た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

登山未満

2018年09月03日 | 断片

 長い山道であった。下手の斜面にはシダが生い茂り、もし滑落したら餌食として食べてくれる動物には事欠きそうになかった。上手の斜面を見上げれば、情念の塊みたいに根を張り枝を伸ばした落葉樹が今にも覆い被さらんとしていた。山道というよりははるかにけもの道というにふさわしい道であった。

 男は二人とも、首も背中もぐっしょりと汗で濡れていた。 

 「おい山頂はまだか」

 後方の男が膝に手を当てて登りながらつぶやく。

 「この調子だと、山頂に着いても、この調子かもな」

 前方の男は帽子を団扇代わりに仰ぎながら答えにならない答えを返す。        

 「おい、そりゃどういうこった」 

 「景色が開けているとは限らん、というこったよ」

 「なんだよ、おい、それじゃ登る意味ないじゃないか」

 「登ってみないとわからんだろう」

 「おい勘弁してくれよ」

 「ぶつぶつ言わずに登りなさいよ」

 「暑いんだよ」

 「暑い。確かに暑いなあ」

 二人のゼイゼイと息を切らす音がしばらく続いた。

 「でもなあ、おい、登ったところで、景色が見えないんじゃどうなんだ」と後方がまたぼやく。

 「だから、登ってみないとわからんって」と前方。

 後方はついに足を止めた。顔をタオルでくしゃくしゃに拭き、天を仰ぐ。「わからんのは勘弁だ」

 前方も立ち止まってペットボトルの水を口に含む。「お前さんは何かい、登ったら何が見えるか、知っているところに登りたいのかね」

 「ああそうだね」

 「そりゃ山登りじゃないよ、俺に言わせれば。わからない結果を求めるのが冒険、ってなもんだろう」

 そう言う彼も随分荒い息を吐いている。

 「ちぇっ、自分の下調べ不足を棚に上げやがって」

 「じゃあここで引き返すかい」

 「引き返すって、おい、ここまで登ってきた苦労をどうしてくれるんだい」

 「いや、引き返す方が利口かも知れん。と言うのも、こりゃほんとに先が見えん」

 「なんだ、お前も引き返したいのか」                                

 「さっき、山頂まで0.5キロって看板があったが、あれから五百メートルは歩いたはずだけど、ほら、また0.5キロの標識だ」

 「どれ。おいほんとだ」

 「こりゃひょっとして、魔の山かも知れんな」

 「魔の山だ。引き返そう、引き返そう」

 「うん、引き返そう」

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

告発

2018年08月23日 | 断片

 暑い夏であった。

 建物の壁という壁、アスファルトというアスファルトに、強力な日差しがくっきりと火傷の跡を残しそうな暑さであった。人々は最初は我慢強く、暑さが果てしなく続くにつれ、次第に投げやりになった。日々交差点で信号待ちをする市民は、ここで倒れこむのはみっともないという、ただそれだけの理由で辛うじて立っている、といった体であった。

 私の職場の近くに、老人が一人で住んでいた。身寄りがないのか、相当の歳なのにほとんど人の出入りがない。室内着そのままの格好につばの狭い麦わら帽子を被り、杖を突きながら、よろよろと買い物に行く姿をよく見かけた。たまにデイサービスの車が来ると、元気のいい女性の声に負けじと、威勢よく受け答えする彼の声が聞こえてくることもあった。が、普段は非常に無口な老人であった。何度か路上で生きあったが、なぜか私の挨拶にも会釈にも、一度たりとも返しをしてくれたことがなかった。私を嫌っているのかも知れない。あるいはただ、性格が偏屈で、誰に対しても似たような態度なのかも知れない。とすれば、デイサービスの女性にだけは心を許しているということか。

 盆を過ぎても暑さの続く交差点で、彼とばったり出会った。彼は杖を突いた方がいいのか突かない方がいいのかわからないほどよろよろした足取りで、近所の商店に向かっていた。食料品を買い込みに行くのだ。私は彼のおぼつかない足取りが心配なのと、そろそろ挨拶を交わしてくれてもよいのではないか、という期待とで、なるべく気取りない風を装い、額の汗を拭いながら、「こんにちは、暑いですね!」と声をかけた。

 老人はびっくりしたように動きを止めた。まるで異生物でも見るように私にひたと視線を注いだ。小さい目をぎらりと見開き、頬をぶるぶると震わせながら、老人は私を凝視した。それから、重い唇を動かして、彼は確かにこうつぶやいた。

 「お前らのせいだ」

 瞬時に私の中で、暑さも、行き交う車の騒音も消えた。町全体が歪んだようにすら思えた。打ちひしがれて佇む私の脇を、老人は杖を突きながらよろよろと通り過ぎていった。何をどう解釈していいか、私にはさっぱりわからなかった。それでもずっとそうしているわけにもいかず、呆然とした顔つきのまま、私は肩を落としてとぼとぼと職場に戻った。

 彼は気が狂っていたのかも知れない。完全にではなくとも、半分がたそうなのかも知れない。今年の暑さが祟ったか。痴呆の可能性もある。普段から誰に対しても、何を言われても、同じような台詞を返していると考えてもおかしくない。

 しかし、と思う。しかし、もし彼が完全に正気だったら? まったく正常な思考を働かせて、彼があの台詞を吐いたのだとしたら?

 だとすれば、どうなのか。私は汗の伝う頬を緩め、苦笑した。苦笑するのも辛いほどの暑さと気怠さだったが、それでも無理やり苦笑した。そうだ。この暑さは、確かに「我々」のせいなのだ。彼はまったく正鵠を得た発言をしただけなのだ。

 窓を閉めきり、エアコンをかけて涼しそうに運転するスポーツカーが、ひときわ高くエンジン音を唸らせ、私の横を通り過ぎた。

 今年は蝉も鳴かない、とふと気づいた。

 影がどこにもないような街であった。車ばかりが行き交っていた。はるか頭上で太陽が高笑いしている気がしたが、それはもちろん、私の気のせいであった。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

習作(部分③)

2018年08月12日 | 断片

 長い夕方であった。街は永遠の記念碑か何かのようにくっきりと夕焼け色に染められた。

 黒づくめの男が駅前に現れた。手に牛皮の茶色いバッグを下げている。バッグの中にはぴかぴかするタガーナイフが入っている。夕焼けもそのことは知らない。男はこれから、誰彼ともなくタガーナイフで切りつけて、それから自分も死のうと思っている。真っ赤な血が歩道に点々と飛び散ることだろう。それは夕焼けよりもっとずっと赤く美しいことだろう、と思っている。

 男は青白く頬がげっそりと痩せている。その点を除けば、実のところまずまずの美男子である。眉は凛々しく、鼻筋が通って顔全体に精悍な印象を与えている。だがその整った顔立ちという事実がかえって彼自身を追い詰めてきたのだ。幼い頃から周りにちやほやされた彼は、自分の将来を過分に期待した。期待する割に努力を怠った。これだけ周りからちやほやされるのだから何とかなるだろうと思ったのである。現実はしかし、散々であった。彼はまず親に嫌われた。もちろん親は彼を愛したが、疎ましくも思ったのである。寄ってくる友人たちも、彼の性格を知ると、一人二人と去っていった。最後には女の子たちにも敬遠された。何しろ彼は相手を見下した言い回ししかできなかったのである。互いに笑い、ふざけ合うような場面でも、相手に少しずつ不快の種を植えてつけていることに、彼自身が気づいてなかった。心地よい言葉の遣り取りができなかった。それは、彼のせいだけではない。幼少期に真っ直ぐな愛情を注ぐよりもお金やゲーム機を与え、甘やかしを愛情と誤解して育てた彼の両親の責任もある。

 彼の人生の歯車は段々と狂い始めた。大学を中退してもしばらくはコンビニバイトを続けていたが、人間関係が嫌になり、二年前に辞めた。半年ほど実家に住んでいたが、実家もうんざりして東京に飛び出し、再びコンビニバイトを始めた。その後は引っ越し業や居酒屋などのバイトを転々としていたが、どれも長く続かず、二か月前からアパートに引き籠るようになった。

 貯金は尽き、予定はなく、そんなときに誰も彼を救ってくれなかった。優しい言葉一つかけてくれる人がなかった。ひどい世の中だと思った。自分が周りに優しくしてこなかったせいだとは、思いもしなかった。自分の人生も世の中も、全部いっぺんに終わればいいと思っていた。

 駅前の公園に行く。バッグからタガーナイフを取り出し、通行人をめった刺しにする。それから自分も死ぬ。十日ほど前からそう決めていた。

 よく晴れた七月の金曜日であった。駅前は大勢の人で溢れていた。

 彼は駅ビルの公衆トイレに入った。便器の前に立ったが、尿は出てこなかった。手を洗い、顔も洗った。洗面台の前の鏡に映る自分をじっと見つめた。

 無差別殺人というものについては、最近のニュースで流行りのようにちょくちょく目にしていた。そういうやり方もあるのだと知った。そういう終わらせ方もある。腐った人生の最期に、とびきり腐った行為をするわけだ。世間をあっと言わせてから死ぬのも、悪くない。

 彼はトイレから出た。口笛でも吹くようにいかにも平然とした面持ちで行き交う人々を見回した。皮のバッグを肩の後ろまで持ち上げ、彼はゆっくりと歩んだ。

 時計台の下から、それを始めることを決めていた。

 

 

 里美は急いでいた。急ぐ必要はなかったのに、急いでいた。嬉しくて仕様がないから自然と歩が早まるのだ。行き交うすべての人々に挨拶をしたいくらいだった! こんな美しい夕焼けを浴びている、というだけでも自分は幸せだと感じられた。ましてや自分は今、恋をしている!

 簡易郵便局の前で手押し車に腕を凭れてたたずむ老婆が、里美を見て思わず微笑んだ。

 里美は手足の細いきゃしゃな女性だった。派手なところはないが、彼女を見る者を不思議と安心させる可愛らしさがあった。白いスカートと淡い色のブラウスが良く似合った。信号に間に合おうと小走りになると、揃えた黒髪がぼんぼんのように楽しげに揺らいだ。

 彼女は駅を目指した。

 一週間ほど前。大学一年生の彼女はボランティアサークルの二つ上の先輩に告白された。彼女の憧れの人だった。拒む理由は何もなかった。ただ、あまりに性急にことを進めようとする相手に、純真な彼女は動揺した。数日間は悩んだ。昨日、彼女のアパートで初めて二人で朝を迎えた。彼女の中で吹っ切れるものがあった。これで良かったのだと思った。ほんのわずか、これで良かったのかといぶかしがる自分がいたが、しかし彼女はほとんど心から、現実を受け入れた。そろそろ自分も幸せになっていい頃だと思っていた。六歳のとき印刷業を営んでいた父親が事業に失敗した。父親は母親と自分と四歳年下の妹を連れて、二部屋ほどの小さなアパートに引っ越した。日の当たらない、黴臭いアパートだった。父親と母親はよくいさかいをするようになった。しばらく父親が帰ってこないこともあった。その頃から、彼女は心から幸せを感じるということがなくなった。家計を助けるため、高卒で看護師として働き始めた。職場での人間関係に苦労しながら看護の仕事を続けていたが、大学で学ぶ夢を捨てがたく、養護教諭を目指す看護師に認められた一年限りの大学編入制度を利用し、大学に入学した。入学してすぐに入ったサークルで、ほとんど初めての恋を経験した。

 横断歩道の信号が赤なので、彼女は立ち止った。

 これから、女友達と駅前のバーガーショップの前で落ち合い、食事をする予定である。恋人は、夜八時まで塾講師のアルバイトが入っているが、そのあとまた会う約束をしている。彼にまた強く抱きしめられるのだ。熱い口づけも。だがその時刻までは、親友とファミリーレストランでとことん語り合おう。こんなに自分は幸せでいいのだろうかと、ふと彼女は不安になった。今まで苦労した分、少しくらいはいい思いをしても許されるだろうけど、それにしてもあまりそれが過ぎると、後でつけが回って来るような怖い気がした。

 信号が青に変わり、彼女は再び歩き出した。歩き出すと、恋人のいる幸せと間もなく友だちに会える喜びが再び押し寄せ、悩みなどどこかに消し飛んでしまった。

 日は駅ビルにかかり、夕焼けの色が深みを増した。

 涼しい風が吹いた。

 横断歩道を渡り終えるころ、彼女はようやく、時計台の方が何やら騒々しいのに気づいた。

 

 

 井口老人は不思議な光景を眺めていた。

 まるでゆったりとした舞踊を見ているようでもあったし、同時に、地震でも起きたかのような一瞬の出来事でもあった。夢を見ているようでもあり、質の悪い冗談をされているようでもあったが、まさにこれこそが現実であり自分の運命だったのだと思う自分がいた。真っ赤な血に染まったナイフを振りかざした男が、恐怖に引き攣った表情で自分に迫ってきていた。遠くで耳をつんざくような悲鳴が上がっていた。誰かがすでにやられたのだ。だがナイフを振りかざした男は今、明らかに自分を狙っていた。老人はそのことを良く理解していた。同時に全く理解できなかった。なぜそんなに恐怖に顔を歪めながら人を殺さなければならないのか、この見知らぬ男に何があったのか、尋ねてみたい気も起きたが、自分の腕が掴まれ、鮮血を散らすナイフが目の前で高く振り上げられたとき、ああ、この男はわしを本気で殺すのだ、と思った。すでに何人かを刺し殺し、今まさにわしも刺し殺そうとしているのだ。逃げなければ。だが足はどうしたことかびくとも動かない。本気でわしを殺すのか。本気で殺したいなら構わんが、どうしてお前はそんなに大馬鹿なのだ。ただただ人を殺すなど─────

 「やめて!」と鋭い女の声が聞こえ、横から自分に覆い被さってきたものに、老人は視界を遮られた。どん、と激しい衝撃が女の背中から老人に伝わった。刺されたのだ。この人が自分を助けようとして身代わりになり、刺されたのだ。女からナイフを引き抜く男の顔が、喜悦に歪んでいるのが、女の肩越しに見えた。

 「おおお」

 老人は呻いた。

 「おおおおお」

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

早朝の名古屋駅にて

2018年07月18日 | 断片

 夜行バスはさすがに寝苦しく、寝たのか寝てないのか判然としない頭で、私はぼんやりと駅構内にある喫茶店の一隅に腰かけていた。昨日、博多で知人の結婚式の披露宴と二次会を終え、その足で夜行バスに乗りこみ、十一時間かけて名古屋に着いたところだ。これから特急に乗り換えて松本まで戻り、帰れば早速本日の仕事に取り掛からなければならない。スケジュールがハードというほどでもないが、非日常から無理やり、ひと息つく間もなく日常に連れ戻されるという感はある。

 結婚式というのは、それがどんなものであれ、何かしら教訓的である。式場を後にする出席者各々にじっくりと考えさせるものがある。結婚とは何か。自分の結婚とは何だったのか。などなど。私自身は己の色褪せた日常のことを考えながら、駅のコンコースを行き交う人ごみを、見るともなしに眺めていた。珈琲はとっくに飲み終えていたが、電車までまだ時間があった。

 色褪せた日常、か。たしか誰かの歌にあった言葉だ。言い得て妙だ。と、この歳になってつくづく思う。

 テーブルに両肘を突き、背中を丸める。

 華やかさとは何か。何をすれば人はそれなりに華やかな人生を送れるのか。結婚式然り、華やかな式典の大部分は、虚飾である。しかし虚飾すら纏(まと)えない日々は、干からびた蛙の死骸のように虚しい。

 私はからっぽのマグカップを傾けた。先ほどからもう何度かそんなことを繰り返している。多少心がざわつき始めたのかも知れない。

 心を落ち着かせるため、私は深呼吸をして、窓ガラスの向こうに視線を戻した。

 通勤するサラリーマン。通学する女子高生。お互い手をひき合うようにして歩く二人の老婆。また女子高生。女子高生。サラリーマンの集団。リュックを背負いきょろきょろしながら歩く青年。パンパンに膨らんだ買い物袋を三つくらい手にした女。

 だんだん彼らの顔からピントが外れて行き、誰もがぼんやりとした輪郭になった。輪郭だけになってもなお、彼らは行き来し続けた。たくさん通るときもあれば、空(す)くときもある。一列に並んで行進しているように見えるときもある。

 ふつふつと、愉快な気分が湧いてきた。

 店内を流れる軽めのジャズに、まるで、窓ガラスの向こうを行き交う彼らが歩調を合せているような錯覚が、私を襲った。行ったり、来たり。大勢行ったり。数名来たり。俯いたり、前を向いたり、ほんのいっとき立ち止まったり。床は白いタイル張りである。しかしその白いタイルに人知れず鍵盤が隠されているのだ。その鍵盤の上を彼らが行き交うことで、一つの軽快な音楽を奏でているのだ。

 なんだ、と私は思った。みんな、揃ってそんなことをしてたんだ。私は笑いたくなる衝動をこらえた。そうか。そういうことか。一人一人は自覚していないけど、ここは、そういう場所だったんだ。

 鍵盤の上を、人々が行き交う。それぞれのリズムと音階で。一見ばらばらなようだけど、それらが複雑に交差し合い、調和をもたらし、止むことのない音楽となる。

 それが日常なのだ。

 私は立ち上がった。マグカップを返却口に戻し、トランクを引いて店の外に出た。そろそろ電車の入ってくる時刻である。睡眠不足で朦朧としている自分がわかる。だからこそ変なことも思いつくのだろう。しかし案外意識は明晰だ。いずれにせよ、戻らなければならない。私が戻りたいと思っている場所へ。脚は少々重くとも、歩けないほどじゃない。いつだって、人は自分の意志で歩くのだ。

 さあ、私もあの上を、歩いていこう。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

習作(部分②)

2018年07月13日 | 断片

 「何でこんなことをした」

 低いだみ声が、取調室の隅々までを揺さぶった。「答えろ。何でこんなことをした」

 俊希は俯いて歯を食いしばり、何一つ答えずにいようと何度目かの決意をした。取り調べは八時間にわたり続いていた。頭は朦朧として一つの事をまともに考えられなくなっていた。ひどく疲れを感じ、じっと座っているだけでも体中が軋んだ。何一つ答えずにいようと決意したばかりなのに、むしろ立て板に水のごとくまくし立ててこいつら無能な捜査官たちををけむに巻いてやろうかという気がむらむらと起きてきた。とにかく、彼は無性に腹が立って仕方なかった。

 「喉が渇きました」

 「何?」

 「喉が渇きました」

 「そうか。喉が渇いたか。喉が渇いたろうな。おい、水を持ってきてやれ」

 紙コップに水がさざ波を立てて運ばれてきた。

 捜査官は、もたらされた水入りの紙コップを自分の側に置かせた。微笑みをわざと強張らせたような表情をして、彼は口を開いた。

 「水を飲みたいだろう。そうだよな。俺も喉が渇いたよ。お互い疲れたよな、何時間もこんなことやってちゃ。なあ、何で今回のようなことをしようとしたか言ってくれれば、休憩にして、お互い喉を潤そうじゃないか」

 「そういう・・・暴力は許されているんですか」

 「暴力? 何が暴力だ」

 「水を飲ませないのも立派な暴力じゃないですか。拷問ですよ。日本の法律じゃ、拷問は禁止されているんじゃないですか」

 机を叩き割りそうな勢いで、捜査官の拳が振り下ろされた。俊希はびくっと身震いした。

 「ふざけるな。お前は九人に切りつけてそのうち三人を殺してるんだよ。三人殺したんだぞ。お前とは何のかかわりもないし、お前に恨まれる筋なんていっこもない人たちばかりだ。みんなお前に刺されたときにゃ、喉の渇きなんてもんじゃあない、とんでもない苦しみにもがき苦しんだろうよ。喉が渇いただと? ふざけるな。自分がタガーナイフで刺されたらどれだけ苦しいか想像してみろ。え? 想像してみろよ。それとも何か。お前はお前に刺された人たちが苦しむなんてことを想像してなかったのか?」

 俊希はひどく青ざめたが、努めて無感動に答えた。「想像してました」

 「じゃあ何でこんなことやったんだ。言え。言ってみろ。人が苦しむさまを見たかったのか」

 「苦しみなんて主観的なものだ」

 「なんだと?」

 捜査官は思わず立ち上がった。俊希自身、自分の発した言葉があまりに冷淡なことに驚いていた。部屋の隅にいた記録係の捜査官も手を止めて彼らを見つめた。狭い取り調べ室に汗の出るような緊張が走った。

 「苦しみなんて主観的なもんでしょう。誰がどれだけ苦しんだか、どうしてあなたにわかるんですか」

 唇が震えるのを自覚しながら、俊希は精一杯嘲るように言ってのけた。

 捜査官が彼の襟首をつかんだ。鋼鉄で出来た様な固い拳だった。

 「俺がお前に教えてやろうか。どれだけの苦しみかってことを」

 ぼくだって、苦しんできたんだ、と、喉元まで言葉が出かかったが、呑み込んだ。自分を主語にして語り始めると、涙が出るかも知れないと、彼は思った。それはまずい。

 「やっぱり暴力だ」

 「何?」

 「暴力だ。これは暴力でしょう。裁判で訴えますよ」

 襟を掴む拳が緩んだ。その手が紙コップを激しく払い、紙コップは壁に当たって変形し、水が壁を滴り落ちた。

 捜査官は椅子の音を立てて背を向け、取調室を出て行った。出て行きざま、低いだみ声で捨て台詞を残した。

 「九人の人生分苦しめ」

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雑感

2018年07月09日 | 断片

 犬は散歩に連れて行ってもらえるとわかるたびに、これ以上ないほど喜びはしゃぐ。昨日の散歩だって大したものではなかったし、一昨日だってそうだ。そして明日だって、どうせ昨日や今日と同じように散歩に連れて行ってもらえるのだ。何もそんなに喜びはしゃがなくてもいいだろうと人間である私は思ってしまう。

 だがもし人間も、こんな風に毎日の決まりきった行いに喜びを感じられたら。そうなったら、どうだろう。ひょっとして、百年も生きようと思わなくても済むのかも知れない。

 人間には記憶力がある。ちょっとした批判能力もある。それが人間を退屈させているのでなければいいが。

 犬が立ち止まるので振り返ったら、北アルプスが雲の上にそびえていた。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

習作(部分①)

2018年07月03日 | 断片

 拘置所の窓は小さい。おまけに錆びついた鉄格子が幅を利かせているから、そこから入る光はほとんど用をなさない。ただ、まだわずかでもこの世と繋がっていることに気付かされる。繋がっていてもどうせ戻れない「娑婆」なのだから、むしろそんな思わせぶりな繋がり方など無い方がましである。まったく窓のない独居房であれば、潔く人間を辞めてモグラにでもなろうものだ。

 自分は人を殺したのだから、何にならされても文句は言えない。できれば、市中引き回しの上磔のような最期を遂げたい。ここは、あまりにも考え事をする時間が多い。

 部屋の隅を見遣ると、漆喰がその凹凸に汚れを溜めて、抽象絵画のように見えてくる。もっとじっと見つめていると、やがて人間の顔に見えてくる。どれもこれも怒っている。自分が手を下した人たちの顔かも知れない。実際どんな顔だったか、よく覚えていない。

 自分は手際よく次々と人を殺めたから、逆にこうしてじっくりと時間をかけてなぶり殺されるのだ。こうなることは罪を犯す前から覚悟の上だった。これが社会という名を背負った連中のやり口だからだ。ろくでもない奴らだ。窓が小さすぎて、あんまり息ができない。壁と壁に囲まれていると、胸が押しつぶされそうになる。どうせ死刑なら、市中引き回しの上磔のように、賑やかにやって欲しい。

 自分はすでに、存在を奪われた。命を奪われるには、あともう少し時間がかかるらしい。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シデコブシ

2018年03月29日 | 断片

 庭のシデコブシが花をつけた。

 大きな花弁が掌で優しく揉みしだかれたようによじれ、白地にうっすらと紅の入った色合いを見せる。可憐ではかない美しさがある。例年はたいていの蕾を鳥に食べられていたが、今年はどうしたことか鳥の害を免れたらしい。義母が喜んで切り花にして、家の中をシデコブシだらけにした。ただでさえはかない存在をわざわざ手で切り取るのもどうかと内心思うところだが、まだ木には相当数生き残って咲いているので、何も言わずにおいた。

 シデコブシの足下では、犬が日を浴びてうたた寝をしている。花など一向に興味がない風である。

 咳が立て続けに出た。

 私も庭を見るのを止めた。 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『変温』抄

2018年02月11日 | 断片

 これは、進化なのか、それとも退化なのか。

 知ったこっちゃない。俺にわかるわけがない。何が原因で何が目的なんだか、そもそも原因も目的もあるんだかないんだか、知りようがない。正直に言わせてもらえば、知りたくもないでござんす。ただ、ただ、俺は元の身体に戻りたいだけでござんす。

 とてつもなく大きな流れが、人類を今、これまでとは全く違う方向に押し流そうとしている。俺はその流れの、先端にいる。

 俺には価値がある。希少価値という価値が。それがためにこの原稿をこうして書く価値もあるわけだが。俺は、なんと、一番乗りなのだ。一等賞! 小、中、高、大学、ちょっとだけ社会人と生きてきた中で、どんな小さな分野においても、今まで一度も取ったことがない賞。どうだ、すごいだろう。けら、けら、けら! 何のことはない。俺が世界で一番最初の(これも「おそらく」という但し書き付きだが)「発症者」、というに過ぎない。だから一等賞。俺は、人類にとって、諸悪の根源的存在なのだ。あいつのせいで・・・と一生言われ続ける運命を背負った人間なのだ。あらゆる人から疎まれ、誰にも祝福されることのない第一人者。

 それでも俺には、「先駆者」として、事の成り行きを書いて残す使命がある。たぶん。だって今のところ、誰よりも長くこの難病と付き合っているわけだから。俺は言いたい放題、好き勝手気ままに書くつもりだ。ちょうど、カウンセリングの患者が言いたいことを自由に言わせてもらえるように。その方が、後世の参考になるってなもんだ。そうでしょう、世の学者さんたちよ。一見、くだらないとしか思えないしゃべくりの端々に、事の真実が隠されているやも知れんでしょうが!

 何だか、俺は興奮している。感情の起伏は以前より鈍くなった感じがするのだけど、でもひそかに、まるで冷めた激辛カレーのように、興奮している。冷たいけど、hot!・・・わかってもらえるでしょうか。人類初の存在となった喜びと、独りぼっちのみじめさが混在しているのだ。やけっぱちと不安が同居しているのだ。これは明らかに進化じゃない。明白に退化なのだ。それはわかっている。それはわかっているけど、問題は、なぜこんなことが起きたかってことなのだ。

 それは今年の初め、一月七日の朝だった。

 俺は変温動物になっていた。

 いやいや、これじゃ説明にならんぞなもし。もっとくわしく。どうでもいいことまで赤裸々に。

 それは───ありていに言えば───ひどく孤独な正月の終わりだった。独房に閉じ込められた無期懲役囚のように、俺は孤独だった。特別なこっちゃない。独りで生きてきた人生の、他人と接触のない日常の延長線上にある、祝う相手のいない年末年始。ゴキブリとNHKの集金員以外誰も訪ねてこないアパートの六畳一間で、脚のぐらついた電気炬燵に首まで潜り込んで迎える新年だ。こういうすさんだ暮らしを何年前から続けているのか、数えたくないから数えてないが、大学を出た年に直子と別れて以来だから、もう相当の歳月になる。直子。直子。直子。直子。直子のことはよく考える。それが発病の原因か?

 その朝、炬燵が熱くて俺は目覚めた。太陽を抱き枕にしたみたいに熱い。ひどい寝汗だ。頭ががんがんする。俺は毎朝起きたら洟をかむ習慣があるが、このときは体中の穴という穴から液体が漏れ出ている感じで、ティッシュどころの騒ぎじゃなかった。それでも俺は、ティッシュを探して片肘を突いた。まだこの段階では、熱さの原因は、昨日の晩にコンビニで買って一人で飲んだ安物の白ワインのせいか何かだと思っていた。

 いや、それにしても熱過ぎる。

 たまらず俺は炬燵を飛び出した。その光景は見ものだったと思う。体中に熱湯を浴びせられたかのように小躍りしていたはずだ。フライパンのソーセージ状態。まあね。俺という人間は、昔から落ち着きがないと言われ続けてきた。親に言われ、教師に言われ、直子にまで言われた。がしかし、これほどまでに落ち着きがないというか、慌てふためいたのは生まれて初めてだろう。こりゃ炬燵の温度設定が間違っていたかと、炬燵布団をまくり上げてみたら、目盛りはちゃんと「低」を示している。おかしい。インフルエンザで四十度の高熱を出した時以上の体の火照りようだ。しかも体中が、何というか、酢漬けにされたような変な感覚なのだ。鈍いが、刺激的なのだ。このまま死んでしまうのか? と本気で思った。とにかく異常だった。足がよろめき、畳に落ちていた読みかけのエロ雑誌を踏んづけた。途端にひどく汚いものを踏んだ気がして足を引っ込めた。こんなどうでもいいことまで書くのも、エロ雑誌に対してそこまでの不潔感を抱いたのは、それが初めてだったからだ。いやもちろん小中学生の頃の、まだ初々しい、潔癖症的時代にはそんなこともあったや知らん。しかし歯ブラシを買い替えるようにビニ本を買い替える習慣が身につく年頃になると、すぐにそれらは何でもない日常必需品になり下がってしまった。当たり前に転がる猥雑。無感動な自慰。バーチャルな快楽に走るから、現実の女の子と出会えないのかと、ときどきは反省もしてみたが、とは言っても先の傷んだ歯ブラシは買い替えなければならない。読み飽きた雑誌も買い替えなければならない。終いには、ヘアヌードの見開きを敷物にしてその上でカップラーメンを啜っても何とも思わないほど、感覚は麻痺していた。それがこのとき、反射的に飛びのくほど激しい嫌悪感を覚えたのだから不思議である。立派な異変だ。自分の身体の生理的な部分が、すでに大きく変調をきたしていたってことか。

 炬燵から出て三十秒もすると、あら不思議。今度は嘘のように、体温が急降下するのを感じた。寒い。ひどく寒い。氷をぎっしり敷き詰められたタラバガニ状態である。タラバガニほど自分は高価じゃないか。そもそも部屋が寒い。駄菓子屋の霜の付いたアイスケースのように冷え込んでいる。これは前からのことだ。暖房は炬燵だけ。エアコンなし。えー、会社勤めを一年で辞めてコンビニバイトだけで自活する生活では、エアコンをあつらえるだけの余裕が無いのでございます。仕方ねえじゃねえか。不景気な世の中が悪いのだ。直子も冬に泊まりに来た時は、寒い、寒いと言っていた。もうずいぶん昔の話だ。

 直子のことはよく思い出す。エロ雑誌に眉をひそめるくらいだから、そっちの欲求が今あるわけじゃないけど、しかし直子のことは、こうなってしまった今でも、不思議と恋しいのだ。

 笑うとえくぼの出来る、目のくりくりした可愛い子だった。

 話を一月七日の朝に戻さなければ。いくら元々が寒い部屋だと言っても、ちょっと異常なほどに体が冷え切っていくのを俺は感じていた。自分の肉体が借り物の容器のようだ。明らかに感覚が違う。今度は凍死の危険性を覚えた。俺は動きまで鈍くなった手足を必死に動かして、再び炬燵の中に体を入れた。

 そこからはコメディだ。炬燵に入れば、今度はまたオーブンで焼かれるような熱さ。炬燵から飛び出すやいなや、北極に立たされた寒さ。炬燵。外。炬燵。外。そんなチャップリン顔負けのドタバタを、計十回は繰り返したろうか。もちろんやってる当人の俺は全然面白くない。半分本気で泣き出しそうです。いよいよ、俺はこのアパートの自室という、この世界で唯一最後の居場所まで奪われるのか。ずっと以前から居心地の悪い世界ではあったけど、もうどうやったって暑過ぎるか寒過ぎるしかないのか。これはひょっとして神経過敏ってことですか? 照れるなあ。俺の感覚が研ぎ澄まされていると。なるほど。繊細だと。俺ってこんなに繊細だったっけなあ。「男のくせに細かい」と直子に馬鹿にされたのは、ひょっとしてこのこと???

 ほとんど錯乱状態でへとへとになった思考を振り絞って、炬燵の上にあった携帯電話を取り上げ、俺は百十番に電話した。

 「どうしました」

 「あの、体がものすごく熱くなったり寒くなったりするんです」

 この説明はどう考えても間が抜けている。とても緊急性は伝わるまい。実際、電話の向こうも、「はあ・・・」と戸惑ったような相槌を返してきた。いたずら電話か、と心の隅で疑っていることまで透けて見えた。畜生。俺はわざと必死に聞こえるように、まあ現実に必死だったわけだが、アパートの住所を早口で告げ、とにかく死にそうだから一刻も早く来てくれ、と怒鳴って電話を切った。下手な説明をしたものだ。俺はだいたい、人に説明するのが下手くそなのだ。一年勤めた会社でもやたらドヤ顔をする上司に言われた。「お前は説明が下手なんだよ。そんなんで顧客が取れると思っているのか?」うるさい、死ね、死ね!・・・畜生、俺が死にそうなんだよ。救急隊員の野郎が、いたずら電話だと決めつけて来なかったらどうするんだよ。て言うか来ないに決まってるじゃないか、『熱くなったり寒くなったりするから来てくれ』なんて。くそっ、何だかやけっぱちな気持ちになってきた。はいはい、どうせ実害はございません。俺一人くらいがこの世からいなくなっても。むしろ有益かな。け、け、け! ひょっとして、田舎の母親くらいはおそらく多少は悲しんでくれるかもしれんが、まあその他は世界広しと言えども誰一人として困らないだろう。直子も含めて。

 俺はよろめく体を引き摺って玄関に向かった。とにかく五感がおかしい。携帯電話が手から滑り落ちた。食器棚に肘が当たり、その振動でグラスが落ちて割れたが、その音も何だかくぐもって聞こえた。俺は割れたグラスすら見向きもせずにひたすら体を動かし、玄関に出た。部屋の空気に原因があるんじゃないかという気がしたからだ。この部屋を出れば、助かるかも知れない。今日は一月七日。七草がゆの日だ。七草は言えません。ごぎょう、はこべら、ほとけのざ。すずな、すずしろ。あ、五つ言えた。とにかく新鮮な空気を吸おう。何かがおかしくなっている。外は寒いかな。寒いだろうな。この部屋より冷え込んでたらまずいぞ、という懸念も十分にあったが、もはや俺自身がこの状況に耐えられなくなっていた。ぼくちんはこらえ性がないんです。どうにも、じっと待っていることができなかった。俺はドアを開け、外界の空気を吸い込んだ。それはとてもすがすがしい、東京の空気とはとても思えないほどすがすがしく澄んだ、そして冷え切った空気だった。ああ、生き返るようだ、と頭の片隅で思いながら、俺は気を失った。

 

(途切れる)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

近日『変温』抄掲載!

2018年02月11日 | 断片

 瞬時に情報の更新されるこのインターネットの世界では、忘れられるのもまた瞬時である。一週間も更新しなければ古文書扱いをされかねない。何かと世事に多忙でまとまったものを書き上げることもままならないが、忘れられるのも嫌なので、何か載せようと思う。現在、仕事の間隙を縫って、ずっと以前に書いた『変温』という小作品をちびちびと書き直している途上である。その一部を載せようと思う。かつて読んだことがある方はごめんなさい。今のところ、あまり変わってはいないです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする