た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

光陰

2009年08月26日 | essay
 人が一人死んだ。

 いつもそうだが、こういうとき、自分は生き延びた、という感想が、喪失感や悲しみと混ぜこぜになって出てくる。不思議である。不謹慎である。もちろん、私が生き延びたから、代わりにその人が死んだわけではない。その人と同じ種類の死の危険が私に迫っていたわけでもない。何でもない。その人の死と私の生とは無関係である。それなのに、自分は生き延びた、と感じる。
 その人が死ぬ時点より長く、私が生き残ってしまった、ただそれだけの事実なのだろう、おそらく。そこに驚きがある。ひそかな感動もある。あとに影曳く後ろめたさもある。
 その人は死んだ。私はまだ死ななかった。そうなのだ、と川の流れをぼんやり眺める。
 
 死んだ人というのは、タップダンスの師匠であった。二年ほどの付き合いになる。高齢であった。私が「死に遅れ」ても何の不自然もない。それなのに、やっぱり今回も、何であの人が死んで自分が生きているのだろうと思った。
 タップを踏んでみせるときの師匠は、少女のように若く見えた。
 死んだ原因も知りたいものだが、生きている原因も知りたいものである。

 川の流れとさきに書いたが、死の知らせを受けてから、自転車を漕いで近所の河川敷までのらりくらりと行ってきたのである。自転車を置いて、水辺まで歩く。秋風が心地よかった。日差しはまだうなじに厳しかった。向こう岸で、学生らしき女性が二人、わいわい言い合いながら素足を水に浸していた。
 私は川に背を向けた。 

 私はまだ生きるだろう。
 タップダンスは、諦めるかも知れない。
コメント
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