た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

音のぜいたく

2005年07月25日 | essay
 片手間に駄文を書き散らす人間として、芸術というものは少しは気になる。小説は死んだと言われる。死んだのかもね。絵画は行き詰ったと言われる。最近あまり観てませんから。音楽は───音楽は? 音楽は相変わらず盛んである。二十四時間何かしらのメロディーを耳にしていたいという人は割合多い。何より私が感心するのは、一般消費者の音に対する貪欲な追求である。よりよいスピーカーで、より高音質の共鳴を。スピーカーの木箱に数十万かけることはそんなに珍しいことではない。
 映像───視覚と比べ、聴覚に対する人々の姿勢というものは、ちと厳し過ぎやしないだろうか?

 こんな話を聞いたことがある。目は、まぶたを閉じれば何も見ないですむ。鼻だって、息をしなければ何も嗅がない。しかし耳は、それ自身の努力では音をシャットアウトすることが難しく、手で覆ったり耳栓をしたりしなければ外界と遮断できない。両手でぴったりと耳を塞いでも、それでもかすかな音が漏れ伝わる。
 つまり、音は人にとって元来とても暴力的なのだ。こちらの要求いかんに関わらず一方的に感覚野に入ってくる傍若無人なやからなのだ。日常生活においてそのように防ぎがたい侵食者だからこそ、どうせ耳に入るならよい音を、と人々は願うようになった。

 だとすると、私はちょと拍子抜けである。人々が良質の音を求めるのは、音というものがそもそも悪質だからなのか! と私が一人結論付けて嘆息しては、それはさすがに早急だろうか。しかし、いい音を求めるのは、豊かな理想の探求よりも貧困な現状の回避なのだとしたら。
 そもそもいい音とは?

 ううん、よくわからなくなったから音楽でも聴こう。
コメント
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