た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

GW

2011年05月07日 | essay
 ゴールデンウィークに三世代家族で富士五湖に行く。富士山を眺め、白鳥を漕ぎ、浴衣で温泉卓球をしてビールを飲み、お土産を買って帰った。途中で遊園地に寄って歓声まで上げてしまった。私は生まれて初めてゴールデンウィークをしたような気分になった。

 振り返れば、幼少期におけるこの時期は常に農繁期だった。蛙の鳴き声の聞こえる水田の畦に突っ立って、機械で田植えをする父に苗を渡すのが、私の一日の仕事であった。世の人々がゴールデンゴールデンと騒ぐのが悔しくて仕方なかった。自分も死ぬ前に一度くらい渋滞に巻き込まれてやるぞと思っていた。死ぬ前に一度でいいから、潮干狩りで日焼けしたかった(ちなみにこれは去年実行したが、泥に素足を入れてひたすらスコップを動かすだけであり、これが果たしてゴールデンなのだろうかと首をかしげてしまった)。

 富士五湖こそは私の夢見た紋切り型のGWであった。富士山をただ眺める点においても、温泉も土産物屋もなんとなく一時代前の匂いを感じさせる点においても、少し渋滞して、少し自然を感じさせる点においても、なぜか予定にない富士急ハイランドに引き寄せられる点においても。そこには、高度経済成長期から安定成長期までをまかなった、日本の幸せの一つの鋳型があった。そういう場所では、何も考えずに財布のひもを緩め遊び疲れるのがよい。

 それでもやはり、車を運転していて水を湛えた田んぼを見かけると罪悪感に近い心の疼きを感じてしまうのは、少年時代の擦り込みによるものであろう。遠い故郷の実家の手伝いをしなくてよいのか、と、できもしないことを考えてしまう。恐ろしいことである。おそらく私は死ぬまで、ゴールデンウィークを心からゴールデンには楽しめないのだろうと、腹をくくっている。

 まあ、それもこれもひっくるめて、私の心の中における、GWという風物詩なのだろう。それはそれでよし。今回は、病気を抱えた義母を連れて一泊旅行ができただけでも、二重丸としようか。

  

 
コメント
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