た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

極短編 橋の下 (1)

2005年07月12日 | 連続物語
 大雨が来た。橋の下で、彼はいよいよ空腹に苦しんだ。
 彼は一冊の小さな単行本を手にしていた。風前の灯火である命を暖めるものはもはやそれしかないかのように、両手でその本を胸に押し当てた。彼はもう三日間もろくなものを食べていない。屋根の下で寝なくなって三日目。雨の飛沫は容赦なく、体臭のきつい彼の服にも、度の強い眼鏡にも、やせこけた頬にも、胸元に抱きしめられた薄汚れた単行本にも飛び散った。彼は水洟を垂らした。それを震える手の甲で拭った。
 彼は死にたがっていた。どうせ死ぬのだから。生きていく希望はこの雨のように叩き落された! しかし彼が手っ取り早く寿命を縮める手段は、雨宿りしているこの橋の下にはなかった。目の前の河川は嘔吐物のように灰色に濁って増水していたが、そこに飛び込み泥水を飲み込んで死ぬことは、元来繊細な彼にはとても耐えられなかった。
 
 きれいな生き方というのはそうざらにないが、きれいな死に方はそれを選ぶことができる。
 
 何かの動く気配を感じ、彼は頭を巡らせた。セメントの柱を這っている虫。艶やかな背中。雨に濡れたゴキブリである。彼はひどく身震いした。

 どうせ自殺なんてできない。結局何とか生きようとするに決まっている。死にっこないのだ。そんなきれいな勇気は自分にはない───自分は、醜いほどに弱い。

 どこで落ちたものか、黄ばんだ発泡スチロールが濁流に翻弄され押し流されてきた。彼は度の強い眼鏡越しに、それを自分であるかのように凝視した。

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極短編 橋の下 (2)

2005年07月12日 | 連続物語
 彼は新任の国語教師だった。半年前まで。
教師になりたての頃、彼は理想に燃えていた。白墨のひんやりした、硬質と脆さを併せ持った触感が彼は好きだった。しかしもちろん相手は白墨ではなく、受け持ちのクラスである中学一年生34名である。34名。忘れたい、忘れ難い名前の数。安楽椅子のように体を沈める子。机の下で漫画をめくるのに忙しい子。机を叩く子。机を蹴る子。
 クラスは五月に崩壊した。砂の城が必ず崩壊するように、彼の教室の秩序は崩れ去った。彼は朝起きても通勤できない日が続いた。職員会議。PTA。子どもたちと大人たち、すべての周りの人々の、憐れみさえも含んだ、彼を非常に低く値踏みする視線。 
 彼は入院し、退院し、学校を辞め、無職になった。

 シンプル。何とシンプルなことか。入院、退院、辞職、無職。

は! はは!───彼は激しく咳き込んだ。彼は五月に入院して以来、喉の痛みが退いていない。

 理想の教育。
 ワタシハ理想ノ教育ヲ目指シタ。
 そして今は雨を避ける住処さえ逃げ出してきた。
 理想の───母に頼るわけにはいかない───せめて理想の、人生に対する、責任の取り方。
 
 彼は豪雨を見つめた。狭い川の向こう岸すらぼやけて見えた。土手の上の街は完全に彼から姿を消した。雨と川のうなる中、彼だけが立っていた。
 薄い本をいっそう強く胸に押し当て、彼は三歩前に出た。
 彼は全身を雨に打たれた。

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極短編 橋の下 (3)

2005年07月12日 | 連続物語
 息もできないほどの太い雨脚。寒気。すぐ近くに感じる増水した川の轟き。彼は朗読するときのように本を両手に持って掲げた。

 (朗読は彼の理想教育の一環だった。彼はクラスのホームルームの時間にそれを実施した。名作を読んで聞かせれば、子どもたちでも必ず共鳴し、ひいては彼らの情操教育につながる。それが彼の信念であった。34名との最後の駆け引きだった。毎日約五分間の朗読は、彼らの野次と、欠伸と、全く関係のない私語による下卑た笑いを教室に蔓延させただけに終わった。それでも彼は、たとえ34名が誰一人聞いてなくても、最後の勤務日まで、つまり入院する前日まで朗読を続けた。教室で取り上げた題材は、『山月記』。次に『幸福の王子』。三つ目の『人にはどれだけの土地が必要か』は未完に終わった。)

 今彼が手にしている本は、そのいずれでもない。
 「この世に英雄精神は」
 彼は土砂降りの中、掠れる声を上げた。
 「この世に英雄精神はただ一つしかない。それは、この世をあるがままに眺め──そしてそれを愛することである」
 しばしの沈黙。
 「『私を苦しませるものほど私を喜ばす』。『私の喜び、それは憂愁である』」
 「彼の天才はみずからを裏切る魂と結びついていた」
 さらにしばしの沈黙。 
 「『なんと私は不幸なことか。なんと不幸なことか。すべての私の過去のうち、一日として私のものであった日がないとは』」
 
 水かさを増した濁流が堤防のあちこちから水を滲み出させるように、彼の口からはとつとつと言葉のかけらがつづり出てきた。開いた本の活字を追っているわけではない。何も見えはしない。 彼の眼鏡は曇って目隠しにしかならず、それを外したところで、叩きつける雨とへばりつく前髪に、目を開くことさえできなかった。彼はこれらのくだりをすべて暗唱していたのだ。目には見えなくても、彼の心には、何度もめくったページと追憶の苦い日々が鮮やかによみがえっていたはずである。そしてその本の主人公であるミケランジェロ───それはまさにロマン・ロラン著『ミケランジェロの生涯』であった───の、天才でありながらその才能の発揮を妨げた数々の不運と、自身の精神的弱さと、彼を理解しない周囲の人々とに翻弄された人生を、深い共感をもって思い描いていたにちがいない。
 
 「『ああ。ああ。私は過ぎた月日に裏切られた。・・・私は待つことがあまりにも長すぎた』」
 「『あまりにも待つことが長すぎた私に禍あれ。自分の望んだことに到り着くことが遅すぎた私に禍あれ』」
 長い沈黙。
 「今や死は彼にとって生活でのただ一つの幸福のように思われた」
 「『もう時の移り変わらぬ魂は幸いであることよ』」

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極短編 橋の下 (4)

2005年07月12日 | 連続物語
 不意に、本から白いものが落ちた。手紙である。彼は慌てて身を屈めて拾い上げたが、そのとき代わりに眼鏡が落ちた。手紙はすでに濡れそぼちていた。眼鏡の方は拾いもせず、彼は震える手で便箋を広げた。ボールペンで濃く書かれた柔らかい筆跡───それは彼の母親の手になる手紙であった。三日前に届いたその手紙を、アパートを飛び出す寸前栞代わりに本に挟んで持ち出したことを、今の彼はすっかり忘れていたのだ。
 その手紙の文面は暗唱できるほど覚えていたわけではない。車軸を流す大雨の中、彼は目を極端に便箋に近づけて再読しなければならなかった。
 便箋は叩きつける雨粒で破れんばかりに形を崩した。目を開けるのも一苦労であった。その上彼はひどい近視であった。それでも彼は必死に読んだ。


 「何シテいますか。
 昨日 アパートの大家さんから電話ありびっくりしました。二週間も部屋ひきこもりキリッのこと。
 いけません。絶対いけません。そんな健康に悪い体に悪い事すぐにお止なさい。
 大家さん ずいぶん心配しとられました。家賃ノたい納でこまってられる。でもあの人はそんな事よりお前ノ体を気づかってくださいます。
 お前いつから、他人様に心配かける子になったんですか? いつから他人様に迷惑かける子になったんですか?
 すぐ帰ってきなさい。すぐ帰ってくる事。すぐ帰ってきなさい。こちらは大丈夫です。こちらは新しいパート先は前とちがってしっかりした会社です。そうヤスヤスつぶれたりしません。未払もないです。お前を養うくらいナンでもありません。
 すぐ帰ってきなさい。帰ってこないなど言わないでください。ガンコ 言わないでください。お前はつまらないところガンコです。前ノ前ノ電話覚えてますか?絶対もどらないと言張って、お母さん とてもとても悲しかったですよ。
 お前はお母さんに迷惑かけないようにしようと、シテ、ギャクにお母さんを不幸な思いさせています。その事わかってますか? 
 
 浩や、 お前は先生向かなかったネ。本当にすまない事シタと思っています。ゆるしとくれ。死ンダお父さんが先生だったから、お前も先生にふさわしい と思ってました。私がムリにすすめた、のがよく無かったのだよ。ゆるしとくれ。帰ってきとくれ。
 私はお前ノそだて方まちがいました。お前がいけないところは ぜんぶお母さんノ責任です。お前は まちがっておりません。お前は世わたりベタですが、お母さんノ責任です。お前は まちがっておりません。すぐ帰っとくれ。

 ゴハンをしっかりたべて、どうかバカなまねは止なさい」


 彼は手紙を元のように折りたたんで本に挟んだ。すでにそうするのも難しいくらい雨水を含んでいたが、彼は眉間に深い皺を刻みながら震える手先を睨んで、丁寧にそれをし終えた。それから地面に膝をつき、倒れこんだ。
 橋の下、雨脚をはじく灰色の川のほとりで、本を胸に押し当てたまま、彼は泥まみれになってのた打ち回った。激しい雨はその間も容赦なく彼の体を冷やした。彼の頬を次々と伝うのが、涙なのか雨粒なのか見ただけではまるで判別つかなかったが、長く尾を引く彼の呻き声がそれを知らせた。

(おわり)

出典:『ミケランジェロの生涯』ロマン・ロラン/蛯原徳夫訳 みすず書房 1958
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