た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

仮説:顔考

2011年05月03日 | essay
 この歳になると、二人寄れば、共通の知人なり片方の知人なりいろんな人物の人生を噂する。あの人はやっぱりああいう人だった、とか、彼はいかにもそんなことをしそうな感じだったよ、とか。その際、顔つき・容姿というのは重要な論拠の一つになる。力強く生きそうな顔、自ら不幸を招きそうな顔、真面目そうな顔、怠けそうな顔・・・。

 性格が顔に現れる、という言い方をする。人生が顔に刻まれる、とも表現する。してみると、顔と心は密接不可分の関係にあるわけだ。

 これをさらに敷衍(ふえん)して、性格が顔を形作るばかりでなく、顔が性格を形作るのではないだろうかと、最近の私はひそかに思っている。幼いころ、自分の姿を鏡で見る。見るからにかわいい女の子だったら、私はかわいい女の子なんだと自己認識して、そのような振る舞いや生き方をするようになる。あまり自分で満足のいかない顔立ち──たとえばちょっと吊り目のきつい表情であれば、私はきついことを言ったりしたりすることが似合う女なんだと思って、ぐれてみたり、毒舌を吐いてみたりする。真面目な顔立ちであれば、どうしても真面目な行動をとってしまう。周りもそう期待するからだ。ユーモラスな顔立ちであれば、まるで天性の芸人であるかのように面白おかしく振舞って、お座敷芸人のような生き方をする。

 顔立ちから判断する周囲の期待、というのも大事な要因である。鏡による自己認識、というのも確かにある。どちらがどの程度の比率かはともかく、人は、自分の顔(ひいては体つき全体)に応じた生き方を知らず知らずに採っているのではなかろうか。

 となると、顔はその持ち主にとって、人生の台本が書き込まれた運命の書物である。そこに書かれたこと以外の人生を歩もうと思っても、相当至難な業になる。

 それでも、生き方を変える人がときたま現れる。いままでは大人しい引っ込み思案な人だったのに、ある日を境に急に社交的で積極的な人に変わった、とか。そういう人は、顔つきまで変わったと言われる。自分で運命の書物を書きかえたのだ。それはものすごい努力を要することかもしれない。

 顔が先か、性格が先か。そういう議論は、ニワトリと卵の話のように不毛なものであろう。ただ、こんな悪戯な想像をしてみたくなる。バベルの塔を破壊した神は、人間に複数の言語を与え、お互いの意思疎通を難しくした。同様に、人間の顔つきを他の動物以上に複雑多様化させた神は、人間の団結力を奪い、個々の人生をバラエティに富んだ、ユニークで、孤独で、しかしそれだけに、面白いものにした、と。
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