていよう』
 『私、じゃあ、今すぐ死んだ方がいいの』
 もし死んだ方がいいと言われれば、今すぐ舌を噛み切って自殺してもいい。それくらいの思いが、ヒロコにはあった。それは心からの痛切な問いかけであった。
 予言者は答える代りに、光を増した。日が没し、完全な宵闇が訪れたからである。フクロウの鳴く深い森の奥で、そこだけ丸く小さな光に包まれて、予言者とヒロコは対峙した。
 『ヒロコよ』予言者は語りかけた。『お前は自分の能力を恨むことはない。お前の責任は、お前にはない。お前の存在は、自然の成り行きなのだ』
 『どういうこと』
 『お前は聞いたことがないか。かつて、ある湖で繁殖し過ぎた貝が、自分たちの個体数を減らすために、互いを殺す毒を持ち始めた話を。あるいは、えさ不足になるまで増殖したネズミが、一斉に水の中に飛び込み、集団自殺したという話を。お前は不思議に思わないか。現代社会における、無差別殺人や児童虐待、精子の減少、精神病の増加・・・まるで人類全体が、滅亡へと駆け足で向っているように、お前には思えないか。
 『人間は気付き始めたのだ。人間の発展が決定的に悪であるということを。人類は繁殖し過ぎて今やどうしようもない事態に陥りつつあるということを。はっきり意識しようがしまいが、それらは個々人の潜在意識に強迫観念として植えつけられているのだ。人間は今、無意識に、何とかして種の数を減らそうとしているのだ。
 『お前の出現はその一例に過ぎない。今後、お前のような殺傷能力のある特殊能力者たちが次々と現れ出るだろう。人類はこれまでにない全面戦争の時代を迎える。それは、国と国とが戦ったかつての戦争とは違う。個人と個人が殺し合うのだ。あるいは自分を殺す。意図して、あるいは意図せずして。道具を使う殺し合いもあれば、道具を使わない殺し合いもある。世界の人口は減っていく。ゆっくりと、着実に。そういう戦争だ。
 『お前の悪は、お前のせいではない。お前の存在を必要とするまで肥大した人間社会のせいなのだ。お前がいなくなっても、次のお前が出てくる。ヒロコ。お前の役割は、人類のために人類の数を減らすことなのだ。だからためらうことなく人間を燃やし続けるがよい。お前の力が強大になれば、お前はもっと能率よく、もっと大勢の人間を片付けることができるようになるだろう。それでよいのだ。人類はあまりに長い間、天敵を失っていた。お前は、お前の同胞たちのために、あえて天敵となるがよい。それが、お前の存在する意味であり、お前に課せられた役割なのだ』
 予言者の言葉は淡々と、ヒロコの心に注ぎ込まれた。ヒロコは彼の話に打ちひしがれたか? それともなるほどと感銘を受けたか?───とんでもなかった。その代り、何とも不可思議で一種異様な感覚が、ヒロコを捉えていた。ミイラのようにしか見えなかった予言者が、非常に人間臭いものに見えてきた。まるで酔っぱらった大人に絡まれたかのように、彼女は距離を置き、冷静に内なる耳を傾けることができた。聞きながら、心の中では、ずっと首を横に振り続けていた。どれだけ聞いても、反発心しか湧き起ってこなかった。ヒロコはそこまで頑なな性格だったのだ。それは宮渕に語りかけられたときも、エイジの説得を受けたときも同じである。ただ今回は、心が暗く落ち込むどころか、むしろふつふつと生きる力が湧いてくるのを感じた。
 まったく唐突な感動だった。ほとんど喜びすら彼女は感じていた。それはユウスケが生きている、という情報を手に入れたからに違いなかった。彼が生きている。彼が生きている限り、彼に会いに行こう。彼女は固く心に誓った。
 <だって、会わざるを得ないって、この人も言っていたわ! 確かに、確かにそれは、不幸な再会になるかも知れない。私たちはひどく辛い思いをするかもしれない。そうなったら本当に悲しい。でも、私は───私は絶対に、不幸になるようには意志しない。私は全力で、未来を変えてみせる。変えてみせるわ。意志の力ってそういうことでしょ? 私にその力がないとは限らないじゃない? だって、他の人にはない力を持っているんだもの。ある意味、たぶん、私は特別なのよ。役割? ふざけないで! 人殺しをすることが私の運命だって言うの? 冗談じゃないわ。未来がすでに決定してるって、いったい誰が決めたの? 私は彼に会って、謝るわ。泣いて謝るわ。許してもらえないかもしれない。たぶん、許してもらえない。でもユウスケ君なら、彼なら、許してくれる気がする。仕方がなかったんだよって。心を操られていたんだからって。あの人、優しい人だから。許してくれるまで、何度でも謝ろう。何度でも、土下座してでも。それで、もし万が一、許してもらえたら。もし、また彼を好きになることが許されるなら───。>
 ヒロコは、かつて初等訓練の時、フミカに言われた言葉を思い起こしていた。
 <───もし、彼が再び私を受け入れてくれるのなら、私は今度こそ、全力で彼を愛すわ。私たちは本当に愛し合うのよ。恋人同士として、心と、体で。全身全霊で。それでフミカさんの言う通り私の能力が消えてなくなるなら、それこそ本望だわ! 私喜んで、今の自分を捨てるわ! もう二度と、人を燃やさない。能力なんて、何もいらない。そのためにできることを何でもするわ。心を強くする必要があるんだったら、強くするわ。弱くすることが必要だったら、弱くするわ。わかんない! でも、私、なんだってやってみせる。ユウスケ君のために。彼なら、答えを知っている。彼なら、私を正しく導いてくれる。そう。きっと。彼は私のことを怒ってるかしら? もちろん怒ってるわ! 私に許される資格なんて・・・でもいいの。私は唾を吐きかけられても、足蹴りにされても、彼のもとへ行くわ。彼に死ねと言われれば、その時死んでみせる。死刑にされるなら、喜んで処刑台に上がる。それでも、私はユウスケ君にもう一度会う。もう一度。その時すべてが決まるのよ。その時まで、私は生きてみせるわ!>
 それらのことを、ヒロコは予言者の落ちくぼんだ眼窩を見つめながら、一息に思ったのだった。予言者は相変わらず身動き一つしなかった。ヒロコは、彼が自分の心境の変化を面白がっている気がしてならなかった。
 ヒロコは立ち上がった。
 『ここからどこへ行けば、ユウスケ君に会えるの』
 『思った以上に、頑迷な女よ』
 初めてヒロコは微笑んだ。
 『あなたにも予想できないことがあるのね』
 『予想ではない。意志するのだ』
 『そう。希望がわいたわ。どこへ行けばいいのか、道案内はしてもらえるの?』
 二人を包むほの明かりの外側は、いつの間にか漆黒の闇であった。フクロウがどこかでしきりに鳴いていた。草木がさざめき、遠くで獣同士が互いを呼び交わした。
 予言者は、長い嘆息をつくほどの間をおいた。
 『ご覧の通り、動けない体だ。私は、自分の一生の中で、お前に会うことまでを意志して生きてきた。死ぬまでに、お前に会えればよかった。私の望みはここまでだ。やがて私は朽ち果てよう』
 ヒロコはじっと予言者を見つめていたが、ふと、思い出したように、貫頭衣の袖口に手を入れた。そこから、一切れのパンを取り出した。それは二日前ユウスケに言われていた通り、脱出の際密かに持ち出したものである。
 彼女はパンを予言者に差し出した。
 『じゃあ、これであなたの予言を変えるわ。もう少しだけ、長生きしてもらえるかしら。私のために』
 今度こそ、予言者は笑った。ほとんど肉のついていない頬が引き攣り、口が開いた。
 『私の意志を凌駕するつもりか』
 『食べて。できるんでしょ?』
 『実に、面白い子だ』
 ヒロコの手にしたパンは、粉々に砕け、空中に浮遊した。さらに砕け、目に見えなくなるほどに細分化された。それらは掃除機に吸いこまれるように、予言者の口へと入っていった。
 ヒロコは彼の能力の高さに今更ながら驚いた。
 『あなたは、AUSPの人たちより、高い能力を持つの?』
 『エイジは、かつて私の弟子だった』
 驚く暇もなく、ヒロコが経験したことのない現象が、さらに起きた。座禅を組む予言者の体から、もう一人の彼の輪郭が、幽体離脱したように出てきたのだ。
 背景が透き通って見えるそのおぼろげな輪郭の身体は、座禅を組む体と違って自由に関節が動いた。それは、ヒロコの前にすっくと立った。
 恐怖におののいたが、後退りすることなく、ヒロコは目を見開いてその霊体を見つめた。
 『食べ物をいただいた礼だ』
 そう言うと、霊体の予言者は、両手を差し伸べてヒロコに触れた。ユウスケがテレポートを使ったときと、同じ感覚がヒロコの体内に湧き起ってきた。
 どこかに、連れていかれる。
 『どこへ行くの』
 不安は最高潮に達した。
 『私の意志だ。お前には旅をしてもらう』
 から、から、と、予言者が笑い声を上げたような気がした。
 激しい衝撃が、ヒロコを襲った。
 ───森に闇が戻った。
 夜風が通る。どこかで、野猿が甲高く鳴く。
 月の光も差し込まない粗末な小屋では、あばら骨の浮き出た予言者が、ただ一人、誰も拝む人のいない石像のように、黙然と座禅を組み続けた。
 
(つづく)










コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

火炎少女ヒロコ 第三話(草稿) ~3~

2015年05月05日 | 連続物語

 彼女は小屋に近づき、入口の布をめくり上げた。
 暗い。
 とたんに彼女は鼻を押さえた。肉の腐ったような異臭。きゃっ、という叫び声を上げて、慌てて布を下ろした。ヒロコは、自分が見たものが信じられなかった。薄暗く狭い内部には、恐ろしくやせ細り、ほとんど骨と皮だけになった人間の、座禅を組む姿があった。数匹の蠅が周りにたかっていた。ミイラなのか、生きているのか判別できなかった。ただ眼が、ギラギラと光っていた気がした。してみると生きていたのか。
 すぐにこの場から逃げたかったが、同時に、もう一度見たいという強い欲求に突き動かされた。なぜそんな気になるのか、ヒロコ自身全くわからなかった。
 口と鼻を押さえ、彼女は震える手で布をもう一度めくり上げた。
 飛び出してきた蠅が頬にぶつかり、気持ち悪さで腰が抜けた。それでも彼女は布を持ち上げたまま、薄暗がりの中を正視した。
 男はやはり、生きていた。
 あばら骨が浮き出、腹はえぐられたように凹み、顔は表情を作りようがないほどにやつれている。一突きすれば、ガラガラと崩れ落ちそうな体である。それでも、男の目には意志が宿っていた。
 『燃やす女か』
 耳に聞こえたのではない。心に聴こえた声であった。
 『人を燃やす女か。お前がそうなのか。名はなんと言う』
 やはり心に聴こえる。男の口も喉も動いていない。彼は意志の力で語りかけているのだ。
 ヒロコの驚きは尋常ではなかった。心に響くその声なき声は、たとえるなら、水の中で鐘を鳴らされたような感覚であった。びりびりと神経の揺さぶられる声であった。
 ヒロコは思わず後退りした。
 『怖がることはない。もはや、喉を使ってしゃべる体力すら残ってないのだ。精神と精神で会話することならお前にもできる。聞こえるように語りかければよい』
 『───私は、ヒロコ』
 『ヒロコか。なるほど。相応しい名だ』
 『あなたは、誰』
 『私か。私は予言者と呼ばれていた。他の名は、ずっと昔に失った』
 『予言者?』
 ヒロコは耳を疑った。彼が特殊能力者であることは間違いない。しかし予言する能力の存在など、AUSP内でも聞いたことがなかった。
 『未来のことが、わかるの』
 表情のない顔が、少しだけ笑った気がした。
 『正確に言えば、未来を意志するのだ』
 『意志する?』
 『こうなって欲しい、と思うように、未来がなる』
 あまりに荒唐無稽な話である。ヒロコは眉をしかめた。
 『じゃあ、あなたは未来を変えられるの?』
 『そうではない。未来のあり方に、私の意志が従うのだ』
 わけがわかんない、とヒロコは思った。<何なのこの人? ペテン師? それとも、餓死しかけて気でも狂ったのかしら?>
 『どうして、あなたは、私のことを知ってるの』
 『お前の出現を期待した。人を燃やす力を持つお前の出現を。そして、ここを通りかかることを望んだ。お前に会いたい、と願った。その通りになっただけだ』
 『どういうこと? あなたは、私の出現を期待したの?』
 答えはない。
 『暗いな』
 そうつぶやくと、彼は小屋の中をほんのりと明るくした。もちろん、蝋燭も電燈も使わない。彼自身は彫像のように微動だにしないままである。入口に立つヒロコは逡巡した。どこまでこの男の言うことを信じればいいのか。だがもし、もし本当に、この男に未来がわかるなら・・・。
 『ユウスケ君は。ユウスケ君は無事ですか』
 それは彼女にとって、最も気がかりな質問であった。

(つづく)




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

火炎少女ヒロコ 第三話(草稿) ~2~

2015年04月28日 | 連続物語


 織部は身を強張らせた。テーブル席の二人まで、口をつぐんだ。
 男はにこやかに片手を上げた。
 「やあ。織部社長。こんなとこでお会いできますとはなあ」
 織部はひどく動揺した。自分の名前を知っているということは、すなわち、自分が警官であることを知っていることになる。それなのに「社長」とは。だが、相手の男が自分の窮地を救おうと機転を利かせてくれていることにすぐ気付いた。
 「あ・・・ああ」
 「橋爪です。覚えておいでですかな」
 「いやあ、覚えていますとも。お久しぶりですなあ」
 二人は握手を交わした。橋爪と名乗る男は織部の隣の席に「お邪魔しますよ」と言って腰を下ろした。
 「その節は大変お世話になりましたが・・・お元気ですかな」
 「はあ。まあ何とか元気で」
 無精ひげと巨漢は、織部が警察の者だとほとんど確信しつつあった矢先だけに、拍子抜けしたように口を開けて二人を見守った。
 織部は笑顔を見せながらも、全神経をとがらせ、この正体不明の橋爪という男が何者であるか探ろうとした。
 橋爪は手を揉みしごきながら嬉しそうに話を続けた。
 「いやあ、さっきから社長じゃないかな、と思って見てたんですがな。会社とは違って私服でおられることだし、息抜きのところをお邪魔しても、とね。声をお掛けするのを控えておったんですが。ま、それでも、なかなかこうして私的にお会いする機会もないもんですから」
 「いえ。こちらこそ気づきませんで」
 「時に社長」
 橋爪は目を光らせ、ぐっと身を前に乗り出してきた。演技ではない本心からの気迫を、織部は感じた。
 「折り入って、商談があるんですが」
 「商談?」
 「おたくの会社にも絶対得になる話でして。へへ、儲かる話ですよ。まあ───ちょっとここじゃ話しづらいな。へへへ。いかがでしょう。もしよろしければ店を替えて、少々お付き合い願いませんでしょうか」
 織部は背中が汗ばむのを感じた。この男は、すべてを知っている。自分が織部警部補であり、ヒロコの炎上事件を昔から捜査し続け、ヒロコ本人とも面識があることも。その上で、自分に何か交渉を持ち込もうとしている。何者か。いかなる団体に属する者か。警察を相手に交渉を持ち掛けるなど、どんな神経の持ち主なのか。
 織部は躊躇した。返答を迷いながら、彼は、高瀬ヒロコのことを痛切に思った。
 <ヒロコよ。なんてこった。お前さんの知らないところで、世の中はずいぶんお前さんをネタに騒ぎ立てるようになったもんだ! 世の中はお前を殺せと言う。お前を宇宙人扱いだ。この橋爪とかいう男はまた、お前を狙って何を言い出すかわからんぞ。実にうさん臭い男だ。ひどいもんだよ。ヒロコ。ひどいもんだ。お前はただの可愛い女子高生なのになあ。なあ、いったい、今頃どこをうろついてるんだ? 俺は本当に、本当にお前さんを救い出してやりたいだけなのに、もう何にもできやしないよ。管轄を外されたんだ。俺は無能だってさ。おそらく宮渕の野郎の差し金だ。畜生! 俺は何だか、お前に痛切に会いたいよ。お前に会いたい。ヒロコ。今、どこで、何してるんだ?>
 織部は自分に納得させるように頷いた。
 「わかりました」
 彼は猪口に残った酒を吸い上げ、もう一度頷いてみせた。
 「わかりました。付き合いましょう」

♦     ♦     ♦


 高瀬ヒロコは、その頃どこにいたか。
 愛するユウスケを燃やし、磐誠会の四人をまとめて灰塵にしたあと、ヒロコは泣きながら森の中を駆け抜けた。悲しみで全身がバラバラに砕け散りそうであった。砕け散りたかった。小枝で何本ものひっかき傷をつけ、足の裏は膿を出し血を流しても、それでも彼女は走り続けた。転ぶたびに、土がべっとりと汗についた。呼吸困難なほど息切れし、前へ進むよりも倒れこむことの方が多くなっても、それでも彼女は走った。走ろうとした。目的地があるわけではなかった。ただ同じ場所にじっと留まることに耐え切れなかった。
 ときに、悲しみのあまり声を上げた。悲痛な呻き声が林間を満たした。まるで野獣のようであった。自分のしたことを、彼女はどうしても許せなかった。磐誠会の四人を燃やしたことに悔いはなかった。彼らみたいな極悪人は、焼け死ぬに値する。だが、ユウスケは。ユウスケはなぜ燃え上がらなければならなかったのか。なぜそれをしたのが自分なのか。自分はなんという取り返しのつかないことをしてしまったのか。ユウスケは果たして無事か。それとも死んでしまったのか。ユウスケがもし死んでしまったら、自分はどうしたらいいのか。
 <どうして、どうして、どうして私なんて生まれてきたの?>
 倒木に苔むすヒノキの森を駆け抜け、小石だらけの小川を渡り、シダを掻き分け、蔦を払い除けた。
 <私はここで死ぬのよ。この森に彷徨って死ぬのよ。だって行くところがないんだもの! 怖い森! なんて怖い森なの? 蛇とか熊とか出てきたらどうしよう? でもいいじゃない! どうせ私はこの森で死ぬんだから! 私はもう人を殺し過ぎたわ。私が死ななきゃ、もっとたくさんの人を殺してしまう。ユウスケ君・・・ごめんなさい! 本当にごめんなさい! 恨んでるよね。ユウスケ君、生きてたら、絶対私のこと恨んでるよね。高瀬ヒロコ、あなたはもう誰にも愛される資格がないのよ。この森で行方不明になったって、のたれ死んだって、誰一人悲しむ人なんていないわ!>
 だが、自暴自棄に走る一方で、彼女は本能的に出口を探していた。どこまで走っても民家の見えない不安が胸をざわつかせた。急速に宵闇が浸透していく森を駆け抜けるうちに、いつの間にか、死にたい、という願望を、死の恐怖感が凌駕していた。
 ついにこれ以上走れなくなり、彼女は立ち止った。両膝を突き、両手を突いた。心臓がピストンのように激しく鳴る。ぜいぜいと息が切れる。ここがどこだかまるでわからなかった。彼女を包み込む森は、今や急速に輪郭を失いつつあった。ひたひたと迫りくる闇。まるで森全体が、彼女を圧し潰そうとしているかのようであった。
 底知れない恐怖に彼女は震えあがった。
 <怖い───私───私、ここで死にたくない!>
 そのとき、全く唐突に、彼女は自分が誰かに見られていることを悟った。四方を見回したが、薄墨の滲んだような茂みや木立の他は何も見えない。しかし確かに、誰かに見られている。それも、目ではなく、意識で。特殊能力による強烈な意識が自分に注がれていることを、彼女は強く感じた。プラットフォームで自分を突き落そうとする駅員に気付いたときと似ている。ただ、今回の方が数段強力である。殺意は感じない。これは殺意ではない。もっと何か、興味や好奇心に近い感情である。そして、この意識は確かに、自分を手招いている。
 ヒロコは恐れを振り払うため、大きく息を突いた。それから、意識の向かってくる方向に歩き始めた。
 手招く感覚は続いている。熊笹を踏み分け、倒木の下をくぐり、斜面を登った。
 樹木と樹木の間の薄暗がりに、小屋が見えた。
 <小屋?>
 それはずいぶん粗末な造りで、むしろ、枝や葉を山積みにしたもの、と言った方が正確であった。しかし一応は小屋だった。のこぎりの類は一切使われていない。長短さまざまな細い枝を何本も束ねて並べ、壁と屋根(と言うよりは蓋)を形成し、隙間をツガやヒノキの葉で埋めてある。立っているのがやっとのような頼りなげな小屋である。入口は大きな布のようなもので覆われ、中は見えないが、四人入れば一杯だろうと思われた。その中へと、ヒロコを手招きする意識は導いていた。
 こんな山中に人が住んでいるとはとても信じがたかった。しかも生活するには、あまりにひどい住居である。ヒロコは汗を流し息切れしながら佇み、中を覗くのを躊躇った。ひょっと怪物が出てきてもおかしくない雰囲気があった。
 しかし強烈なオーラが、依然として彼女を惹きつけていた。その力はいや増しに増していた。彼女はどうしても中を見たくなった。自分はそもそも死のうとしてるのだから、なにを今更怖がる必要があるだろうか、とも思い直した。ヒロコは決意した。
 彼女は小屋に近づき、入口の布をめくり上げた。

(つづく)



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

火炎少女ヒロコ 第三話(草稿) ~1~

2015年04月20日 | 連続物語

 「次は、火炎少女のニュースです」
 女性ニュースキャスターは目を輝かせ、身を乗り出すようにして告げた。前のニュースが、自衛隊法改正を巡る与野党攻防により通常国会の延長が見込まれる、というあまりぱっとしない内容だっただけに、まるで次にこの話題を出せば日本中が盛り上がることを確信しているかのようであった。
 「六年前の児童炎上事件、二年前の男性炎上死事件、今年四月の駅員炎上死事件、と、三つの怪奇現象がすべて彼女の身近で起こり、三つの事件への関与が強く疑われている、通称、火炎少女Aさん。高校二年生の彼女が、今年四月の駅員炎上事件の際、現場である★市★駅のプラットフォームから姿を消して、これで三か月が経ちました。いまだ彼女の消息はつかめていません。各地で、彼女を見た、あるいは会って話をした、などの証言が複数警察に寄せられていますが、いずれも彼女の居場所を特定するには至っていません。彼女はどこに消えたのでしょうか。三人を燃やしたのは、本当に彼女なのでしょうか。果たしてこれは、前代未聞の超常現象なのでしょうか。それとも、巧妙にトリックを仕掛けた殺人及び殺人未遂事件なのでしょうか。その謎に迫ります。
 「まずは解説委員の久保さんに解説していただきます。久保さん」
 画面は小柄な五十過ぎの男に切り替わった。頭髪が薄く、胃腸が弱いのか顔色が不健康に青白い。朝から便通がよくない、というような苦り切った表情をしている。テロップには、『解説委員 久保文彦』とある。
 彼は、自分の発言に重みをつけるためか、暗い表情をさらに暗くして、とつとつと語り始めた。
 「はい。これはですね、何らの着火操作もしていないのに人の体が燃え上がる、それも証言によれば、ほとんど瞬時にして全身が燃え上がっている。そこに、火炎少女Aと呼ばれる少女の関与が疑われている。これが奇術なのか、それとも一部で騒がれているように魔術や超能力、といった類のものなのか。これらはいったい、事故なのか、犯罪なのか、その辺りはまだ捜査の行方を待たなければなりません。がしかしですね、いずれにせよ、非常に危険な現象、人命にかかわる災害であることには変わりはないのです。いつ、どこで、誰が、燃やされるか予測がつかない。これはですね、人の生死に関わる問題で、例えば、インフルエンザの流行とか、エボラ出血熱の国内発生などに対するのと同じくらい、国を挙げて取り組まなければならない最重要課題だと思うんですよね。それなのに、政府はいまだ本腰を入れて取り組もうとしない。警察も三千人規模の捜査態勢を取りながら、いまだに女子高生一人の身を拘束しきれずにいる。こういう初動の甘さはですね、これは結局、国も警察も、まさか超能力なんて、と、魔術なんて、と、どこか馬鹿にしているからだと思うんです。ええ。現代の科学をもってしても解明できない現象はいくらでもあります。とにかくですね、真相が何であれですよ、奇跡であれ、トリックであれ、国家の安全保障が第一なんです。国民生活に安心をもたらすのが第一なんです。その観点からして、政府の対応はあまりに遅きに失している。そのくせ秘密主義で、情報もなかなかマスコミに開示しない。こんなことではですね、変なたとえかも知れませんが、宇宙人がもし今、目の前に現れて、地球を侵略し始めても、まさか宇宙人なんているわけないんだから安心して気にするな、と国民に言っているのと同じだと思うんですよね。でも現に宇宙人は目の前に現れてるんです。火炎少女も出現しているわけなんです。そういうことなんですよ。火炎少女Aの身柄拘束についてはですね、いろいろ難しい問題を含みます。法的問題。何より、危険性の問題。まさに、非常に、危険な作業になると予測されます。だからですね、超法規的措置を含めたですね、国民の安全第一の立場に立った、柔軟な対策の検討が急がれると思います」
 「では、街の声をお聞き下さい」
 テレビ画面には東京の通りを歩く一般市民の姿が映し出された。
 裕福そうな身だしなみの婦人が、口に手を当ててインタビューに答える。
 「怖いですう。はい。そりゃ怖いですよお。うちの子にもあんまり外を出歩かないように言っています。特に公園とか、人ごみの多いところとか怖いじゃないですか。だって、ぱっと人を燃やせるんでしょ? え、睨んで燃やすの? 睨んで、燃やすの? そんなの、その子に睨まれたら終わりよね」
 女子高生の二人組が、ふざけ合うようにお互いを見て含み笑いをしながら、マイクに向かって答える。
 「え、まじ?って感じです。まじ、もしこの辺にその人がいたらやばいじゃんって感じです」と一人。
 「うーんと確か、うちらと同じ年齢の人ですよね、確か」ともう一人。「えー、なんか、ちょっと会ってみたいけど怖い」
 上着を脱いで肩にかける中高年のサラリーマン。
 「はい。はいはい。信じられないなあ・・・超能力なんですか? いやあ、まさかねえ・・・たちの悪いいたずらじゃないですかねえ。ま、いずれにせよ人殺しは人殺しです。一般人を燃やすことを何とも思ってない感じですもんね。なんか腹立ちますよ」
 街角の場面が消えた。「ここで一連の炎上事件を振り返ってみよう」と、真剣さとユーモラスさを兼ね備えた最近はやりの男性ナレーターの声が入り、事件の経緯をまとめたVTRが流れた。画面ごとに、刺激的な活字や効果音が躍る。
 再び、男性ナレーターの声。
 「我々取材班は、火炎少女Aさんが最初に燃やしたと思われる小学校時代の同級生にインタビューすることができた」
 画面にはぼかしが入り、音声が変えられているが、女のような声の主はサトシである。
 「大人しい子、だったです・・・暗かったというか。あまりしゃべらなかったっていうか。こっちが話しかけても、黙って無視したりして、ちょっと何考えてるかわかんないところがありました。みんなのこと、嫌ってるのかなあって・・・はい。いや、でも超能力とかは全然感じませんでした。燃やされるまでは。
 「いや、びっくりしました。はい。びっくりしました、燃やされたときは。睨んできたな、と思ったら、一瞬で、体が、ぼーっと、はい。は?・・・はい。確かに、睨んできました。下校の時に、ちょっと声をかけたら、なんか虫の居所が悪かったのか、カチンときたんだと思います。はい?・・・いやあ・・・感情の起伏が激しいってわけでも・・・普段は静かでしたから・・・え? あ、はい。殺意は、感じました。すごく感じました。ああ、殺されるなって思いました」
 男性ナレーターの声。「火炎少女Aは、いったん睨んだ獲物は逃さない殺人鬼なのか。しかし一方で、彼女は全くの普通の女子高生だったという証言もある。我々取材班は、Aさんが失踪前まで通っていた高校で、Aさんと親しかったという女性の話を聞くことができた」
 画面には、私服を着た女子高生の首から下が映し出された。声は替えられていない。
 その声は、ユリエのものであった。元気で、能天気に明るい、宮渕と話している時とはまるで別人の。
 「えー、あの子は、普通ですよお。普通。でもめちゃ可愛くて、ほんとめちゃめちゃ可愛いんですよ。学校の男子にもモテモテで、それで逆に恨まれたり因縁つけられたりすることがあったのかなあって・・・。多分変な噂も、その人たちが言ったと思うんですよ。だってどう考えたって、念力で人燃やすとか、そんなマカ不思議なことありえないでしょ。はは、ありえないですよ。あたしむしろ思うんですけど、彼女がなんか別の組織から狙われてて、そういう、燃やすとかの濡れ衣を着せられるみたいな」
 インタビュアーの声。「あなたは、交通事故に巻き込まれそうになった彼女をかばって、自身が入院するほどの大けがを負ったということですが」
 「え、やだ、かばったわけじゃありません。車が急にこっちに向かって来たんで、逃げようと思ったらあれ? 彼女じゃなくてあたしが轢かれたみたいな。でもそれで彼女をかばえたんなら、嬉しいです。だってあたしたち親友でしたから」
 インタビュアー。「今、日本のどこかに潜伏していると思われるAさんに、親友として何かメッセージはありますか」
 「はい」ユリエは声の調子を整えた。姿勢も若干変えた。映っていないが、顔をカメラに向けたようである。
 「名前を呼べないのが残念だけど・・・Aさん。聞いていますか? どこかであたしの声を聞いていますか? 聞いてたら、ぜひ連絡をください。あたしはいつだってあなたの味方です。味方だよー。一日も早く元気な声を聞かせてください。心配してます」
 続いて画面は、円グラフを表示した。『火炎少女Aに対して、国はどんな対応をすべきだと思いますか』というアンケートの結果であると、男性ナレーター。五十五パーセントが、法律の範囲内で逮捕を前提とした対応を検討すべきであると回答している。二十九パーセントが、法律の範囲を超えてでも、殺害を含めた対応を検討すべきである、との回答。二パーセントが、炎上事件との因果関係がはっきりしない限り、逮捕すべきではない。その他十四パーセント。二十九パーセントの扇形だけ、少し突出して大きく、派手な色に塗られている。
 国民の三割が、殺害を含めた対応を検討せよと考えている。そのことを強調する演出である。
 円グラフは消え、画面は、太鼓腹に赤ら顔の人物を映し出した。テロップには、『日本超能力学会会長 田辺愼造』とある。
 この辺りまで観て、織部警部補は舌打ちしながら、テレビ画面から手もとの二合徳利に視線を落とした。
 茶色のくたびれたジャンパーを着て、私服である。
 いつもの生き生きとした快活さは鳴りを潜め、陰鬱で病的な目つきをしている。相当むしゃくしゃしていることが、黙っていても体全体から滲み出てわかる。すでに幾分か酔いが回っている。
 駅前にある、そばとうどんを看板に掲げた大衆居酒屋。汚らしいことが店の存在意義であるかのように、天井近くに貼られた品書きは油染みでほとんど文字を判読できない。カウンターの隅っこには誰も拭き取らないねっとりしたゴミが溜まり、通路の床は注意深く見ない方が気分よく飲み食いするには都合がいい、といった塩梅である。集う客も、店の体裁に合わせるように、世間的な幸福のうちの幾つかを諦めた観のある者ばかりである。
 織部警部補はカウンターの端っこに一人座って酒を飲んでいた。そこから二歩で行ける距離にある小さなテーブル席には、体重百キロはあろうかというつるっ禿の男と、袖口の擦り切れたジャケットを着た無精ひげの男が陣取り、ラーメンを啜りながら瓶ビールを酌み交わしている。無精ひげの男はかなりの喋り好きと見える。先ほどから、政治であろうが、知人の噂であろうが、パチンコの玉の出方であろうが、何から何まで、すべて自分一人だけ知り尽くしているかのように断定口調で切り捨てている。その度、巨漢の男が低い声でいちいち相槌を打っている。
 「だいたいありゃ、警察がたるんでるんだ」
 無精ひげがテレビを見上げながら眉を顰めて言った。
 「最初の小学生を燃やした時に、ちゃんと逮捕して網走か自衛隊の施設かなんかに抛りこんでりゃ、こんなことにならなかったのによ」
 「そうだそうだ」禿の巨漢がビールを呷ってから頷いた。彼はアルコールでかなり上機嫌である。「手足を縛って独房に抛り込んでりゃよかったんだ」
 「手足縛ってもよ、睨んだら燃やすってんだから駄目よ。むしろ、精神科医の仕事よ。精神科医が治療して、人を燃やしたくなくなるような幸せな夢でも年中見せておけばよかったのよ」
 「そうだ。精神科医の仕事だ。精神科医が治療すりゃいいんだ」
 「でもよ、まず捕まえんことにゃ、精神科医も手も足も出ねえじゃんか。だからおら言ってんだよ、小学校の時か、せめて中学生くらいのときによ、まだ本人があんまり強くねえときになんで警察はふん捕まえなかったんだ? こりゃ警察の大失態よ」
 織部警部補は身を固くした。当時、事件を担当していたのは自分である。酔いのせいではなく、顔がカッと熱くなるのを彼は感じた。
 店主が心配そうにちらちら見てくる。店主は彼の本当の身分を知っているのだ。
 <お前はこっち見ずにそばでもゆがいてろ、馬鹿>
 「なあ店主」無精ひげは賛同者を増やしたいのか、店主を巻き込みにかかった。「なあ店主、そう思わねえか店主? 警察がいちいちだらしねえんだよ。そう思わねえか?」
 「へ、へえ」
 店主はしどろもどろになって、いよいよ織部の方を気にした。
 「なんだよ店主」
 無精ひげは店主の動揺に目ざとく気づいた。彼は、自分たちにほとんど背中を向けて座る茶色いジャンパーの男をうさん臭そうに見やった。
 「なんだよ、このお客さんが何かその筋の人とでも言うのかい」
 織部の変わり身は速かった。職業柄、身分を偽るのには慣れてる。即座にただの酔っぱらいを装い、だらしなく弛緩した笑顔を作って、彼らの方を向いた。
 「え? 私かい? 私は、ただの近所の人間だよ。えーまあ、知り合いにサツのもんがいるがね」
 「そうかい。ほお」無精ひげは思惑ありげに目を輝かせた。「なんだ、そのあんたの知り合いって人は、この事件に関わってるんかい」
 「いや、直接じゃないみたいだが」
 嘘が中途半端だったことを内心悔やみながら、織部は依然としてとぼけて見せた。「ただね、前例のないことだからね。警察も動きにくいらしいよ」
 「前例がないからこそ素早く動かなくちゃ警察の意味がねえじゃんか」と無精ひげ。
 「そうだ。警察の意味がねえ」と巨漢。
 「いや、あんたの知り合いを悪しざまに言うつもりはないけどね」と無精ひげはなおもからむ。「警察はたかが少女のやることって、ちょっと軽く見てたんじゃないかなあ」
 織部は酔いも手伝い、無性に腹が立ってきた。声の震えを抑えながら言い返した。
 「相手も何しろ、人間だからね」
 「人間じゃねえよ。人燃やすんなら宇宙人だよ。ほら、さっきの解説委員も言ってたろ。宇宙人と一緒だって。おらが思うに、その子は宇宙人だな。人間と考えちゃいけねえ。宇宙人だ。ただちに退治しなくちゃ、地球が危ないぜ」
 織部は我慢できなくなった。
 「なんでえ。少女を見つけた時点で、撃ち殺しておけば良かったってかい」
 二人の酔っ払いは思わずたじろいだ。ぼそりとした呟きであったが、はっとさせる凄みがあった。ぎこちない沈黙が店内を満たした。
 しん、とした中、テレビが唯一、口を開いて次のニュースを告げていた。警察と自衛隊が協力し、富士山麓にあるとされる新興宗教「オースプ」の不法施設に対して一斉捜査に乗り出しましたが、霧も深く、電波も混乱し、施設の所在地を特定するに至らなかった模様です・・・。
 織部はふとテレビの内容が気になり、ちらりと見上げたが、意識は依然として、テーブルの無精ひげと禿げ頭の二人に向けていた。次に何を言われるかを警戒した。警察の人間であることがばれるかも知れない。そのときは、どう切り返そうか───。
 しかし彼は、もう一人、先ほどから自分のことを興味深そうにじっと見つめている人物に気付いていた。この店は間口が狭く、細長い造りをしており、厨房を真ん中に置いてぐるりとU字型に長いカウンターがしつらえてある。厨房を挟んで自分と真向いの席に、その人物は腰かけていた。彼は幾つかの小皿を注文し、瓶ビールを脇に置いているが、瓶にはほとんど手を触れてないことに、織部はずっと前から気づいていた。年齢不詳のところがあるが、おそらく織部より上であろう。顔は下膨れで、とにかくてかてかした肌つやをしている。人生経験は豊富そうだが、それを表に出さない気味の悪さがある。小さな目は何を考えているのか読み取り難い。恰幅が良く、小奇麗なスーツを着込んで、老獪なビジネスマン、といった出で立ちである。店の淀んだ雰囲気に合わない、と言えば合わなかった。間違えて入店したんじゃないかと、多くの者が思ったくらいであった。しかし彼はしばらく前から腰を据え、唐突に始まった織部と酔漢二人の応酬も、にやにやしながら聞いていたのだ。まるで、ようやく自分の待っていた話題が出た、といった感じである。
 その男が、張り詰めた空気の中、静かに席を立った。顔をにやにやさせたまま、カウンターをゆっくりと回り、こちらに近づいてくる。
 織部は身を強張らせた。テーブル席の二人まで、口をつぐんだ。

(つづく)



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松本ダンス 第一話『シエラ』その二

2011年09月06日 | 連続物語
 一時間が経った。

 
 トレンチコートは残骸のように酔い潰れ、カウンターに突っ伏して寝入っている。女主人は、紫煙越しにガラス張りの暗いドアを見つめて動かない。

 ガラスに人影が映り、彼女は息を呑んだ。このまま失神するのではないかと思った。

 敏男さん。

 ドアが開いた。
 
 紳士服の広告からそのまま抜け出したような着こなしの中年男。バーバリのマフラーをしている。十年前は、もっと派手なマフラーだった。でも、何も変わってない。何も変わってないじゃない。女は緊張のあまり震える手をシンクの縁に押しつけた。新参の客もまた、警察の前に突き出されたかのように戸惑っている。酔い潰れた先客に気付くと、彼はさらにうろたえた。
 
 「いらっしゃい。ようやく────ようやく来てくれたのね」
 
 「すまん」
 
 「どうしたの?・・・ああ、このお客さんは大丈夫。水割り十三杯で完全にご就寝」
 
 「いや、でも・・・」
 
 「ねえ、道路標識じゃあるまいし。ぼーっと突っ立ってないで座ったらどう?」
 
 「由紀子」
 
 「何よ」
 
 「申し訳なかった」
 
 絞り出すように言うと、男は深々と頭を下げた。
 
 「何が?」
 
 由紀子の声色が変わった。目には煌めくもの。
 
 「さっきから何を謝っているの? ねえ、何について謝ってるの? 私が十年間、四方八方に手を尽くしてあなたを探し出した苦労のこと? それとも十年前、堕胎の費用を私が全額負担しなけりゃならなかったこと? それとも、そのときの手術の失敗で、私が一生子どもを生めない体になったこと? それとも、それともあなたにゴミのように捨てられたこと?」

 言いながら彼女は泣いていた。
 
 「ごめんなさい。ごめんなさいね。大事な大事なお客さんを立たせたまま、こんな昔話にふけるなんて。どうしちゃったのかしら、あたし。さあ、座って」
 
 十年前、別れ際に予告したこと、あなた覚えてる?
 

 中年男はマフラーも取らずに腰かけた。
 
 「何をお飲みになるの」
 
 「いや、僕は・・・」
 
 「何よ」
 
 「僕は、君に来いと言われたから・・・」
 
 女の表情を見て、男は慌てた。
 
 「・・・あ、いや。ビールを頼む」
 
 値札のつきそうな笑みを、由紀子は浮かべた。「はい、ビールね」

 店のドアを時折夜風が揺する。
 

 ビール瓶はカウンターに二本。バーバリのマフラーは、いつの間にか壁に。

 「あれから・・・」

 「何よ」女は自分のビールに口をつける。

 「いや・・・あれから、十年か」
 
 「あれからっていつからよ」

 女は細い煙草に火を点ける。「あなたに捨てられてからってこと? それとも腹の子を失ってからってこと?」
 
 「いや・・・」男は拳に汗を感じる。「ところで、その・・・法的措置は諦めてくれるのか」
 
 濃い煙を、女は口から吐き出した。
 
 「せっかくのお酒を不味くするような話はやめてよ」

 「でも君が・・・」

 「うるさいわね」

 女は苛々して煙草を揉み消した。

 「約束は守るわよ。あなたがここに来てくれたから、あなたのご家族を悲しませるようなことはしないわ。安心して。ええ。あたしは、約束は守るわ」

 男は呻いた。やはり、この女は実行する!
 
 「ビールが空いたわね。お次は何」
 
 十年前の別れ際、お前は言った。今度会ったら、必ず殺す、と。
 
 「もう飲めない。僕はそろそろ・・・」
 
 冗談でしょ、と女の低い声が聞こえた。これからじゃない。

 冗談じゃない、と男は心の中で毒づいた。

 由紀子はシンクの縁を握り締め、唾を呑みこみ、それからひどく陽気に言った。

 「とっておきのを出してあげる」

 自分の声ではないような気がした。
 
 彼女は足元も覚束なげに丸椅子の上に乗ると、棚の一番上から葡萄色の瓶を取り出した。抑えようとしても、手が震える。
 
 男は死人のように蒼ざめた。「まさか」
 
 「そのまさか。そのまさかなの。十年前、前の店にいたとき、敏男さんが最後に入れたボトル」
 
 栓を密封するテープがぺりぺりと音を立ててはがされる。
 
 「・・・その、いくらなんでも、もう飲めないだろう」
 
 「大丈夫。ブランデーに賞味期限はないの。思い出と同じ」
 
 グラスに注がれる液体は、溶けたべっ甲飴のような粘り気のある色をしていた。
 
 「さあ」
 
 「いや・・・それは・・・」
 
 これだ。これだ! これに仕込んであるんだ。ほら、やつの額を見ろ。汗をかいてるじゃないか。畜生!
 
 敏男はすでに体に毒を盛られたかのように狼狽した。顔面は蒼白になり、全身に冷たい汗をかいた。酔い潰れた先客を、彼は目の端で睨みつける。

 なぜ泥酔してるのだJK! (つづく)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする