た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

相性

2012年02月15日 | essay
 向かいの家が飼っている柴犬がしばらく姿を見せないなと思ったら、どうやら子どもが生まれたらしいと妻が興奮して報告してきた。平生は塀の内側で綱でつながれており、そもそもが大変利口で大人しい犬なので、一体どこでどなたに種を頂戴してきたのだろうと、我々夫婦はその晩、酒の肴に想像をたくましくし合った。

 そのうち、向かいの家から子犬を一匹譲り受けてくれないかと打診してきた。犬を飼いたい、という欲望がこちら側も漠然とあったところである。満更でもない申し出だが、ためらいの声も次々と耳元に聞こえてくる。犬小屋はどこに置くのか、誰が毎日散歩するのか、そもそも我々は、犬の飼い方を知っているのか。息子は、柴犬ではなく何とか犬を飼いたいと言い出す(何とかがどうしても覚えられない)。妻は、できれば室内犬の方が・・・と言う。私はどちらかというと野性的な育て方を好む。意見はなかなか収束を見ない。家族三人で差し当たり一致しているのは、父親はどこの犬なのだという不安である。どこ、と特定できない野良犬などであれば尚更気が引ける。飼い犬と飼い主との間にも相性というものがあろう。飼ってみてから予想外の成長をされて、相性が合いませんでしたと途中放棄するわけにもいかない。向かいの家への返事は、今のところ留保し続けている。

 相性というのは難しい。いやそもそも、難しいのかも不明である。

 先日、東京から男二人組が訪れた。

 鹿児島出身の同い年。たまたま高校大学と一緒になり、それぞれ東京で働くようになってからも、年に何度か会って小旅行を企画したりするらしい。そのイベントの一つが、ここ松本に来て私と飲み、スノーボードをやるというものである。もう何回目になるだろうか。会う度に、不思議な取り合わせの二人だと思う。一人は活発で、言うことがはっきりし、テンポの良い会話を好む。もう一方は、万事が熟慮型であり、大人しく、会話の中の些細な発言にも考え込んでしまう。私は大人しい方と大学時代、先輩後輩の関係だったというだけで、活発君とはこのスノボツアーで初めて知り合った。

 二人はお互い相性がいいのか、といえば、疑問である。彼ら自身、互いに腐れ縁だと言い合っている。しかし腐れ縁と言い合える仲は、そんな簡単にはこしらえられないのも事実である。性格も嗜好もぴったり一致する友人関係といったものが長続きするとは限らない。振り返ってみれば、私自身の交友関係も、なぜあいつらと、というような面子ばかりである。彼らも私のことをそう思っているだろう。お互いに気に食わないことも多々あろう。それでも付き合っているのは、もはや「相性」の一言で尽きるものではない。

 では相性とは一体何なのか?

 たまたま学生時代を共に過ごしたり、たまたま同年だったり、果てはたまたま、互いのスケジュールが何度か合ったり・・・そのような、まったくの物理的偶然のもたらす結果に過ぎないのではないかと、最近思えてきた。逆にこう言うこともできよう。そういう瑣末な条件さえ合えば、人は、ほとんど誰とでも付き合えるのではないか、と。いやあんなやつとは絶対、と思う相手がいたとしても、彼と「相性」を合わせるチャンスは、可能性としては割合広く存在するのではないか。たまたま帰宅する方向が一緒だったり、たまたま十分間長く話す機会ができたり、といった程度のことで。

 こんな発想に至ったのは、あるいは、私が結婚したせいかもしれない。そんなことを言えば妻に叱られよう。しかしどう頭を捻って考えても、またどの夫婦を総覧しても、結婚は「たまたま」の産物としか私には思えないのである。

 向かいの仔犬たちを見せてもらった。柴犬にしては毛が浅黒い。何だかひどく凶暴な父犬だったらどうしようと空想してしまう。母犬のように、賢く大人しく、がこちらとしては理想ではあるが、まあこれも予定できない「相性」というやつか。飼ってみなければわかるまい。また、飼ってみれば解決する程度のことなのかもしれない。

 飼うかどうかは、あくまで未定である。しかし何より私は、たまたま向かいの家で、という偶然性に強く惹かれている。どうするかを決める前に、我々夫婦間では、犬に服を着せるべきか否かで、早くも揉め始めている。
 


コメント
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