た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

早朝の名古屋駅にて

2018年07月18日 | 断片

 夜行バスはさすがに寝苦しく、寝たのか寝てないのか判然としない頭で、私はぼんやりと駅構内にある喫茶店の一隅に腰かけていた。昨日、博多で知人の結婚式の披露宴と二次会を終え、その足で夜行バスに乗りこみ、十一時間かけて名古屋に着いたところだ。これから特急に乗り換えて松本まで戻り、帰れば早速本日の仕事に取り掛からなければならない。スケジュールがハードというほどでもないが、非日常から無理やり、ひと息つく間もなく日常に連れ戻されるという感はある。

 結婚式というのは、それがどんなものであれ、何かしら教訓的である。式場を後にする出席者各々にじっくりと考えさせるものがある。結婚とは何か。自分の結婚とは何だったのか。などなど。私自身は己の色褪せた日常のことを考えながら、駅のコンコースを行き交う人ごみを、見るともなしに眺めていた。珈琲はとっくに飲み終えていたが、電車までまだ時間があった。

 色褪せた日常、か。たしか誰かの歌にあった言葉だ。言い得て妙だ。と、この歳になってつくづく思う。

 テーブルに両肘を突き、背中を丸める。

 華やかさとは何か。何をすれば人はそれなりに華やかな人生を送れるのか。結婚式然り、華やかな式典の大部分は、虚飾である。しかし虚飾すら纏(まと)えない日々は、干からびた蛙の死骸のように虚しい。

 私はからっぽのマグカップを傾けた。先ほどからもう何度かそんなことを繰り返している。多少心がざわつき始めたのかも知れない。

 心を落ち着かせるため、私は深呼吸をして、窓ガラスの向こうに視線を戻した。

 通勤するサラリーマン。通学する女子高生。お互い手をひき合うようにして歩く二人の老婆。また女子高生。女子高生。サラリーマンの集団。リュックを背負いきょろきょろしながら歩く青年。パンパンに膨らんだ買い物袋を三つくらい手にした女。

 だんだん彼らの顔からピントが外れて行き、誰もがぼんやりとした輪郭になった。輪郭だけになってもなお、彼らは行き来し続けた。たくさん通るときもあれば、空(す)くときもある。一列に並んで行進しているように見えるときもある。

 ふつふつと、愉快な気分が湧いてきた。

 店内を流れる軽めのジャズに、まるで、窓ガラスの向こうを行き交う彼らが歩調を合せているような錯覚が、私を襲った。行ったり、来たり。大勢行ったり。数名来たり。俯いたり、前を向いたり、ほんのいっとき立ち止まったり。床は白いタイル張りである。しかしその白いタイルに人知れず鍵盤が隠されているのだ。その鍵盤の上を彼らが行き交うことで、一つの軽快な音楽を奏でているのだ。

 なんだ、と私は思った。みんな、揃ってそんなことをしてたんだ。私は笑いたくなる衝動をこらえた。そうか。そういうことか。一人一人は自覚していないけど、ここは、そういう場所だったんだ。

 鍵盤の上を、人々が行き交う。それぞれのリズムと音階で。一見ばらばらなようだけど、それらが複雑に交差し合い、調和をもたらし、止むことのない音楽となる。

 それが日常なのだ。

 私は立ち上がった。マグカップを返却口に戻し、トランクを引いて店の外に出た。そろそろ電車の入ってくる時刻である。睡眠不足で朦朧としている自分がわかる。だからこそ変なことも思いつくのだろう。しかし案外意識は明晰だ。いずれにせよ、戻らなければならない。私が戻りたいと思っている場所へ。脚は少々重くとも、歩けないほどじゃない。いつだって、人は自分の意志で歩くのだ。

 さあ、私もあの上を、歩いていこう。 

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