「何でこんなことをした」
低いだみ声が、取調室の隅々までを揺さぶった。「答えろ。何でこんなことをした」
俊希は俯いて歯を食いしばり、何一つ答えずにいようと何度目かの決意をした。取り調べは八時間にわたり続いていた。頭は朦朧として一つの事をまともに考えられなくなっていた。ひどく疲れを感じ、じっと座っているだけでも体中が軋んだ。何一つ答えずにいようと決意したばかりなのに、むしろ立て板に水のごとくまくし立ててこいつら無能な捜査官たちををけむに巻いてやろうかという気がむらむらと起きてきた。とにかく、彼は無性に腹が立って仕方なかった。
「喉が渇きました」
「何?」
「喉が渇きました」
「そうか。喉が渇いたか。喉が渇いたろうな。おい、水を持ってきてやれ」
紙コップに水がさざ波を立てて運ばれてきた。
捜査官は、もたらされた水入りの紙コップを自分の側に置かせた。微笑みをわざと強張らせたような表情をして、彼は口を開いた。
「水を飲みたいだろう。そうだよな。俺も喉が渇いたよ。お互い疲れたよな、何時間もこんなことやってちゃ。なあ、何で今回のようなことをしようとしたか言ってくれれば、休憩にして、お互い喉を潤そうじゃないか」
「そういう・・・暴力は許されているんですか」
「暴力? 何が暴力だ」
「水を飲ませないのも立派な暴力じゃないですか。拷問ですよ。日本の法律じゃ、拷問は禁止されているんじゃないですか」
机を叩き割りそうな勢いで、捜査官の拳が振り下ろされた。俊希はびくっと身震いした。
「ふざけるな。お前は九人に切りつけてそのうち三人を殺してるんだよ。三人殺したんだぞ。お前とは何のかかわりもないし、お前に恨まれる筋なんていっこもない人たちばかりだ。みんなお前に刺されたときにゃ、喉の渇きなんてもんじゃあない、とんでもない苦しみにもがき苦しんだろうよ。喉が渇いただと? ふざけるな。自分がタガーナイフで刺されたらどれだけ苦しいか想像してみろ。え? 想像してみろよ。それとも何か。お前はお前に刺された人たちが苦しむなんてことを想像してなかったのか?」
俊希はひどく青ざめたが、努めて無感動に答えた。「想像してました」
「じゃあ何でこんなことやったんだ。言え。言ってみろ。人が苦しむさまを見たかったのか」
「苦しみなんて主観的なものだ」
「なんだと?」
捜査官は思わず立ち上がった。俊希自身、自分の発した言葉があまりに冷淡なことに驚いていた。部屋の隅にいた記録係の捜査官も手を止めて彼らを見つめた。狭い取り調べ室に汗の出るような緊張が走った。
「苦しみなんて主観的なもんでしょう。誰がどれだけ苦しんだか、どうしてあなたにわかるんですか」
唇が震えるのを自覚しながら、俊希は精一杯嘲るように言ってのけた。
捜査官が彼の襟首をつかんだ。鋼鉄で出来た様な固い拳だった。
「俺がお前に教えてやろうか。どれだけの苦しみかってことを」
ぼくだって、苦しんできたんだ、と、喉元まで言葉が出かかったが、呑み込んだ。自分を主語にして語り始めると、涙が出るかも知れないと、彼は思った。それはまずい。
「やっぱり暴力だ」
「何?」
「暴力だ。これは暴力でしょう。裁判で訴えますよ」
襟を掴む拳が緩んだ。その手が紙コップを激しく払い、紙コップは壁に当たって変形し、水が壁を滴り落ちた。
捜査官は椅子の音を立てて背を向け、取調室を出て行った。出て行きざま、低いだみ声で捨て台詞を残した。
「九人の人生分苦しめ」