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ハンチング帽と私は、その日三軒の飲み屋をはしごした。彼曰く、街のことを知るには飲み屋を回るのが一番だそうだ。
一軒目は『オールド・ロック』という名の、洋風居酒屋であった。酒樽に板を張った、やたら背の高い丸テーブルでビールを飲んだ。ハンチングは自分の名前を本田博と名乗った。私は古屋和彦だと自分の名を告げた。
「島根っていやあどんな所だ」
店内でもハンチングを被ったままの本田博は、ときどき通りかかる女性店員の尻をちらちら見ながらも私に話を振ってきた。
「何もない。何もないのがいい所だ」
そう言って私はギネスを舐めた。ギネスは舐めるようにしか飲めない黒ビールである。こんなに飲みにくいビールが世の中にあるとは知らなかった。
「そうか。松本も城以外には何もないけどな」
「山があるじゃないか」
「城と山か。ふん、十分だな」
店の扉が開き、四人連れが入ってきた。一人は背の高い白人である。取り巻きの日本人が必死に何か説明している。白人はいちいち頷き返しているが、パブのことなら自分の方がよく知っているとでも内心思っているかも知れない。
よそ者とはっきりわかる顔をしていれば、街はつねに温かい。
私は本田博の方に向き直った。
「君は何をしてるんだ、ふだんは」
「俺か?」彼はハンチングに親指を当て、まるで褒められたかのように得意げにふんぞり返った。「俺はこの街で、小粋でお洒落なフレンチレストラン、を、これから開店しようと準備しているところだ」
「これから?」
「ああこれから。松本の人間は田舎者だからな、古くて大きな構えの店ほど美味しい料理が食べられると勘違いしている。新しくて小さな店でも、手ごろな値段でびっくりするほど旨いものが食えるってことをわからせてやるんだ。今は上高地のレストランで修行の身だ。だがいい人材が見つかり次第、独立するつもりだ」
「ふうん。夢があるな。いい人材は見つかりそうか」
「今見つけた」
私はギネスの泡にむせた。「意味がよくわからんが」
「俺の持論だが」本田博はテーブルを指でコツコツと叩き、たった一人しかいない聴衆である私の注意を促した。「給仕をする人間ってのは、世の中で一番難しい仕事をする連中だ。押しが強くちゃ駄目だ。俺みたいなのは、だから駄目だ。自己主張が強いと、客はうんざりする。下手したら喧嘩になる。高い金払って食べに来てるんだから、あくまでも主役は彼らだ。そうだろ? 舞台はテーブル上の、客たちの笑顔であり会話だ。まかり間違っても厨房やフロアにはない。ここんとこを勘違いしている店が多すぎる」
彼はハンチングを脱いだ。天井の照明が反射するほどの見事な禿げ頭だった。
「松本って街は城下町のせいか、昔っから殿様商売が多いんだ。食べさせてやるからありがたく思え、くらいの高飛車な店がごろごろしている。その癖グラス一つ満足に磨いてないような、ろくでもねえ店が多いんだ。田舎なんだよ、結局」
彼は再びハンチングを深く被り、にやりと笑った。
「ウェイターってのは、客のそばに立ってても存在感を消せるくらいの人間じゃなくちゃ務まらない。かと言って、突っ立ってるだけじゃもちろん駄目だ。常に細心の注意で、すべてのことに気を配ってなくちゃいけない。客が何を欲しているか、グラスにワインは適量入っているか、テーブルクロスに染みはないか、客はそもそもこの滞在時間を楽しんでいるか。アンテナを四方八方に張り巡らせながら、しかもそれを客側に気付かれないようにしなきゃいけない。ハイレベルのさりげなさが必要なんだ。一見馬鹿みたいに単純素朴に見えながら、頭ン中はフル回転していろんなことを同時に考えてなきゃいけない。ところでお前さんは」
彼は太い指で私を指さした。「頭ン中の方はまだわからんが、少なくともスジはある。俺にはわかる。俺は料理人だ。言っとくが、かなりの腕前の料理人だよ。自分で言うのも何だが。どうした、どんどん飲め。旅してりゃどうせ金がなかろう。俺のおごりだ、遠慮するな・・・おい、あの娘・・・見えるか、あの娘だよ・・・いい体つきしてるなあ。ああいう娘に給仕してもらうのもいいな・・・いやいや。俺のレストランはキャバクラとは違うんだ。俺はフレンチレストランを開きたいんだ。キャバクラじゃねえんだ。なあ、俺は自分のことをよおくわかっているつもりだ。俺は料理が得意だ。だが我が強いから、接客は正直苦手だ。けどな。俺の料理をきちんと出してくれるウェイターを見つける目は、持っている。お前さんは、俺が探していた男だ。今は薄汚い恰好だが、いったん小奇麗な制服を着せてみろ。ツボにはまるのが、俺にはちゃあんとわかるんだ」
私は深々と嘆息してから、ギネスに口をつけた。彼の言葉の端々に散りばめられた率直なまでの暴言に、辟易するというより唖然としたが、何しろ彼がどこまで本気でどこまで冗談なのか、その真意がわからない。よって一言だけ返すにとどめた。
「俺は旅人だよ」
彼は大口を開けて笑いながら私の肩を叩いた。
「そんなこたあ百も承知だ! 馬鹿だなあお前は。だからお前が気にいったんだ。おい、飲みが足らんぞ! 島根県人はそんなにちびちび飲むのか? 早く飲め、次に行くぞ次に!」
(つづく)