た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

無計画な死をめぐる冒険 124

2008年05月11日 | 連続物語
 笛森志穂!────私は人知れず嘆息した。やはり、彼女は雪音の肉親であった。笛森志穂。初めて耳にするその名は、教会の荘厳な鐘の音のように私の心に鳴り響いた。私は、私はほとんど狂喜した。なぜ狂喜するのかわからない。いやわかる。笛森雪音は、こういう形で生きていたのだ! 彼女の血、美しさの残像はこういう形で現在するのだ! seinしているのだ。da seinしているのだ。Das Wesen des Daseins liegt in seiner Existenz! 何を言っているのだ。ああ私が死んですぐに成仏できなかったのは、まさにこの眼前の現し身、栗色の髪を振り乱すうら若き乙女に巡り合うためだったとは言えないか?
 彼女は警部の圧倒的な握力に対しまだ身をもがいていた。
 「あなた誰?」
 「警察の者です」
 「私を逮捕しに来たの?」
 私と対面したときと同じことを言っている。
 鷲鼻の五岐警部は満足げに笑った。生きている者は笑うことができる。「逮捕などしません。だから言ったでしょう、あなたが車道に飛び出すのを留めただけです。私の仕事を増やさないようにね。それはそうと、お聞きしたいことがあります。署まで同行願えますか」
 「それって・・・」
 咄嗟に逃げ道を探ろうとしたか、それとも、そもそも何から逃げてきたかを思い出したか。笛森志穂は掴まれた腕越しに背後を振り返った。
 そこには私がいる。
 雪音に生き写しの二重まぶたの目は、再び私を捉えた。もしこのとき警部が油断していたら、突発的に身を退いた彼女は彼の手を振りほどくことに成功しただろう。
 笛森志穂は完全に取り乱した。

 (つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 125

2008年05月11日 | 連続物語
 「早く車に乗せて!」
 「どうしたんだ」
 「見えないの? あれが? いいから早く乗せて!」
 鷲鼻男の表情が曇った。辺りを睨む。この男は昨晩、美咲のうわ言も耳にしている。「何が見えるんだ。一体」
 「いいからお願い、乗せて! 私を狙ってるの」
 彼の見せた応対は俊敏であった。「わかった。こっちだ。来なさい」
 二人は路肩に駐車していた灰色の車に向かった。なかなかできるおまわりである。彼の手は志穂の腕をしっかりと掴んでいる。傍目には男が女をさらっているかのようだ。少なくともそうとしか見えなかった、この私には。
 大いなる風が巻き起こるのを感じた。
 私は声を出した。
 「待て」
 低くひび割れた声色。まるで重い石を引き摺るような。私はこんな声をしていたろうか。 
 唯一人、それが聞こえる女が立ちすくんだ。両手で耳を覆っている。黒タイツの脚が上体を支えきれないほどに震えている。

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 126

2008年05月11日 | 連続物語
 五岐が彼女の背中を抱きかかえた。「どうした」
 彼女は蒼白である。気絶寸前である。それでも私は、自分の口を閉じることができなかった。叶わぬことながら、私は自分の声が志穂よりも、彼女を抱き締める鷲鼻に届くことを希った。
 「その手を離せ」
 「来ないで!」
 「君、大丈夫か」警部は混乱している。
 「助けて! お願い」
 「歩くんだ、さ、早く君」
 「その手を離せ」
 憎悪が突沸した。お節介にして無知なるいかり肩よ。お前に彼女を連れ去る権利はない。私には、では果たしてその権利があるのか? そのような冷静な判断のできる状態ではなかった。私は両手を伸ばした。お節介男の首を絞めようとして何度も宙を握り潰した。馬鹿である。しかし私は止めなかった。何度か繰り返すうちに、必ずや奴の喉元を掴める気がした。その手を離せ。かつて抱いたことのないほど強烈な殺意が、私の体無き体を熱く火照らせた。
 離せ。女を離せ。警部の小さな目が不審げにしばたたいた。違和感を首筋に感じている。もう少しである。次の瞬間、私の背中は強力な何かに引っ張り上げられた。

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 127

2008年05月11日 | 連続物語
 玉屋!
 打ち上げ花火ではなく、それは私であった。豆粒のように軽々と、私は空高く持ち上げられた。トムとジェリーだってこれほど派手な仕打ちは受けたことがあるまい。何しろ凄まじい勢いであったので、何が持ち上げているのか確かめることさえできなかった。
 どこまで上昇したろうか。ふと周囲の空が動きを止めた。背中が自由になり、私はようやく体勢を整え、憤りつつ私を拉致した者を見据えた。私の目の前には鬼がいた。

 存在者は典型に押し込められる。典型とは頭の中の鋳型である。鋳型は言葉が作る。スパナの穴に合う形でナットの種類が識別されるように、存在者の種類は我々の脳裏にある言葉の数で制限される。
 人間という言葉がある。我々は想像を絶して多種多彩な存在物であるはずだが、誰もが人間をはみ出すことを許されない。もちろん私のような霊的存在は人間としては扱われない。
 愛という言葉がある。男が女に、女が男に対して抱く思いは千差万別である。人はそれを一緒くたに愛として理解する。愛の言葉に相応しくなければ、もはや愛に近いものとしてすら見なされない。
 そして鬼という言葉。私は今目の前に立つ異形の存在を、鬼と言った。鬼と形容するのが相応しいと思ったからである。実際には、彼が何なのか想像もつかなかった。真っ赤に染まった憤怒の形相をしている。見開いた目玉は飛び出しそうである。鎧の様な派手な衣装を身に纏ったところは、東大寺の仁王像を思わせる。しかし天女の衣のような帯の代わりに、薄平たく細長い黄金の刃が幾つも背中に刺さっている。兜を被る頭に角は見当たらなかったが、全身から漲る怒りの感情は、まさに鬼のそれである。
 私は鼠のように萎縮した。

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 128

2008年05月11日 | 連続物語
 「あなたは」
 「お前は行き過ぎた」
 天蓋を震わす低い声である。「それを止めるためにわしが現れた」
 「あなたは何者ですか」
 差し当たって私が知りたいのは、なぜ彼が現れたかという原因より、彼が私を取って食う類の者か否かの確認である。
 怒りに見開いた目が私を射すくめる。
 「わしはすでに二度お前に姿を現した」
 「二度」
 二度ならば、団子鼻に冷血女であろう。しばらく前から、いやな予感はしていたのだ。大体、人の質問にまともに答えないところが奴らと同類である。
 「ひょっとすると、一度はぶ男で、一度は私を深海に沈めかけた女でしたか」
 鬼の開いた口の端が笑ったように思う。
 「印象がよくないようだな、どちらも」
 今のあなたほどではないが、という言葉を呑み込んだ。いずれにせよ、取って食わないことは確からしい。そう言えばあの冷血女も自分は団子鼻と同一人物だというようなことをほのめかしていた。一体どれだけ人を馬鹿にする連中なのだ。一人か三人かはいざ知らず。

 (つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 129

2008年05月11日 | 連続物語
 「私は────私は、あの女に、笛森志穂という女に用があったのだ。あなたにはない」
 天空で風が鳴る。
 「笛森志穂はお前が見える」
 「そうだ。まさにそうなのだ」
 「お前の声も聞ける」
 「そうなのだ。どうしてなんだ。そこが知りたい。どうして彼女は私を見聞きできるんだ」
 一呼吸分の間があった。
 「お前が笛森志穂の前に姿を現し、声を発したからだ」
 「そんなことがあるものか。では、どうして他の者には見えない。聞こえない」
 「お前が他の者には姿を現さないし声を発しないからだ」
 私は髪を掻き毟った。「それでは答えにならん」
 「答えだ」
 巨岩が転がるような声。私は三歩分退いた。
 「答えです。確かに、おそらく、答えでしょう。いやしかし────私だって、私だって出来ればみんなの前に姿を現したいと思っている。声を掛けたいと思っている。声なんぞ、何遍も掛けてみた。だが聞こえないんだ。聞こえない。彼らには。目の前に立ちはだかっても、まばたき一つしてくれない」
 「見える者もいる」
 「だから、笛森志穂という女は例外だ。いや、美咲も。美咲は瞬間的に私を見た。一瞬だが見えたようだ・・・う・・・五岐という警部はさっき、私の手を、ひょっとして首筋に感じたかもしれん」
 鬼はまるで、私がもう自分で答えを見つけたかのように黙っていた。
 「どうしてなんだ。だから。え? 答えてくれ。そこに立っているのは答えてくれるためなんじゃないのか。私は彼らの前に立ち、声をかけた。私は何度も私を発信しようとしてきた。それを受け取れる者と、受け取れない者がいるのはなぜだ」



(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 130

2008年05月11日 | 連続物語
 鬼は腕を組み、厚い胸板を膨らませて天蓋を見上げた。
 我々の足元、はるか下方を渡り鳥の一群が過ぎ行く。鳥たちよりさらに底を広がる大地は雄大であり、人工物は砂埃ほどにも見えない。我々は天空で対峙する。青天井は更にそれより高くある。鬼は青天井を眺めてばかりいる。私は下界が気になって仕方ない。下界の片隅で、おそらくあの鼻持ちならない鷲鼻の車の中で、今も震えているであろう一人の女性のことが。地平線の間際、コバルトブルーの尽きる辺りはただただ白い。
 私は鬼の回答を待つ。鬼は千切れ雲を眺めている。
 「力、とお前たち人間が呼んでいる」
 ようやく低い声が返ってきた。相槌の打ちにくい言い回しである。妙なところで言葉を切るから、こちらが慌てなければならない。「力がどうした」
 「それは作用するものと、作用されるものがあって成り立つ」
 「そうか。そうだろう」
 賛同したものの、何のことを言っているのかよくわからない。
 「地球はなぜ太陽の周りを回る」
 「太陽が地球を引きつけるからだ。太陽の引力だ」
 「地球が無ければ、その力も生まれまい」
 「それはそうだ」
 「磁石が砂鉄を引きつける」
 「はあ」
 「砂鉄を取り除く。その磁力はそれでもそこに在るか」
 「よくわからんが、無いだろう。ちょっと待て。何の話だ」
 「お前の、自分を現す力」
 長い爪の人差し指が、私を指した。
 「その力も、お前を見ようとする者に対してのみ働く」
 口を開けていたため返答が遅れた。
 「笛森志穂は、私を見ようとしたのか。美咲も」
 「いや。むしろ。お前を見ることを恐れていた」
 「恐れていた?」
 「それは、お前の現れを信じていることの裏返しだ」
 「恐れていても見えるのか」
 「寒さを嫌う者に寒気は降りる。暑さを厭う者に暑気は宿る」
 私は奴の仰々しい怒り顔をじっと見つめ返した。
 「私はあんたに担がれているのか。それともあんたが道化なのか」



(あ、まだつづくんだ)
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