た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

奇跡について

2015年10月28日 | essay

   古典もときおり開くと、いろいろなヒントを与えてくれる。

   シェイクスピアの『マクベス』という戯曲の終盤に、バーナムの森が動く、という場面が出てくる。自分の主君を暗殺し王の座に就いたマクベスは、バーナムの森が動かない限り滅びることはない、という魔女の予言を信じている。森が動くなんてことは、奇跡でも起こらない限り不可能だからだ。ところが、バーナムの森が動いた、という報告を受ける。実は敵軍が木の枝を隠れみのにして進軍していたのだが、マクベスはその報告を聞いてひどく落胆し、自暴自棄になって最後の戦闘へと身を投げる。

   この話のポイントは、奇跡というものはたいがいそういうものだ、というところにある。別に奇跡を貶(おとし)めているのではない。むしろその価値を高めているつもりだ。マクベスを打倒すべく進軍する側は、バーナムの森の予言のことなど存ぜぬし、ましてや予言を覆(くつがえ)すつもりでカモフラージュしたわけでもあるまい。ただただ、暴君マクベスを打ち破るために必死で工夫を凝らし、その結果、マクベスの方からとってみれば、それが奇跡の実現に映ったのだ。ここでは、奇跡は絵空事でも虚構でもなく、確固とした行動である。

   人は生きていくうえで、幾度か、周囲にとっては奇跡としか見えないような結果を残さなければならないとすれば。そんなことがもし仮にあるとすれば、その実現に必要となるのは、超人の力でもなければ、いかに人を騙(だま)すか、という詐欺(さぎ)的思考でもない。明確な目的に向けたたゆまぬ努力であろう。

   そんなことをふと考えてみた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする