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不登校というものについて

2010年06月08日 | essay
 最近の天候不順のせいじゃなかろうが、学校の雰囲気がどうも良くないと聞く。いじめや不登校が多発しているらしい。もちろんそんな問題はずっと以前からあったろうが、そこは一括に論じられない微妙なところであり、いじめは昔からあるとしても、不登校はわれわれの幼少時代にそんなになかったと記憶する。知人に聞いても、学校に行かないという選択肢はなかったと答えが返る。そうなのだ。たとえいじめられっ子がいたとしても、彼らは学校には来ていた。苦痛に耐え忍びながらも通っていた。学校に行きたくないと思うことは自分たちも含め多々あったにしても、それが許される環境ではなかった。

 では今は。単純に言えば、それが許される環境だということになる。不登校の選択肢は確実に存在する。保護者も学校側もそれを拒否できない。無理にでも学校に引きずってこさせれば、体罰となり、暴力だと責められかねない。親や教師が動く前に、専門医やカウンセラーにたらい回しにされる。そのほうが安全だからだ。なんでもすぐ病名のつく時代だから、そういう子には相応の病名が貼られ、まあしばらく様子を見ましょうという話になる。不登校が許可される。引きこもりがまた一人増える。

 間違っても私は、いじめなんて自分の意思で克服できる問題だからがんばれ、などというつもりはさらさらない。どうしても学校のほうが改善されなければ転校するのも是であるし、緊急の手段として学校を休むことは当然ありうると思う。しかし、現代は、あきらめの判断があまりに容易になされてないだろうか。子供本人が「行きたくない」と言いだしてから、「じゃあ行かなくていいよ」と大人が言うまでの過程が、あまりに短縮されてはいないだろうか。大人も涙をこぼしながら、嫌がる子供を引きずって校門をくぐる風景が、一度や二度あってもいいのではなかろうか。

 その試みが子供の心に傷を残す可能性を全く排除できないにしても、いったん引きこもったら再び社会に出るのに相当の労力を必要とする、その徒労と比べたら、もっと試されてもいいんじゃないかと考えてしまう。
 
 人はいったん社会への扉を閉ざせば、それをこじ開けるのに想像を絶する苦労をしなければならない。そして二度と開けないまま絶望感の中で年を重ねていく人が、今、あまりにも多い。私の知人にもいる。

 われわれは、一番大事なことを、あまりにも遠慮し合うようになったのではないか? 一番大事なこととは、たとえて言うなら、他人の両肩に手を置き、揺さぶるような、何かである。
 
コメント
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