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奇跡のポスター

2023年01月26日 | essay

 物を大切にする癖が抜けない。

 そう書くと聞こえはいいが、実際は幼いころの刷り込みで、長く使わないで捨てるとバチが当たる、と、大人になった今でも本気でおびえているフシがある。

 大正生まれの祖母は、広告の裏紙でも丁寧にのして、取っておく人だった。祖父も、ずっと同じふんどしを履き続け、毎日自分で洗い、風呂場に干していた。もちろん「現代っ子」の私は、そんなやり方に首をすくめ、どちらかというと、大量生産、大量消費という社会の風潮の方に乗っかっていったのだが、それでも幼少期に老人たちの行動を見続けた記憶が、潜在意識となって澱(おり)のように残ったようだ。

 加えて、二人兄弟の末っ子であった要因も大きい。当然のように兄のお下がりを押し付けられた。帽子からズボンまですべて兄のお古。これにはさすがに抗議もしたが、母の「もったいない」の一言で撥ねつけられた。

 そうした生い立ちが、古いものを使い続けることに抵抗感を無くしていったのだろう。

 高校時代のセーターを三十過ぎまで着たり、中学時代の辞書をいまだに使い続けたり、家人にしつこく勧められても車の買い替えに踏み切れなかったり。それくらいならまだしも、使わなくなったCDデッキや使えなくなった掃除機を、いつかのためにと捨てきれないでいる。家人の眉を著しく顰めさせる原因となっている。決して自慢できることではない。

 アニミズムなのだろうか。物にはすべて、その形状と用途以外の何らかの「存在」感があると思ってしまうのだ。せめてその「存在」を全うさせてから屑籠なり市指定のごみ袋に放り込んであげたい、と思う。

 

 ちょっと話が怪しくなってきた。最近のエピソードで締めくくろう。

 

 先日、職場に見知らぬ人が訪れた。白髪交じりの男性で、丸めたポスターを手にしている。聞くと、この建物に貼ってあるポスターを、毎日通勤途中で見かける。自分は当時、そのポスターの制作を担当した者である、と。確かに一枚貼ってある。それも、ずっと貼ってある。美術館の特別展のポスターで、祈る女性が描かれている。依頼されて貼ったものだが、特別展の開催期限が過ぎてもはがさずにいた。いい図案だし、祈りのポーズが、現代の不安な世情に向けたものとしてぴったりな気がしたからだ。美術館側から剝がすよう注意されないかと内心ひやひやしていた。

 しかし、そのポスターはそこに当初のままの姿で「存在」し続けた。ここが何とも不思議なところだが、雨風に晒される場所にあり、決して特別な紙質でもないはずなのに、いつまで経ってもふやけも破れもしないのだ。そのポスターだけが。たとえ雨に打たれてふやけても、乾けば元のピンと伸びた姿に戻っている。他のポスターはそうはいかない。こうなると、女性が祈っている姿も、だんだん神々しく見えてきた。外すに外せなくなり、いつの間にか一年が経ち、二年が経ち、三年目になった。さすがに最近、色褪せてきて、そろそろ限界を感じていた矢先だった。

 白髪交じりの男性は、自分が担当した思い入れのあるポスターをずっと貼ってくれていることに感謝し、いつか挨拶に来たいと思い続けていたとか。手にしたものを広げてみせてくれた。全く同じ、祈る女性のポスターである。画鋲の跡があるが、色褪せはなく、保存状態もいい。おそらく、掲載後、思い出にと自宅に大切にとっておいたものであろう。それを私に譲ってくれると言う。

 お互いに何度も礼を言い合いながら、別れた。

 

 たかが紙一枚。でも貼り続けたことで、思わぬ出会いと感動があった。いただいた品は大事に保管しておくことも考えたが、いや、ポスターはやはりみんなに見られてなんぼのもの。そう思いなおした。色褪せた「祈る女性」をはがし、今までの礼をそっとつぶやき、同じ場所に、色鮮やかな「祈る女性」を貼った。道行く人は、突然色彩を取り戻したポスターにびっくりするだろう。それも、二年以上前の代物なのに、と。

 それを想像するだけで、ほくそ笑んでいる。


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