天気がいい。春が終わり、夏が始まる前で、暑くも寒くもない。午前中の仕事を済ませ、夕方からの仕事の前に自転車を走らせて松本城へ向かう。
松本に十年以上住んでいながら松本城へ向かうくらいだから、暇なのである。時間を持て余しているのだ。かと言ってじっとしていることも出来なくて、むしろ今日は何だか焦る気持ちすらはたらいて、気持ちいいというよりはどちらかと言うとちょっと陰鬱な気分で松本城へ向かう。
午前中に熊本の恩師からメールが届いた。私の出したメールに対する返事である。もう1週間も前に出したもので、私自身出したことを忘れていた。しかし本日ようやくインターネットが復旧したということで、無事を知らせるだけでも、と書いて寄越してくださったものだ。
松本城は花見の季節ほどではないにしても、観光客があちこちにぶらぶらしていた。藤棚のところで自転車を置き、ベンチに腰掛ける。松本城は眺めない。私にとってはそう珍しくもないからだ。目を閉じて、腕を組み、身を固くする。観光客たちの緩慢な足音や陽気なおしゃべりが耳に入る。
熊本の恩師は、余震が続くので、いまだ公園で車中泊をしている、とのことだった。だがそれもそろそろ限界かな、とあった。車中泊? どういうことですか? まだ熊本は、車中泊をするような事態なのですか?
目を開けたら、信州松本城がそびえていた。無傷で。当たり前のことだ。青空にそれは美しく映えていた。一方で九州の熊本城は、瓦が落ち、石垣が崩れ、見る者の口に思わず手を当てさせると聞く。熊本城は死んだ、というネットの書き込みもあった。
私は過去二年半、熊本市内に住み、三年間、南阿蘇に住んだ。
藤棚の、まだ伸びきらない藤の花を透かして入る日差しは、暖かく私の背中を叩く。
何なのだ。と私は自分に問う。何なのだ、この、不幸と幸福の近さは。
こんな風にしてものごとはひそかに時を迎えるのか。こんな風にして人は何も知らされないままその境目に立たされるのか。こんな風にして、人はある日、昨日までとはまったく違った太陽を見上げるのか。
何なのだ。
私は立ち上がり、自転車を押して、城を後にする。