た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

寝覚ノ床

2012年09月30日 | essay
 「寝覚ノ床」とよばれる渓谷を観に行く。何でも言い伝えによれば、かの浦島太郎が出てくる。浦島太郎は海の物語ではないか。何で渓谷なのだとパンフレットを開くと、ちゃんと説明が書いてあった。彼が玉手箱を手に意気揚々と浜に戻ってきた時、村の人々が一人残らず見知らぬ顔に変わっていた。衝撃を受けた浦島太郎は諸国を放浪し、最後にこの地に辿りつく。そしてこの渓谷の大岩の上で仮眠をとり、目覚めたら三百歳年をとっていたという。浦島氏はその後この地をも去り、行方知れずになる。浜で一気に三歳老け、渓谷の岩の上でさらに三百年も劇的な老化を遂げれば、精神の安定を図るのも容易ではあるまい。行方知れずにもなろう。気になるのは、どうやって三百歳年をとったことを認識したのかということである。
 渓谷に降りるには二百円の入場料をとられた。これは故浦島氏の遺志に反するのではないか。入場料をとる割には、大して整備されていない坂道を降り、手すり越しに遠くからその大岩を眺めるだけである。せめて岩の上に登ってみたかった。観光名所にならなければできることが、観光名所になった途端に禁じられる。
 ただ、幾枚もの屏風のようにそそり立つ白い岩は、確かに美しかった。

 人間は一瞬にして老け、朽ちゆく。何も太郎君に限ったことではない。
 自然は、人間よりもう少し長生きする。寝覚ノ床も、入場料をとる人も払う人もいない時代が来ても、しばしはその風光を保ち続けることであろう。
コメント
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