師走に入る前から気ぜわしい日々が続いている。何をしていても落ち着かない。私の性分なのであろう。事務用品を買いに車を走らせたら、遥か西方で北アルプスが冠雪していた。だが、その壮大な美しさをなんだか直視できないほど、今の私は気ぜわしい。
信号で右折待ちをしているときに、イライラと人差し指が動く。カーラジオは耳障りな音で単調なリズムを奏でる。
今日も下手な歌をうたった。
作り笑いを作り、トイレの中で舌打ちした。
今日も下手な歌をうたった。
誰かに傷つけられ、その分誰かを傷つけた。
ふと見ると、交差点の向かい側で、大人の腰ほどの背丈の少年が何かを右手に高々と掲げ、満面の笑みを浮かべてこちら側を眺めていた。手にしているのは、歯ブラシであった。それも人間の歯を何か月も磨いた後、別のものを磨くよう運命づけられたらしく、黒々として見事に毛の開いた歯ブラシである。
最初は車の中の私に向かって笑いかけているのかと誤解したが、どうやら道を挟んで反対側に立つ誰かに向かって笑っているようであった。少年の親族か、友人か。その人物を確かめたかったが、それは叶わなかった。ちょうど対向車の長い列が途切れたので、すぐさまハンドルを切り、カーレーサーよろしく大胆に右折しなければならなかったからである。この機を逃せば次のチャンスまでまた数分はかかる。心に余裕のない今の私には、とてもそれを待てなかった。
タイヤを軋ませながら大げさに車を回転させたとき、少年の満身に力を込めた叫び声が、閉めた車窓越しに聞こえてきた。
「ちゃんと磨いたよ!」
思わず私はブレーキをかけそうになったが、もちろん安全のためにそんなことはしなかった。車窓の景色はすぐに移り変わり、歯ブラシを掲げた少年も、彼と道路を挟んで向き合っているであろう人物も、はるか後方に置き去りにして、私は車を走らせ続けた。
今日も下手な歌をうたった。
ひどく疲れたと言いながら、そんなに疲れていなかった。
今日も下手な歌をうたった。
誰かの努力に感動して、自分も少しだけ努力した。
今日も下手な歌をうたった。
明日もまた、下手な歌をうたおう。
ハンドルを握りながら、静かな、長い嘆息が出た。どこかコンビニでも寄って、温かいコーヒーでも飲もうか、と考えた。別にコーヒーを飲まなくてもいい。少しだけ車を停めよう。できれば眺めのいいところで。風は冷たいが、我慢できないほどじゃない。車を降りて、少しだけ外の空気を吸おう。
まだ、北アルプスをじっくり眺める余裕は持てないにしても。