笛森雪音について、ここに述べなければならない。
思い出を説明するのは難しい。印象が言葉を圧倒するからである。彼女は私に深い印象を残した女であった。それも不思議なことに、時を経るに従い深みを増した。過去は熟成する。日付が遠ざかるにつれて、記憶は逆に鮮明になるのである。
例えば、海岸に置き忘れた赤い帽子。持ち主がその帽子のことをしきりに思い出す。置き忘れた当日よりも、翌日。そして二度と戻らないと諦めた翌々日。寄せる愛着が強ければ強いほど、その帽子は持ち主の心の中でいよいよ赤く鮮明になる。ほとんど、それ自身でまばゆい光を放つほどに。
例えに赤色を挙げたが、笛森雪音はその名の通り色の白い女であった。色白と言えば、そう、二日前に空で遭ったサディスティックな天女。私を海底に置き去りにしようとした女である。あ奴は彫像のように白かった。あんな硬質の白肌ではない。血色も良くない。雪音はどちらかと言うと、病的に蒼白かった。
背の低い、痩せた女であった。
彼女の映像がふとした拍子に脳裏を横切るとき、思い出す場面は大抵決まっている。大学の裏手にある煉瓦作りの塀の前。空から枯葉の舞い落ちる秋。腫れぼったい色をした夕暮れ時。
(つづく)
彼女はそこを歩いている。ほんのわずか前かがみになって、顎を心持ち突き出すようにして。それは何か凭れ掛かるものを探しているように見える。誰かに訴えかけようと身を乗り出しているようにも見える。大きな目は見開いている。彫りの深い二重まぶたのせいで、見開いても憂いを帯びている。何かをつぶやくかのように、あるいは息苦しいかのように、唇は弛緩している。前歯が心持ち長い。やせた喉元には禁欲的な筋が陰影を成している。小高い胸は衝動的な愛情に飢えている。彼女は元来目立つことを嫌う女である。主張しない女である。しかしそのときは、強烈な夕日が主張しない彼女に片時の主張を赦していた。晒す、という主張。西日の焼きつく赤煉瓦の前で、彼女は自分の孤独を、不安を、押し隠した情熱を、欲情を、陶酔を晒していた。魅惑的な紅い風景を背に、彼女はあまりに無防備であった。あまりに弱々しかった。そしてあまりに美しかった。残酷に言おう。世の中には犠牲者になるべき容姿と加害者になるべき容姿がある。雪音は前者のそれであった。
(つづく)
(つづく)
私はそのとき、タクシーの窓から彼女を眺めていた。初めて彼女を目にしたわけではない。その年の春から哲学科の事務室に所属している助手であることを私は無論知っていた。それどころか、珈琲を淹れさせてその間に私の他愛ないおしゃべりを聞かせる相手であった。教授としての地位を後ろ盾に、時には性的な戯言さえ口にしたことを告白する。私がからかうと必ず童顔の頬を赤らめた。女子高生のように困惑した。当時彼女は三十代の後半に差し掛かっていたというのに! 私にとって彼女は、なかなかの退屈しのぎであった。そしてそれ以上のものではなかった。美しいと言うにはあまりに女性的な誇りが欠けていた。魅力を感じるにはあまりに謙虚だった。長い間の孤独と不遇が、彼女から年齢以上に若さと色香を奪っていた。だが車窓越しにたまたま見かけた、赤煉瓦の前を行く彼女の姿は、かつて見たことのない────いや。偽るまい。彼女がそのように見える瞬間を、私ははるか以前から心のどこかで確信し、待っていたのだ。私は知っていたのだ。彼女が何の化粧も気負いも無く素の彼女のままでいながら、時を止めるほど恐ろしく美しくなる瞬間があることを。その瞬間を目にしたときこそ、私がすべてのしがらみを捨て、躊躇いもなく行動に出ることができるということを。
彼女は泣き出しそうに遠い目をしながら、まばゆい夕暮れの裏通りを歩いていた。小さな唇は開いていた。肩までの髪は西日に射貫かれて金色に揺らいでいた。彼女は秋の彼方に何かを求め、秋は彼女の体を求めていた。
私はタクシーを降り、コートの襟を立てて彼女に追いついた。
(つづく)
彼女は泣き出しそうに遠い目をしながら、まばゆい夕暮れの裏通りを歩いていた。小さな唇は開いていた。肩までの髪は西日に射貫かれて金色に揺らいでいた。彼女は秋の彼方に何かを求め、秋は彼女の体を求めていた。
私はタクシーを降り、コートの襟を立てて彼女に追いついた。
(つづく)
若きNietzsheは言う。男というものは本質的に二つのものを好む。遊びと危険である、と。
否。私はそのとき、恋愛であった。
老Kantは戒める。興奮も情念も、理性を排する点において心の病気である、と。
否。私はそのとき、恋愛であった。
Τι ουν αν, εφην, ειη ο Ερωs ; θνητοs ;
師Platoは答えて言う。エロスは、滅ぶべきものと、滅びざるものとの、中間にある、と。
否。彼女は滅び、私は彼女の死によって滅ぼされた。
馬鹿馬鹿しい。これが恋愛なのだ。恋は饒舌であるという俗諺が一番正しい。
しかしあの刹那、私の脳裏を妻美咲の哀しげな顔がよぎらなかったか? 瞬時たりとも? 息子博史の存在は?
否。否。私はあのとき、一個の動物であった。弛緩した口から湯気を立てる獣であった。私は発奮し、恐いものが無かった。あのときだけではない。あの日を端緒として、三顧の礼よろしく三度場所を変えて口説き、果ては三杯のカクテルを浴びせ、乳白色のカーテン越しに午前三時の夜景を眺め下ろしたときまで。いや、それからもずっと、ついに破局が私を「救う」まで。長い一年と半年であった。その間、道徳は私の元を立ち去り、哲学は私の背後で口を閉ざした。私を裁くものはおらず、私も永劫そうであると信じていた。
全体私は何を語ろうとしているのか? 彼女のことではないのか。それとも、彼女に幻惑された私のことか。あるいは、私に翻弄された彼女のことか。
アーケードの片隅、閉じられたシャッターの前で、私は煌々とした夜を過ごした。立ったままでも一向に疲れないのだが、私はしゃがみこんだ。その方が何だか心が落ち着く感じがしたからである。汚い野良猫が汚い声で鳴いた。酔っ払い共がふらふらしながら現れては去っていった。すべては影法師のようであった。私はますます背中を丸めた。
(つづく)
否。私はそのとき、恋愛であった。
老Kantは戒める。興奮も情念も、理性を排する点において心の病気である、と。
否。私はそのとき、恋愛であった。
Τι ουν αν, εφην, ειη ο Ερωs ; θνητοs ;
師Platoは答えて言う。エロスは、滅ぶべきものと、滅びざるものとの、中間にある、と。
否。彼女は滅び、私は彼女の死によって滅ぼされた。
馬鹿馬鹿しい。これが恋愛なのだ。恋は饒舌であるという俗諺が一番正しい。
しかしあの刹那、私の脳裏を妻美咲の哀しげな顔がよぎらなかったか? 瞬時たりとも? 息子博史の存在は?
否。否。私はあのとき、一個の動物であった。弛緩した口から湯気を立てる獣であった。私は発奮し、恐いものが無かった。あのときだけではない。あの日を端緒として、三顧の礼よろしく三度場所を変えて口説き、果ては三杯のカクテルを浴びせ、乳白色のカーテン越しに午前三時の夜景を眺め下ろしたときまで。いや、それからもずっと、ついに破局が私を「救う」まで。長い一年と半年であった。その間、道徳は私の元を立ち去り、哲学は私の背後で口を閉ざした。私を裁くものはおらず、私も永劫そうであると信じていた。
全体私は何を語ろうとしているのか? 彼女のことではないのか。それとも、彼女に幻惑された私のことか。あるいは、私に翻弄された彼女のことか。
アーケードの片隅、閉じられたシャッターの前で、私は煌々とした夜を過ごした。立ったままでも一向に疲れないのだが、私はしゃがみこんだ。その方が何だか心が落ち着く感じがしたからである。汚い野良猫が汚い声で鳴いた。酔っ払い共がふらふらしながら現れては去っていった。すべては影法師のようであった。私はますます背中を丸めた。
(つづく)
犠牲者となるべき外見、と私は雪音のことを形容した。
それは勿論、そう見る側の問題である。手首の細さとか、憂いを湛えた目許。小さい声────枯葉が擦り合わさるように小さい声。すぐうろたえて顔を曇らせる仕草。それらの諸事例が問題なのではない。それら一つ一つに血の沸き立つ興奮を覚え、歯の隙間から熱い息を吐く猛獣的本性の持ち主が問題なのだ。野辺に咲く可憐なたんぽぽを、わざと踏みしめて歩き、それで快感を得るような畜生的人格が問題なのだ。
私は顔を覆う。私は畜生であった。野蛮であった。私は彼女を虐めた。彼女を虐めることと彼女を愛することは、そのときの私にとっては一緒であった。ときには────ああ、どうして顔を赤らめずに告白できよう────ときには彼女の手首を紐で縛りつけさえした。畢竟私は文化人の面の皮を被ったケダモノであった!
文明は決して個人に根を下ろさない。これは私の持論である。確信である。言い訳ではない。人間はまさに書いて字のごとく人間(じんかん)に置かれてのみ人間らしくあり得る。世人に見られてこそ、文明的発言をし文明的思考に基づいた文明的振る舞いを取ることができる。だがどんなにsophisticateされた人物ですら、誰も見ていなければ指で鼻をほじる。毒づく。壁を叩く。可能であれば誰かを傷つけたいと思う。抑圧された退行の欲求である。潜在する凶暴の疼きである。私は責任転嫁を図っているのか? 否。自分を正当化するつもりはない。ただ、惨めな事実として、私も一個の人間だったわけだ。私は暴力を欲していた。水の中で呼吸を欲するように暴行を欲していた。どれだけ歳を重ねても、その衝動は衰えることがなかった。病気ではない、それが人間のはずだ! 興味深いことに、その衝動の矛先は相反する二者に同じように向けられた。美咲と、雪音。妻に対し私の震える手が上がることがあったが、それは主に憎らしくてそうしたのだ。雪音はひどく愛していた。だからやはり彼女を前にして私は汗ばむ手を上げた。
(つづく)
それは勿論、そう見る側の問題である。手首の細さとか、憂いを湛えた目許。小さい声────枯葉が擦り合わさるように小さい声。すぐうろたえて顔を曇らせる仕草。それらの諸事例が問題なのではない。それら一つ一つに血の沸き立つ興奮を覚え、歯の隙間から熱い息を吐く猛獣的本性の持ち主が問題なのだ。野辺に咲く可憐なたんぽぽを、わざと踏みしめて歩き、それで快感を得るような畜生的人格が問題なのだ。
私は顔を覆う。私は畜生であった。野蛮であった。私は彼女を虐めた。彼女を虐めることと彼女を愛することは、そのときの私にとっては一緒であった。ときには────ああ、どうして顔を赤らめずに告白できよう────ときには彼女の手首を紐で縛りつけさえした。畢竟私は文化人の面の皮を被ったケダモノであった!
文明は決して個人に根を下ろさない。これは私の持論である。確信である。言い訳ではない。人間はまさに書いて字のごとく人間(じんかん)に置かれてのみ人間らしくあり得る。世人に見られてこそ、文明的発言をし文明的思考に基づいた文明的振る舞いを取ることができる。だがどんなにsophisticateされた人物ですら、誰も見ていなければ指で鼻をほじる。毒づく。壁を叩く。可能であれば誰かを傷つけたいと思う。抑圧された退行の欲求である。潜在する凶暴の疼きである。私は責任転嫁を図っているのか? 否。自分を正当化するつもりはない。ただ、惨めな事実として、私も一個の人間だったわけだ。私は暴力を欲していた。水の中で呼吸を欲するように暴行を欲していた。どれだけ歳を重ねても、その衝動は衰えることがなかった。病気ではない、それが人間のはずだ! 興味深いことに、その衝動の矛先は相反する二者に同じように向けられた。美咲と、雪音。妻に対し私の震える手が上がることがあったが、それは主に憎らしくてそうしたのだ。雪音はひどく愛していた。だからやはり彼女を前にして私は汗ばむ手を上げた。
(つづく)
「どうして」と雪音はいつも私に訴えた。どうしてそういうことをするの。
愚問である。そのような問いに答えるだけの理性のあるときは暴力を振るわないのである。轟音を立てて砕ける南極の氷床。私の理性もあれと似ている。砕け落ちる際にそれを止める手立てはない。笛森雪音という女と対面するとき、我が理性の氷床は驚くほど速やかに瓦解した。雪音のなよやかな挙動には、私の冷静を奪う何かがあった。どうして、と問いかけるか細い声は、私の燃え盛る欲望に油を注ぐ外何の効果も持たなかった。私はエスカレートした。私は、認めよう、人の道を踏み外した。一度踏み外せばもうどこを踏みにじっても気にならなかった。私は私の家族に隠れて雪音に逢い、逢う度に雪音本人を傷つけた。不倫の発覚を恐れ、大学の仕事は辞めさせた。安いアパートを与えて不用意な外出を禁じた。そうだ、犯罪である。いや犯罪なのか? 犯罪であろう、少なくとも世人に後ろ指差されて仕方の無い行為である。だが、だが、ここが世にも不思議なところだが、それでも彼女は私を愛した。虚栄ではない。逃げる機会など四六時つねにあった。にもかかわらず彼女は逃げなかった。私の足が遠ざかれば彼女自ら連絡してきた。私を恨みながらも、彼女は私を愛した。私を恐れながらも、私を求めた。これもまた覆せない事実である。結局のところ、彼女は弱い人間だったのだ。孤独を恐れるあまり、虐げられることに耐えた。抗うすべを知らぬ優しさは己の背徳をも寛容した。解決よりは忘却を選んだ。仕舞いには自分が何を望んでいるかすらわからなくなる始末であった。あらゆる意味において、救い難く────私は不遜なことを言っている! だが案ずるなかれ。私は彼女よりも弱い人間であった。塵芥であった。今になってそう自覚する。
(つづく)
愚問である。そのような問いに答えるだけの理性のあるときは暴力を振るわないのである。轟音を立てて砕ける南極の氷床。私の理性もあれと似ている。砕け落ちる際にそれを止める手立てはない。笛森雪音という女と対面するとき、我が理性の氷床は驚くほど速やかに瓦解した。雪音のなよやかな挙動には、私の冷静を奪う何かがあった。どうして、と問いかけるか細い声は、私の燃え盛る欲望に油を注ぐ外何の効果も持たなかった。私はエスカレートした。私は、認めよう、人の道を踏み外した。一度踏み外せばもうどこを踏みにじっても気にならなかった。私は私の家族に隠れて雪音に逢い、逢う度に雪音本人を傷つけた。不倫の発覚を恐れ、大学の仕事は辞めさせた。安いアパートを与えて不用意な外出を禁じた。そうだ、犯罪である。いや犯罪なのか? 犯罪であろう、少なくとも世人に後ろ指差されて仕方の無い行為である。だが、だが、ここが世にも不思議なところだが、それでも彼女は私を愛した。虚栄ではない。逃げる機会など四六時つねにあった。にもかかわらず彼女は逃げなかった。私の足が遠ざかれば彼女自ら連絡してきた。私を恨みながらも、彼女は私を愛した。私を恐れながらも、私を求めた。これもまた覆せない事実である。結局のところ、彼女は弱い人間だったのだ。孤独を恐れるあまり、虐げられることに耐えた。抗うすべを知らぬ優しさは己の背徳をも寛容した。解決よりは忘却を選んだ。仕舞いには自分が何を望んでいるかすらわからなくなる始末であった。あらゆる意味において、救い難く────私は不遜なことを言っている! だが案ずるなかれ。私は彼女よりも弱い人間であった。塵芥であった。今になってそう自覚する。
(つづく)
能登半島の海の色を私は忘れない。
それは二人で行った唯一の旅行であった。金沢で開かれた学会がその好機を与えてくれた。学会そのものはらっきょの皮剥きのように退屈であったが。らっきょの皮を剥いた経験は私にはない。
六月初旬のよく晴れた午後、弓なりに延びる人気の無い砂浜に、我々は車を乗り付けた。タイヤが砂を噛む音がした。エンジンを停めると浜風がごう、と鳴った。
私も雪音も座席に座ったまま、車から降りようとしない。車窓越しに、まるで古い映画を観ているように白波立つ日本海が広がる。浜風が強い。しかし空は青い。
「誰もいないのね」
雪音が助手席でつぶやいた。よく梳いた短い髪を座席に押し付けて、彼女は海を眺めている。一方の私はハンドルに両腕を乗せ、前のめりになって海を見つめる。太平洋育ちの私に、日本海は大変黒く見えた。
「降りないの」
「降りたけりゃ降りろ」
雪音はしばらく沈黙した。ああ私は、このときの会話を一言一句覚えている。私たちは二人とも疲れていた。
(つづく)
それは二人で行った唯一の旅行であった。金沢で開かれた学会がその好機を与えてくれた。学会そのものはらっきょの皮剥きのように退屈であったが。らっきょの皮を剥いた経験は私にはない。
六月初旬のよく晴れた午後、弓なりに延びる人気の無い砂浜に、我々は車を乗り付けた。タイヤが砂を噛む音がした。エンジンを停めると浜風がごう、と鳴った。
私も雪音も座席に座ったまま、車から降りようとしない。車窓越しに、まるで古い映画を観ているように白波立つ日本海が広がる。浜風が強い。しかし空は青い。
「誰もいないのね」
雪音が助手席でつぶやいた。よく梳いた短い髪を座席に押し付けて、彼女は海を眺めている。一方の私はハンドルに両腕を乗せ、前のめりになって海を見つめる。太平洋育ちの私に、日本海は大変黒く見えた。
「降りないの」
「降りたけりゃ降りろ」
雪音はしばらく沈黙した。ああ私は、このときの会話を一言一句覚えている。私たちは二人とも疲れていた。
(つづく)
「海の水、やっぱりまだ冷たいかしら」
「降りないのか」
「邦広さん、私のこと飽きた?」
私はしかめ面を彼女に向けた。
「どうしてそんなことを言う」
「だって」
泣きそうな顔で雪音は小指の爪を噛んだ。「だって、今朝からほとんど口を利いてくれないじゃない。なんだか・・・大事な話があるけど言い出せないみたいな感じで」
私は殊更大きく嘆息した。彼女の言っていることはおおよそ正しかったからだ。
「別に何もない。降りないのか」
「邦広さんは」
「降りる」
「じゃあ降りましょうよ」
「待て」
私の声に、ドアノブを握る彼女の手が止まった。私はそのとき、顔を両手で覆っていたはずだ。覆うだけでない。私は自分の顔を握り潰そうとしていた。
「雪音」
返事はない。彼女は静かに私の言葉の続きを待っていた。勘の鈍い女ではない。彼女は覚悟していた。一方の私は逡巡していた。
海鳥が空で鳴いた。
「もう終わりだ」
(つづく)
「降りないのか」
「邦広さん、私のこと飽きた?」
私はしかめ面を彼女に向けた。
「どうしてそんなことを言う」
「だって」
泣きそうな顔で雪音は小指の爪を噛んだ。「だって、今朝からほとんど口を利いてくれないじゃない。なんだか・・・大事な話があるけど言い出せないみたいな感じで」
私は殊更大きく嘆息した。彼女の言っていることはおおよそ正しかったからだ。
「別に何もない。降りないのか」
「邦広さんは」
「降りる」
「じゃあ降りましょうよ」
「待て」
私の声に、ドアノブを握る彼女の手が止まった。私はそのとき、顔を両手で覆っていたはずだ。覆うだけでない。私は自分の顔を握り潰そうとしていた。
「雪音」
返事はない。彼女は静かに私の言葉の続きを待っていた。勘の鈍い女ではない。彼女は覚悟していた。一方の私は逡巡していた。
海鳥が空で鳴いた。
「もう終わりだ」
(つづく)
言い終わっても依然、私は助手席に顔を向けることができなかった。予め用意してきたのは「別れよう」という台詞であった。なぜだかそれを口にすることはできなかった。
隣から吐息が聞こえてくる。それから鼻をすする音。私は顔から両手を降ろし、雪音に振り返った。白いTシャツ姿の雪音は下唇を噛んで、静かに泣いていた。
彼女のそういう女々しい面を、私はときに愛し、ときに憎んできた。いや同時に愛し憎んだ、と言うべきか。能登の海を前にしたこの場面でもそうであった。別離の言葉を自ら口にして、なお哀しみがあった。切ない愛しさがあった。その一方で、かの女に対する抑えようのないむらむらとした腹立たしさを覚えていた。この道理抜きの腹立たしさが危険であった。
狭い車内に感情の排気口はない。
雪音は何かを否定するようにゆっくり首を振った。細い肩が嗚咽に上下している。
「仕方ないのよ。仕方ないよね。してはいけないことしてたんだから。いつか終わらなきゃいけなかったんだから。私ずっとそう言って来たでしょ。奥さんにばれたの?」
「いや」
「じゃあ・・・どうして」
「同じことだ」
「同じこと? 何が同じことなの」
(つづく)
隣から吐息が聞こえてくる。それから鼻をすする音。私は顔から両手を降ろし、雪音に振り返った。白いTシャツ姿の雪音は下唇を噛んで、静かに泣いていた。
彼女のそういう女々しい面を、私はときに愛し、ときに憎んできた。いや同時に愛し憎んだ、と言うべきか。能登の海を前にしたこの場面でもそうであった。別離の言葉を自ら口にして、なお哀しみがあった。切ない愛しさがあった。その一方で、かの女に対する抑えようのないむらむらとした腹立たしさを覚えていた。この道理抜きの腹立たしさが危険であった。
狭い車内に感情の排気口はない。
雪音は何かを否定するようにゆっくり首を振った。細い肩が嗚咽に上下している。
「仕方ないのよ。仕方ないよね。してはいけないことしてたんだから。いつか終わらなきゃいけなかったんだから。私ずっとそう言って来たでしょ。奥さんにばれたの?」
「いや」
「じゃあ・・・どうして」
「同じことだ」
「同じこと? 何が同じことなの」
(つづく)