た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

無計画な死をめぐる冒険  160

2010年02月22日 | 連続物語
 神よ!────私は叫んだ。おそらく生前死後を通じて初めて、その名を、切実に。神よ! 神よ! 神よ!────叫びながら、私の脳裏にあったのは、いわゆる神の姿ではない。あの忘れ難い面々であった。私を松の木に放り込んだ鬼の顔。もっと前には、私を光なき深海に沈めた少女の顔。そしてさらに前に、幽体離脱したての私の前に現れた、間の抜けた男の顔。いずれも霊魂と化し空を漂っていたころ、私が僥倖にも会話できた者たちの顔だ。そのうちのどれでもいい。お前たちが神であるなら、神でいい。神でなければ、それでいい。現われてくれ。ここに再び現れてくれ。現われて、私をもう一度自由の身にし給え。笛森志穂が危ない。彼女が拉致されてしまう。人参皮むき器の藤岡にいいようにされてしまう。奴は卑劣にも志穂の弱みにつけ込む気だ。そもそも、奴は志穂にアドバイスをしたというではないか。つまり私のウィスキーに風邪薬を盛る手引をしたのと同じことだ。やはりあの先天的凡才は、私の死を密かに虎視眈々と望んでいた! 許し難い。許し難いぞ藤岡。ああ、どうして一体、私は雑木なのだ! どうして大地に根など生やしているのだ!


 大いなる時間は歌う
 儚き日々を憐れみて
 歓喜と花で塞がれた
 死すべき生の幸いに
 無限の調べは空の色
 永久の嘆きは風の音
 大いなる時間は笑う
 儚き無知を憐れみて!

 突き刺すようなまばゆい光が地に満ちた。千の太陽に匹敵する明るさである。生き物ならば到底目を開けていられまい。原子爆弾が頭上で炸裂したかのようであった。しかし爆発音はない。灼熱も感じない。光は飽和し、溢れ、すべての景色を消し去った。何かが現れる。間違いない。 私は全神経を集中させ、来るべきその何者かに備えた。
 光の中に姿が見えた。
 近づいてくる。
 見よ! 願いは叶えられた。彼らが、三人揃って私の目の前に立っていた。私は飢えた獣のように興奮した。
 目の小さい、団子鼻の、間延びした顔の男。持ち主のわからない忘れ物でも眺めるように、こちらを見て首を少し傾げている。彫像のような美しさと冷たさを持つ少女。純白の衣が光を浴びて翻る。そして、怒りの形相に口を開く鬼。私を松に投げ入れた奴だ。腕組みをして牙を光らせ、全く反省の色がない。
 彼らは佇み、私を見ていた。私はと言えば、いまだ一介の松であった。光が満ちた瞬間、根拠もなく、松から抜け出せる期待に胸が高鳴ったのだが。やんぬるかな、いまだセルロースの塊を脱していないではないか。私は非常に幻滅した。彼らは私に自由をもたらしに来たのではないのか? 確かに、大地からは解き放たれた。今、足元に地面はない。青白い根が醜悪に絡み合いながらはるか下方に伸びている。それはなかなか荘厳な風景である。殊更長い根の先端はここから見ることもできない。周りには飽和した光のみ。私が寄って立つところは何もない。家も塀も、街並みも空も、時間の流れと空間の位置を知る手がかりとなるものは一切。無の明るみの中に私は放り込まれたのだ。こんなものは自由ではない。地平がなければ自由もないことを私は知った! 私はただ根こそぎ引き抜かれ、燦々たる白光の中、奴ら根性悪たち三名の侮蔑の目に晒されているのだ。憤懣やるかたない。奴らは、かつて砂時計を弄ぶように私の運命を弄んできた。次に私をどうする気なのか。今度は、私に何を見せつけるつもりか。
 魂の存続する限り、私は意志する。生きるとは意志することなのだ。私は声を出した。今なら声が出せ、それは彼らの耳に届くという不可思議な確信があった。
 「頼みがある。一つだけ願いを聞いてくれ」
 間延びした顔の男が頭を掻いた。
 「願いによりますな」

(それでもつづく)
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無計画な死をめぐる冒険 159

2009年07月26日 | 連続物語
 藤岡は不届きにも、志穂の両脇を抱えた。引き摺ってでも連れ去ろうという算段である。彼女の両脇を抱えるなど、誠に不届き千万である。
 「離してください。嫌っ!」
 「失礼ね」
 氷に閉ざされた海のように重く冷たい美咲の声が、彼らの動きを止めた。痩せた手を固く握り絞めている。興奮を必死で堪えているのだ。
 「あなたは、あなたは何もわかってない。あなたは何一つわかってないわ。死んだらいいと。ええ。死んだらいいって、私も、いつか思ったことがあるかも知れない。でも、死んだらいいと、心の中で思うのと、実際に死なれるのとは、全然、全然違う問題なのよ。どんなに嫌っていても、やっぱり自分の片割れなのよ、夫というものは。死なれるってことは、失うことなの。失うことなのよ。苦しいの。ちょっと驚くぐらい苦しいの。そう。夜寝る時も、朝目覚めるときも、何をしてても、何もしていなくても。好きだったとか嫌いだったとか関係なくて、愛していたとか憎んでいたとか、そんなことまったく関係なくて、どうしようもなく苦しいの。自分がまるで、半分死んだ気持ちになるの。それが夫婦というものなのよ」
 砂利の音。
 「私の母は、死んで苦しむ人もいませんでした」
 「あなたのお母さん? 生きているとき、すでに私を苦しめたじゃない」
 それに対する志穂の返事は、言葉にならなかった。ほとんど叫び声であった。藤岡が強引に引き摺っていったせいでもある。対話は崩壊した。志穂と藤岡の二人は泥地を転がるようにして門の向こうに消えた。
 志穂が激昂するのも当然である。美咲の夫婦論は良しとしよう。それには不覚に私も涙しかけた。しかし最後の台詞はどうだ。あまりにひどい。雪音が生前お前を苦しめていただと? どういうことだ。どういうことだ美咲。我々の不倫が、お前には明々白々だったということか。お前は、一体、いつから雪音の存在を、私の背後に嗅ぎとっていたのだ。
 門の向こうで、タクシーのドアが激しく閉まる。
 美咲と大仁田は寒さに震えながらその音を聞いている。
 タクシーがゆっくりと門前に姿を現した。後部座席の窓が開く。「待って、運転手さん、止めて」「やめなさい、こら、運転手行ってくれ!」車内はもみくちゃである。両手で押さえつけようとする藤岡に抵抗して暴れ回りながら、志穂が車窓から顔を見せた。髪の毛が無残に乱れている。
 不倫し、別れ、頓死した母親の遺した娘は、刺すように玄関を睨んだ。
 睨む先には、夫に裏切られ、先立たれた妻たる女が、体を固くして立つ。
 不意に志穂が笑ったように私には思えた。泣きそうになったのかも知れない。
 「裁かれるのは、私だけじゃないわ」
 日は完全に没した。タクシーが去り際に起こした風で、残った者はそうと知らされた。


(夏休みをはさんで、いつかまたつづきます)
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無計画な死をめぐる冒険 (157~)158

2009年06月30日 | 連続物語
第六章

 
 息遣いの音が聞こえる。美咲のものである。
 私を殺害した女と、夫を殺害された女が見つめ合う。いや。私を殺害した女と、その殺害に加担したと思われる女が。私を憎み、その一点で繋がってしまった二人の女が、その宿縁の太さに慄然として見つめ合う。
 日は没する前に薄雲に隠れた。つむじ風が起こり、止む。 
 美咲が口を開いた。
 「何の御用」
 砥石で擦ったようなかすれ声である。
 志穂は答えを返せない。まさか犯行現場に舞い戻りたくなったからとは言えない。しかしそう気取られてもおかしくない沈黙である。万事休すである。
 それでも、彼女は大きな目で美咲を見つめ返す。すべてを諦めつつある女は動揺しない。口をもぐもぐさせているのは藤岡ばかりである。
 美咲の背後に人影が現れた。「奥様、ま、奥様!」と耳障りな声でささやきかける。大仁田である。大仁田もまた、うろたえている。美咲は振り向きもしない。
 見つめ合う女が二人。うろたえる取り巻きが双方に一人ずつ。
 四者が揃った。
 
 志穂は首を傾げて見せた。栗色の髪の毛が強張った笑みにかかる。
 「いろんなことを、もう終わりにしようと思ったんです」
 「そう」
 未亡人の相槌は冬の床板のように冷たい。
 来訪者は一歩前へ出た。
 「その前に、ここをもう一度見ておきたくなって」
 「そう。自首するの」
 言われた女の表情が変わった。
 「他人事ですね」
 「あなたの事でしょう」
 誰かの重体を告げるサイレンが近づき、遠のいていく。志穂は唇を噛んで美咲を睨みつけた。
 「もし私が────私が殺したと思うんでしたら、どうして、妻であるあなたが、警察に訴えないのですか?」
 「私は・・・」
 「自分も捕まると思ったからですか」
 「ちょっ、ちょっとあんた」大仁田が慌てる。「人聞きの悪いこと言わないでよ。奥様が捕まるわけないじゃない」
 抜けブスはやはり抜けブスである。美咲を擁護するなら、何もしていないと否定すべきであった。捕まらないと言い張ることは、捕まらない程度に何か犯していることを暗に認めたことになる。
 奥様は赤面して声も出ない。
 蒼褪めているのは志穂である。
 「私は自首します」
 「笛森君!」藤岡が悲鳴を上げた。「な、な、何を言ってるんだ、も、戻ろう、車へ」
 「私は自首します。それをお望みなんでしょう? 私は、でも、私の罪状って何ですか。私は確かに、風邪薬をお酒に混ぜました。やめてください。離して(と、これは藤森に対して)。死ぬなんて思ってなかった。風邪薬なんかで死ぬはずがないと思ってた。もし間違って死ぬなら、それならそれで、死んでもいいと思ってた。だから、そう、殺意はあったんです。殺意────それで殺意があったと言えるんですか? わかりません。私にもそんなことわかりません。私はただ、復讐がしたかっただけ。でもあの男に復讐したがってた人間は、私だけじゃなさそうですね。(そう言って彼女は周りの人物たちを睥睨した。)私はいろんな人の手助けがあって、犯罪に成功しました。誰も殺すつもりはなかった。でも誰かがそうすることを望んでいた。違いますか? 違いますか? 私は、あんなひどい男は死んで良かったと今でも思っています。もし、もしそう思っていることが一番の罪なら、罰を受けるのは他にも」
 「戻ろう、戻るんだ笛森君!」

(つづく)
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並び替え第七弾

2009年06月17日 | 連続物語
誰が読むわけでもないでしょうが、久しぶりに並び替えます。

無計画な死をめぐる冒険、131から157まで。
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無計画な死をめぐる冒険 131

2009年06月17日 | 連続物語
 鬼の眉間の皺が濃くなり、気配がより剣呑になったかと思うと、突然炎が奴を取り巻いた。太陽ほども眩しい紅蓮の炎である。奴自身は熱くないらしい。どうも色々仕掛けのある鬼である。また巨石を転がす声を出されたら困るから、矢継ぎ早に言葉をつけ足した。
 「担いでるのでもなく道化でもないのなら教えてくれ。笛森志穂は恐れていたのか。私を見ることを恐れていたのか。そうならばなぜ、彼女は私を恐れていたのだ」
 鬼の目が赤く染まり、口が耳元まで裂けた。怖い鬼の顔がさらに怖くなったと思ったら、奴の炎が奴を離れ、竜巻のように渦を巻いて私を取り囲んだ。ごうごうと盛大な音がする。熱くはないが、炎ばかりで何も見えない。鬼の姿すら炎の向こうで影になった。
 割れ声が響いた。
 「お前の目で確かめよ」
 その言葉で、目の前の炎がさっと左右に畳二畳分ほど退いた。カーテンのように便利な炎である。ちとこの鬼はいくらなんでも仕掛けが多過ぎるのではないか。呆れたことに、炎の退いたところに警察署の取調べ室が現れた。天井辺りから覗いた格好である。 
 取調べ室とすぐにわかったのには、それなりの理由がある。コンクリートの打ち放しのような床。床と同じ色の殺風景な壁。壁と同じ色の事務机。その机の一方に笛森志穂が座り、もう一方に五岐警部が座っている。戸口には別の警官が立っている。壁の時計がやたら秒針を喧しく刻んでいる。これが取調べ室でなくて何であろう。
 五岐は苛立ちからか、閉じた手帳をペンで叩いている。
 彼らのところに飛び移ろうとしたら、透明な壁にぶち当たった。なるほどこれはスクリーンなのだ。現実ではない。さすがに上空五千メートルをも超えると思われる地点に、現実の取調室はなかろう。それにしてもリアルな映像である。むしろこれは映し鏡か。今まさに、地上で起こっている出来事の。
 私は告白する。鏡にせよ壁にせよ、堅い物に触る感覚がいずれにせよ何とも懐かしく心地よかったことは事実である。私は禁酒中のアルコール中毒者が酒瓶を撫で回すように、醜悪な体でスクリーンを撫で回した。それはそうとして、志穂の傍らまで降りていけないのがどうにも歯がゆくてならない。私はまさしく蜘蛛のように映し鏡にへばり付いた。彼女のよくくしけずられた頭頂がここから見える。表情が少し見える。美しい女である。彼女は────やはり雪音である。人形のように手にとってみたくなるほどの慎ましやかな清楚さが、雪音である。
 彼女は、彼女は窮地に立ってなお美しかった。判決を待つ人のようにじっと身を硬くして、五岐警部を見つめていた。


(どうやらつづく)
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無計画な死をめぐる冒険 132

2009年06月17日 | 連続物語
 秒針が沈黙を刻む。
 手帳を叩くペンの動きが止まった。
 威圧的な肩幅を持つ男は身を乗り出した。「あなたは彼を恨んでいた。自分の母親の愛人を。そうだろう?」
 人形のような女は、かすかに震えながらも、毅然として男を見つめ返した。
 「はっきり憎んだのは、母が自殺してからです」
 自殺? 私は激しく動揺した。気が狂いそうになった。雪音が車に轢かれたのは、自殺だったと言うのか?
 私の疑問と同じことを警部は口にした。
 志穂は小さくうなずいた。
 「そうです。私はそう信じています。母は自分から車の前に飛び込んだんです。それはあまりにも上手く行き過ぎたんです。誰も事故であることを疑わなかった。上手く行き過ぎたんです。でも、警部さん。母には、その日、その信号を渡って行く用事なんて、一つもなかったんです。母は、私の母は、自分から死ぬつもりもないのに、赤信号を無視して横断するような人じゃありません」
 警部の眉間に深い皺が刻まれた。
 「飛び込んだとすれば、何のために」
 「私は、母が死ぬ前の半年間、どれだけ孤独だったか知っています」
 警部はうむ、と唸って鷲鼻を両手の中に沈めた。志穂の言葉が畳み掛ける。
 「母は裏切られたんです。利用されたんです。母は毎朝、涙で頬を真っ赤に腫らしながら起きていました」
 「遺書も何も残っていなかったが」
 「わからないんですか。事故を装ったんです。母は成功したんです。事故を装うことに。演技のまるで下手な人だったけど、最後の最後は成功したんです。信号無視というニュースにもならないような事故を装ったんです。自殺したとなると、良心の呵責に苦しむ人が出てくるからです。でも実際には、あの男には良心の欠片すら無かったのに。母は泣きたくなるほど優しい心の持ち主だったんです。あんな男、あんな男にさえ、自分を虫けらのように捨てたあんな屑みたいな男にさえ、罪の意識を背負いさせたくなかったんです、母は」

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 133

2009年06月17日 | 連続物語
 壁時計の秒針が一回りするほどの、長い沈黙が続いた。私にとって石臼を背中に乗せられたような沈黙だったことは言うまでもない。私が耐え切れなくなる前に、警部が口を開いてくれた。
 「いずれにせよ、君はそう信じたわけだ」
 真直ぐな志穂の背筋が、さらに伸びた。「はい」
 「それで復讐を誓ったわけだ」
 こわばった笑みがそれに答える。「誘導尋問ですか?」
 「もちろん、誘導尋問ではない。誘導などしておらん。では・・・君は、さっき言った通り、宇津木家の居間で宇津木邦広を待つ間、戸棚のウィスキーの瓶に風邪薬を溶かし込んだことは否定するのだな」
 なぜか志穂は壁時計をちらりと見遣った。
 「はい」
 「うむ。なるほど。では、と重ねて訊いていいかな。ではなんのために、二月十六日の木曜日、君は女子学生と騙ってまで宇津木家を訪問したのだ」
 この問いには力があった。二人は息もせず睨み合った。笛森志穂は────ああ! と私は叫ばなかったろうか?────初めて、殺人者に相応しい不敵な笑みを浮かべた。目は爛々と輝いている。唇は震えている。音高く椅子を引き摺らせて、彼女は立ち上がった。
 「殺してやりたいほど憎らしい男の顔をひと目見たかったからです。言わせてもらっていいですか」
 警部は気圧されている。「ああ」
 「誰が犯人か知りません。そんなことは知りません。でも、風邪薬を瓶に混ぜ入れるって、それ自体、人を殺すのにはあんまりにも効果的じゃないとは思いませんか? ただの悪酔いで終わる可能性だって高いんでしょう? 誰がそんないたずらをしたか知りません。私は────知りません。でも、あの男が急性アルコール中毒で死んだことは、天命です。天罰です。そう思います。確かに、ええ、私はあの悪魔のように厚顔無恥な男の顔を見るために、彼の家を訪ねました。私はあの男を憎んでいました。母を殺したあの男を心から憎んでいました。母が死んだんだから、あの男にも死んで欲しいと、思っていたのは事実です。でも思うこと自体は犯罪じゃないですよね? 警部さん、私を逮捕するのでなかったら、もう帰らせて下さい」
 警部の頬が少しだけ高潮したように見えた。戸口の若い警官が、音の漏れないように咳をする。
 五岐警部は唸りながら椅子の背もたれをきしらせた。
 「わかった。よかろう。今日はここまでだ」

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 134

2009年06月17日 | 連続物語
 ここまでだ、の辺りで、声は急速に遠のいた。声だけでなく、画面までが白くぼやける。真白になったと思ったら、映し鏡全体が粉々になり霧のような粒子となって消失した。同時に周囲を取り巻いていた炎も消えた。
 天井に青空が戻った。下方には雲海ができつつある。
 私と鬼は、日の照らす中空に再び対峙した。
 私がいつまでも喋らないので、鬼のほうから口を開いた。低い、割れ鐘のような声。
 「わかったか」
 わかったかだと。何をわかったと言うのだ、この鬼畜が。
 私は奴の目を見つめ返すことすらできなかった。
 「わかった」
 むべなるかな。私は、わかり過ぎるくらいわかっていたのである。取調室におけるあの鷲鼻の警部と同じほどに。
 風邪薬をウィスキーの瓶に入れた犯人は、笛森志穂である。彼女が、私を殺した。しかし────不幸にもと言おうか────彼女は表情を偽れるほどの悪人ではなかった、罪人ではあったが。彼女は言葉で否定しながら、燃えるような瞳で全てを白状してしまった。彼女が私を殺した。彼女が居間の戸棚の酒瓶に手をかけた。彼女が殺人を意図し、それがどんなに偶然を頼りにする計画だったにせよ、見事成功した。たまたま上手く事が運び、私は死んだ。馬鹿げている!・・・全てが私の妄想であって欲しいと、どれほど願っていることか!・・・せめて。せめて彼女が心のどこかで、この場当たり的な犯行の失敗を望んでいてくれたなら。まさか死ぬとは、と、驚いてくれたなら。いずれにせよ、私は現に死んだ。犯罪は完遂された。彼女が証拠不十分で手錠を逃れられているのも時間の問題であろう。彼女は早晩捕まろう。またそのことまでも、彼女はすでに、捨て鉢な態度で、自覚しているのである。
 私は殺された。それもどうだ、殺されてのち知ったことだが、狂おしいほどに愛しい女の手にかかって!

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 135

2009年06月17日 | 連続物語
 「一つ訊きたい」
 「何だ」
 「力。力のことだ。力がある、と言ったな。私には、自分を現す力があると」
 奴は答えない。
 「どれだけの力なのだ、それは。教えろ。笛森志穂は私の姿を見た。私の声を聞いた。私にできることはそこまでか。それとも、もっと何かできるのか」
 もっと何か。私の切実な問いに対して、鬼は嘲りの笑みを浮かべた。笑うと言っても、口元がほんのわずか引き攣るだけである。だが、はっきり嘲りとわかる笑いである。
 「例えばどんなことだ」
 私は口をつぐんだ。意中には、空に持ち上げられる直前の出来事があった。あのとき、五岐警部は私の手を首筋に感じたのだろうか? もし可能なら、私は──私は、今度は、あの女の白い首筋に手をかけなければならない。復讐のため。復讐? いや、そんな単純なものではない。憎しみなら確かにある。私はあの女によって死に追いやられた。あの女を殺してやりたい。だが、慙愧もある。あの女の言葉を信じるなら、私が彼女の母を死に近づけたのだ。私は悔いても悔やみきれぬことをした! 憎悪と悔悟、この二つの心情が複雑に絡み合って・・・違う、違う。違うのだ。正直に語れ、宇津木邦広。そんな感情は皆、風の前の枯葉のようにどこかに追いやられてしまったではないか。そうなのだ。恥じらいもなく言おう。私はただ、ただ、あの女を陵辱したい。

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 136

2009年06月17日 | 連続物語
 欲望である。生きているときと同じ、いや生きているとき以上に激烈な肉欲である。そいつに思考を支配された。熱にうなされるようなものだ。理性が効かない。可能と不可能の区別がつかない。だがそのことを口に出して奴に伝えるわけにはいかない。欲望は口に出せば弱味となろう。これ以上奴に嘲笑われたくない。だが嫌らしさの権化であるこの奇形物は、何も聞かずとも、私の腹を完全に見透かしていた。
 「触りたいのか。あの女に」
 「無理なのか」
 「形のあるものしか、形に触ることはできぬ」
 「つまり無理なのか」
 「無理とは言っておらん」
 「できるのか」
 天蓋を震わす大音量で、鬼は哄笑した。鬼が声を出して笑うことを初めて知った。弄ばれたのだ、結局、私は。生き血の通う顔であったら、真っ赤に染まっていたろう。
 乾坤一擲。私は大気を蹴って急降下し始めた。地上へ。幻影ではなく健全なる生命うごめく地上へ。鬼もどきに構っている暇なぞない。もう我慢ならない。志穂のところに行こう。そして彼女に手をかけるのだ。彼女に手をかける!・・・構わない。自ら試み、自ら限界を知ればよい。
 雲海を突き破り、ぐんぐん下界が近づいてきたと思ったら、背後から鬼が顔を出した。ご丁寧に、私を追って落下してきたのである。しかも鬼の方が速い。

(つづく)
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