た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

PRIDE

2018年10月10日 | essay

 

 誇り。

 誇りとは何だろうかと思う。

 自分を肯定することであるなら、自分を肯定すればそれが誇りなのか。それとも誇りを持つことで自分を肯定できるのか。

 「俺は今回頑張ったと思う。そんな自分を誇りに思う。」と人は言う。誇りに思わなければ、今回頑張ったことにはならない、というわけではない。頑張った事実は残る。うまくいけば周りの称賛も残る。それ以上に何が必要なのか。「誇りに思う」で伝えていることは、単に、「嬉しい」というぐらいのことに過ぎないのか。それとも、「よくやった」という自賛も含まれるのか。

 誇りは単なる、「自慢」なのか。

 ややこしいことに、他人を肯定することも、誇りである。

 「彼は私たちの誇りだ」とか、「彼女は日本の誇りだ」と言うとき、人は何を表明しているのか。ただ「自慢」しているに過ぎないのか。そうとは思えない。おそらく何か大事なことを再確認しているのだ。あの姿こそが、我々の理想であり、希望である、と。だからこそ、その姿に自分たちも勇気づけられるのだ、と。

 誇りはそれでは、「自信」なのか。

 誇り。 

 なんだかそれは、ギリシア神話に登場する、あらゆるものを寄せ集めた怪物のキマイラのようなものに思えてきた。

 人はなぜ拳を振り上げ、あるいは胸に手を当て、「誇り」を口にするのか。

 ほとんどそれがなければ生きていけなく、

 ほとんどそのためにだけ生きているかのように。

 すぐ手元にありながら、ずっとそれを探して生きてきたかのように。

 

 

コメント
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