た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

無計画な死をめぐる冒険 99

2007年06月14日 | 連続物語
 雪音は反抗した。手中の魚が突如のた打ち回るように、雪音は不意に反抗した。左腕を引き、私の手を振り解いた。のみならず驚いたことに、再び腕を掴もうとする私に向かって砂を振り掛けた。いや、いや。故意ではあるまい。転んだ拍子に握った砂が、弾みで飛んだのだろう。雪音がそんな悪意に満ちた真似をするはずがない。
 あっ、と叫んで私は目を閉じた。私のひるんだ隙に、彼女は後退った。
 「何をする」私は目を押さえて怒鳴りつけた。
 雪音自身、自分のしたことに驚いたようであった。私の報復を恐れてか、必死に震えを抑えている。しかし私がなおも近づこうと一歩踏み出した途端、彼女は決然として言い放った。
 「近づかないで」
 それははっきりと通る声であった。
 「雪音」
 「これ以上、これ以上近づいたら言うから」
 「何」
 「言うの」
 「だから何をだ」
 「全部。全部よ。今までのこと全部。私たちが犯してきた罪を全部よ。そうでしょう? そうしなきゃいけないと思うの。私、絶対そうしなきゃいけないと思うの。いつかは言わなきゃ、これ以上人を騙して生きていけない。嘘をついたまま人生を終われない。苦しいの。ものすごい罪悪感で苦しいの。もうどうしようもなく手遅れだけど、でも、でも罪を償いたいの」
 セメントを背中から注ぎ込まれたように、私の体が硬直していくのがわかった。「誰に、言うんだ」

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 100

2007年06月14日 | 連続物語
 「奥さんに。奥さんにでしょ。もちろんじゃない。他の誰に言うの? 奥さんに全部話して、頭を下げてお詫びするの。そうしないと・・・そうしないと、私たち、絶対きちんと終われない。そうでしょう? 絶対きちんと終われないわ・・・このままだと、いつかほんとに私たちに、天罰が下るわ」
 馬鹿者。私は震える両の拳を固めた。だからなぜ天罰が下らなければならない。間違ったことは、我々は何一つしていない。道に外れたことはしたかも知らん、しかし間違ったことはしていない。我々は愛し合っていたではないか。心から。感情に不誠実に生きることはできない。肉体に嘘を吐くことはできない。我々は────止むを得なかったのだ。確かに私には家庭がある。守るべき妻子もある。だから、だからこそ今、涙を呑んで軌道修正を図るところなのだ。あったことをなかったことにしなければならない。大人の手品をしなければならない。そうやって密かに、静かに別れれば、我々の誰をも損なうことなく片が付くのだ。なのに何だ、罪を償うだと? 償う! その稚拙な独善こそ過去を否定し、未来を破壊し尽くす行為ではないか!
 わたしたちは愛し合っていたの、本当に? 軌道修正なんて無理よ。無理だわ。外れたスカートのボタンはどこに行ったの? これでわかったじゃない。所詮無理なのよ。静かに別れるなんて。そんなことしちゃいけないのよ。だって、私たちの関係こそが不誠実だったんだから。私たちは愛し合っていたの? 私たちはただ、寂しさを埋めあっていただけなんでしょう? 欲望のはけ口を求め合っていただけなんでしょう? 少なくとも────少なくとも、あなたは。だから私のスカートを千切ったり、私をぶったりできるんでしょう?
 違う。私はお前を────お前は────本当に、美咲に話すつもりか。

(細々とつづく)
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無計画な死をめぐる冒険 101

2007年06月14日 | 連続物語
 海からの風が強い。日差しも強い。私はいい加減眩暈を起こしそうであった。私は下唇を噛み、心の中での雪音との対話を止めた。彼女の出した結論は、問い質さなくとも、すでに彼女の瞳に明らかであったからだ。
 この女は実行する。
 冷水を浴びた心地がした。現実には陽に横顔を焼かれて痛いほどであったが。私は立ち尽くした。瞬時の判断が求められた。世の中には、口達者な割に言ったことの半分もしない人間と、無口であるが一旦言葉にしたことは遅かれ早かれ必ずやる人間がいる。この女は後者である。この女は執念深い。泣くまで自分の意志を言わないが涙目で語る決意は実行する。私は少し前のめりになった。足が動かない。どうする。さすがに本気とは思えないが。万が一────いや、確率はもっと高い────もし十分の一にでも、彼女が本気であればどうする。
 波が近くで鳴った。
 私は彼女を睨んでいたのだろうか。とんでもない。動揺のあまりただじっと見つめていただけである。大学教授としての地位、哲学科教授としての体面、慰謝料、離婚訴訟、家庭裁判所。貨物列車が駆け抜けるように幾つもの概念が瞬いては消えていった。最後に残ったどす黒い感情を、雪音は、しかし、私の目つきに過敏に読み取った。
 砂の音がしたのは、一歩踏み出した私の足である。

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 102

2007年06月14日 | 連続物語
 びくり、と彼女の体が反応した。
 「殺すつもり?」
 「何」
 「殺すなら、確かに今ね」
 「何を言うんだ」
 「海でやれば跡が残りにくいもの」
 静脈が浮き出るほど固く、私は両の拳を握り締めた。正直なところ、立っているのもやっとであった。「何を言うんだ雪音」
 砂の女は嗚咽した。
 「お願い。殺して」
 「いい加減にしろ」
 「殺して」
 残酷に、私は雪音を見下ろした。
 殺されたいのか。
 殺したいんでしょう?
 海鳥たちが呼んでもいないのに、いつの間にやら波打ち際に勢揃いしていた。各々鳴いたり空を見上げたり好き勝手している。
 我々は互いに見詰め合ったまま、波音を三回数えた。

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 103

2007年06月14日 | 連続物語
 魔性の瞬間は過ぎ去った。
 波打ち際の海鳥たちが鳴き合いながら一斉に飛び立った。波が彼らの残した足跡を洗う。
 雪音がふと視線を巡らして、虚脱した溜め息をつく。
 「駄目ね。あの子が見てるわ」
 彼女の視線の先を、もとより私は確かめたりはしない。そこに何者が立ちすくんでいるか先刻承知なのだから。口を開けた、愚かな、浜育ちの少女。鳥共は去ったのに、まだそこに居残って我々を観察している。一体我々に何を期待しているのか? 歓迎せざるこの観客を前に、先ほどから我々はどんな芝居を演じているというのか────。
 沖合いから漁船の戻るモーター音が聞こえてきた。波打ち際の少女は、その音で我に返ったようにバケツを抱え、民家へと駆け戻っていった。
 過ぎた可能性を問うことは無意味である。もし。もしあの子がもう少し前にいなくなっていたら。私はどうしていたか。馬鹿馬鹿しい。何もするわけがない。何もできるわけがないではないか。
 片手でスカートを押さえ、片手を砂浜に突いて今にも倒れそうな上体を支えながら、雪音は寂しい微笑を私に送った。
 「言わない。言わないよ。邦広さんが言って欲しくないなら。大丈夫。私には言えないわ。でも、お願いだから私をここに残して」

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 104

2007年06月14日 | 連続物語
 二言三言の押し問答の末、私は本当に雪音を一人残して車で去った。もちろん幾ばくかの金は手渡した。東京までの旅費に加えて、本人の気が向けばあと数日それなりの宿にも泊まれるだけを。要らないと言うのを半ば強引に捻じ込んだ。それで、全てが終わった。それ以上何も仕様がないではないか、本人の方から乗車を拒否したのだから。私は一人で帰路に就いた。両手でハンドルを握り締め、歯を食いしばりながら高速をぐんぐん飛ばした。ハンドルがもぎ取れそうであった。聞く者のいない車内で罵声を発した。見方次第ではすべて私の意図通りに事が進んだと言えなくもないのに、私は敗残者のような気分であった。

 それが私の雪音を見た最後となる。数日後、アパートへ立ち寄ってみたときには、雪音はすでに立ち退いた後であった。置き手紙一つ残されてなかった。
 スイッチ一つで照明を落とすように、彼女は私の前から姿を消した。

 その年の冬、彼女がついにこの社会からも消え去ったことを知った。情報を私にもたらしたのは、彼女の元同僚の長岡女史である。私の緘口令を無視して、雪音は以前から私との関係を女史に報告していたとみえる。ニュースを私に告げている間、顎と頭を掴んで伸ばしたような不遜なのっぺり顔は、ひどく意味ありげにじっと私を見つめていた。
 雪音は交通事故で死んだ。それもまったく平凡極まりない事故であった。急な寒波の到来で未明から白いものがちらつき始めた十一月の早朝、雪音は信号のない横断歩道を渡っていて車に轢かれた。頭蓋骨が割れ即死だったという。横断歩行者の不注意と、車の運転者のスピードの出し過ぎによる出会いがしらの人身事故。不注意の招く死亡事故なら、現代社会には街角の数ほどある。
 大学の雑用を片付けて帰路につき、ようやく一人になったときでさえ、期待したように私の目から涙は出てこなかった。私は歯が噛み合わないほど震えていた。朝方よりさらに冷え込んだ晩であった。薄いコート一枚では、背筋から心臓まで迫る寒気をどうすることもできなかった。

 雪音はこうして死んだ。そのはずである。

 (第四章へつづく)



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