た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

無計画な死をめぐる冒険 50

2007年01月07日 | 連続物語
 呑み助二人が調子を合わせ始めた。唐島の舌も滑らかになる。
 「行き詰まりです。現代はいろいろな場面で行き詰まりを感じております。発展や進歩を無条件に信じて歩めた時代とはちょこっと様子が異なっている。環境問題しかり。環境問題は宇津木君もいつだったか紀要に書いてましたな。そういうグローバルなところへ行かなくても、日常社会を覗けばそこここに行き詰まりが見える。凶悪犯罪しかり。子どもが子どもを殺したりとか、何だか、昔は到底犯罪を犯しそうになかった層の社会構成員たちが犯罪者に駆り立てられている。それも昔の犯罪と違って、金目当てじゃない。ただ漠然と人を殺したくなったから殺すってんだから、物騒ですなあ。明らかに社会が病んでるんですよ。心に爆弾を抱えたまま、普段は何食わぬ顔をして街を歩いている人が、少なからぬ数いる。広く世界を見渡すと、南北問題は歴然として続いている。宗教対立、民族対立。二十世紀は何も解決しなかったんです。ええ。誇張を許してもらえば、二十世紀は何一つ解決しなかったんですよ。そしてすべてのつけを払わされるべき二十一世紀が来た。『つけ』というのがつまりは、欧米社会主導の世の中の行き詰まりですな。ま、経済的に言やあ資本主義の行き詰まりです」
 「そこだ。そこですわ。わしもそこを考えてたんです」
 資本主義のビールを飲んでいて何が資本主義の行き詰まりか。するめばかり噛み千切っていて何がわしもそこを考えていた、か。ついでながら解説すれば、人の話を途中で強引に自分の話にすり替えようとするのは、大裕叔父の昔からの悪い癖である。しかし唐島もそこは百戦錬磨で、なかなか素人に主導権を引き渡すことはしない。
 「そこをお考えでしょう。そうなんです。みんな、そこを気にするようになってきてはいるんですよ。人々が行き詰まりに気づき始めた。なんかこの世の中がしっくりこない。何かを変えなくちゃいけない気がする。そうしないととんでもないことになる気がする。でも、何をどう変えていいのかわからない。そりゃそうです。人々はみんな、今の社会の常識、という枠組み、これを我々はパラダイム、と言ったりしますけどね。まあ哲学用語です。その常識の枠組みの中で、今の社会を批判しようとしても、無理なんです。難しいんです。野球をしている人が、次の打席にサッカーボールを蹴ったらどうかなんて考えつかないのと一緒です。常識という社会のルールは、意外なところでわれわれの言動をぎゅっと縛り付けています。そこで哲学です」
 唐島は旨そうに二杯目のビールを喉に流し込んだ。
 「哲学者は、そもそも、という基礎の部分から疑ってかかります。常識を疑います。今の世の中で当然のように思われていることを疑います。疑うことが哲学の仕事の重要な一つです」
 「疑うこと」
 「ええ」
 「ほお」
 叔父は急に話の主導権を明け渡してもらって、逆に戸惑っている。
 「疑うことですか。ふむ。人に生きる道を指し示すのとは、違いますかな」
 「違いますね」
 女の笑い声がして、二人の会話は途切れた。

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 51

2007年01月07日 | 連続物語
 ガラスが割れるのと、女が高笑いするのは、周囲に及ぼす効果にさして変わりがない。声の太さと遠慮のなさ。声の主は探すまでもない、妹由紀子である。雑巾顔にセピア色の偏光グラスである。兄の通夜の席でも平気で大口を開けて笑える二十一世紀的神経である。
 一同の視線は当然ながら彼女に集まる。
 注目の女は何人かの背中を屈めさせながらゆったりと部屋を横切り、叔父の隣に腰を下ろした。
 空のグラスを持ち上げる。
 「なるほどねえ。ようやくわかったわ。兄さんが身内に対して疑り深かったのは哲学のせいなんだ」
 「身内を疑ってたのかい」と意外な表情の大裕叔父。
 「信用してなかったもの。ちょっと、私にもビールちょうだい」
 誰も合いの手を入れられない。当たり前である。仏を前にして話題が不謹慎すぎるのである。本人は居場所を心得ているのだろうか。それともやくざ眼鏡には、眼前の私の棺も映らないのだろうか。
 よっぽどビールを飲みたかったんだろうと思われるような飲みっぷりで、彼女はグラスを半分干した。親指で口元の泡を拭ってから、長い吐息をつく。
 「身内だけじゃないね。誰も信用してなかったんじゃないかな。ま、それよりも哲学の話だったっけ」
 「え? ええ、そうですがね」
 唐島は口ごもる。唐島は俗物である。俗物はしょせん学問よりもゴシップの方が断然好きなのである。彼は由紀子の話題の方に引き寄せられている。「宇津木さんは誰も信用してませんでしたか」
 「その話? そうねえ」
 うそぶくセピア色のレンズの奥に、ひどく醒めた目つきがある。愚痴を周囲に漏らすときはいつもそうだ。妹のしゃべり方は四十年前からまったく変わっていない。
 「信用かあ。信用ってさ、私ゃどういうことかよくわかんないけど。でも兄さんは誰も信用してなかったね。確実よ。だって誰も自分を愛してないと思ってたんだもの。そういうこと。誰も自分を愛してないと思ってたのさ。みんな自分を嫌ってるくらいに思ってた。だから人嫌いになったのよ」
 空咳をした者がいる。見れば大仁田である。どうも非難の意味より、賛同の意味合いが濃い咳である。
 併せて鼻で笑った輩もいる。見れば、息子の博史である。不届き千万。
 家を囲む地鳴りのような雨音が、私の代わりに怒りを伝える。

 由紀子は煙草を口にくわえた。何を考え込んでか、火も点けずにそれを下ろす。
 「いつだったかなあ。そう、兄さんが教授になりたてのころか。もう十年も前になるわねえ。兄さんの誕生日だってんで、ふと思いついて贈り物したのよ。贈り物。普段は全然しないんだけどさ。ちょっとした絶交状態が続いてたしね。でもお互い大人になったんだし、平和な仲を取り戻すきっかけになればいいしって私は思ってね。私はね。ま、教授へ昇格祝いも兼ねてってところよ。へ、ちっちゃなポーチをね。バレンチノだけど。それを手渡しで贈ったのさ。兄に。誕生日おめでとうって。懐かしいなあ。そしたら兄さん、なんて言ったと思う。ちょっと、なんて言ったと思う。真顔で、『何を狙ってるんだ』だって。『何を狙ってるんだ』だよ。私ポーチをもぎ取って奪い返しちゃったもんね。あんまり腹立ったから。そりゃちょうどさ、こっちの資金繰りの悪かったころでもあったのよ。そういう時期と重なってたのは、そりゃ確かだけど、でもそりゃないでしょ。こっちも兄さんなんかに借りる気なんてさらさらなかったし。『何を狙ってるんだ』だよ。プレゼントに対して。びっくりするわねえ。『何狙ってるんだ』って言われてごらん。実の兄に。兄じゃなくてもありえないわよ。もんのすごい被害妄想よ。世の中の人全部が何かしら悪意を持って自分に擦り寄ってくるんだと思い込んでたみたい。寂しがり屋の癖に、近づく人をみんな警戒するのさ。根は寂しがり屋なのにねえ。寂しいのに、人の好意を素直に受け取れないのよ。だから疑うのよ。疑って、疑って、とにかく疑うの。周りの友人知人、肉親兄弟すべて、誰でも、いつか自分を裏切るんじゃないかって疑って、そんな不安をさ、酒で紛らわせたんだかどうだか、知らないけどさ、ぽっくり逝っちゃったんだから、何だか可哀想じゃない?」

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 52

2007年01月07日 | 連続物語
 焼香の煙が二筋、静寂を見下すように立ち昇る。
 話題の人の棺桶を前にして、唐島は由紀子にどう相槌を打てばいいのか躊躇している風である。馬鹿である。棺桶の方を伺っても仕方ないのだ。私はここに立っているのだ。お前の背後に。お前の背中を蹴り上げたいが蹴り上げられないだけなのだ。由紀子の鼻の先にも立ってやったのだが、不感症不道徳女は何一つ感じることなく平然として煙草に火を点けた。
 世に妹ほど持たぬが利口なものはない。娘であればまだ親たる我が身の自業自得と諦めもつく。しかし妹の責任は兄にはない。まるで勝手に背負わされた親の借金のようなものである。実際私は彼女に三万を貸したことがあるのだ。それも学生のときである。当然のように踏み倒された。そういう経緯があるから、私はバレンチノにも眉をしかめたのだ。バレンチノの前に三万を返すべきなのだ。「あんまり腹が立つ」だと。ありがたい、まさにこちらの探していた台詞である。私がみんなを信用しなかっただと。笑止。みんな私に悪意を持っていると、私が思い込んでいただと。その通り。その通りである。たとえばお前のような妹が、実の兄の死んだ通夜の席で兄を罵るようなことを、私は生前から恐れていたのだ。 
 「ま、そこまで疑り深く用心深いことが、まさしく、彼をして哲学者ならしめたのかも知れませんな」
 唐島は全然とんちんかんな返答をしている。由紀子の妄想を認めてどうするのだ。
 「そうなのかなあ」
 由紀子も満更でもない顔で頬杖を突く。
 「そんな哲学なんてえ糞食らえだ」
 叔父が勝手に結論を引き受ける。

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 53

2007年01月07日 | 連続物語
 哲学に糞を食らわされたら、私のみならず唐島だって本意ではない。彼は論筋の修正を試みようとした。大風呂敷を広げるときの彼のいつもの癖で、右手で左の二の腕を執拗にさする。先ほどは自分が長広舌を振るうつもりが由紀子にお株を取られたので、今度こそ話の主導権を握るつもりである。
 「それは、あるいは、現代社会と個人主義というもっと大きな問題に行き当たるかもしれませんな」
 「ほう、資本主義の次は個人主義と出たか」と叔父。
 「個人主義です。個人主義は資本主義の土壌にしか育ち得ないのです」
 新しく来た近所の弔問客が、目をしばたたかせて肩をすくめながら脇を通っていく。五軒先の酒屋の旦那とかみさん。八十一歳になる町内会長。藤本内科の奥さん。みな頭の中では必死に、私の死と小耳に挟んだ主義とやらとを関連付けようとしているのだろう。
チーン、とお鈴が鳴る。
 「先ほど私はパラダイムということを申しましたが、まあ一種の知識の檻のようなものですな。哲学は檻の外から、つまり資本主義社会とか経済とか自由とかいった現代のパラダイムの外から内に対して批判を加えようとする。しかし檻の外に出ることは当然ながらとても難しいことでして、骨の髄まで染み渡っている今日の常識をいったん度外視することなんざそう簡単にはいかんのです。我々がふだん気づきもしない精神の奥底のレベルで、我々の行動を支配している、そういう今日的常識というものがある。その際たるものが個人主義です」
 「夏目漱石も個人主義のことを書いてましたな」
 そう口を挟んだのは、近所でも指折りの暇人として知られている地主のたっちゃんである。まだ四十代だが、親譲りの土地にマンションを建ててその一軒の家賃収入だけで一家三人を養っている。
 「あんた夏目漱石を読んでなさるか」と叔父。
 「いえ、『新潮流』で特集してましたんで」
 「けっ、雑誌の解説で通人ぶるのは止してもらいてえな。旅行雑誌を読んでその土地に行ったかのように自慢してるのと一緒だ」
 「そういうあんたは読みなさったのか」
 「わしか。わしは『坊ちゃん』も『先生』も読んだ」
 「そら教科書で読んだんだ」

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 54

2007年01月07日 | 連続物語
 「まま」唐島が仲裁に入った。彼はまた話の主導権を奪われつつあるのである。大学の教師なんてものは、教壇という権威に体を支えられてこそ、一時間も二時間も独演会をぶつことができる。空手ではどうも威勢が足らない。学会の討論なんて武芸で言えば演武、市井の乱取りに下手に手を出すべきではないのかも知れない。
 「ま、夏目漱石と個人主義でしたな。漱石はまさに時代に先駆けて警笛を鳴らしたのです。彼は実に先見の明があった。個人主義とは、一言で言えば」
 ほう一言で言えば、と合いの手を入れたのはたっちゃんである。
 「不信です」
 「不信」と叔父。
 「不信です」と空であることに誰も気づいてくれないグラスを見つめながら、唐島は繰り返す。「他人を根底で信用しないところから自立の精神は始まるのです。違いますかね」
 「夏目漱石もそういうことを言ってましたな」
 たっちゃんが懲りずに漱石を持ち出す。暇も金もある代わりに生きがいの無い境遇の男である。他人の会話の中に自分の存在意義を見出そうと必死である。

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 55

2007年01月07日 | 連続物語
 「雑誌記事は黙っとけ」叔父は彼の存在意義をばっさりと切って捨てる。「明治には明治を任せておけ。今は平成だ馬鹿野郎が。それより唐木さん、わしはあんたの不信論に興味があるのお」
 「唐島です。また逸れ始めましたな。あの、注いでいただけますか」
 「おお済まん、済まん。唐木順三と間違えたのかな。いずれにせよ、不信ですな」
 「不信です」
 唐島はグラスに口をつけながら大きく頷く。
 まだ当分止みそうにありませんな、という遠くの会話がかすかに聞こえてきた。
 「不信、と言っても、信じられないんじゃない。いいですが、ここが大事なところだが、信じられないんじゃない。むしろ信じたければ簡単に人を信じられる。現代くらい人間の種類に意外性の欠如した時代もない、と私は思っとりますからな。明智光秀の出現を恐れる心配はない。代わりに精神異常者が増えたが、まあ正常な人間であればだいたいが小市民的に善良である。だから信じられる。でも、信じちゃいけない。倫理として、信じちゃいけない。You cannotではなく、You should notとして、信じちゃいけない。そういう意味における不信です。むしろ他人を尊重し、尊重するが故に、他人をとことん信用することを控える。そういう禁欲的な態度においてのみ、先ほど申し上げたように、自由の精神は成立するのです」
 「このたびは誠にご愁傷様です」
 八十一歳の町内会長が、彼らの会話をまったく無視して割り込んできた。土下座をし、 大裕叔父と由紀子に向かって深く頭を下げる。
 「え、ええ。誠に。ありがとうございます」
 面食らった叔父は慌てて頭を下げ返す。面食らったにしてもひどいことを言う。枕元に呪って出るべし。
 冷血女由紀子に到っては、お辞儀を返しすらしない。軽くおざなりの会釈だけして、また唐島に向き直る。
 「なんだかよくわかんない話ね」

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 56

2007年01月07日 | 連続物語
 「私はね」
 唐島は三杯のグラスを空にして、少々ろれつが怪しくなってきている。「私はね、彼と・・・宇津木君と、つい最近さしで飲み交わしたことがあります。言いましたっけ。言ってないかな。この家に呼ばれましてね。その晩は、学問を超えて、いわゆる人間性というものについて話を深めました。人間とは何かについてね。いいですか、その席上で宇津木君ははっきりと、生きるということについて『寂しい』と私に言ったんです」
 私は絶句した。口を開いたところで誰も聞いてくれるわけではないが。しかし私は絶句した。そんな言葉を唐島に向かって口にした覚えがない。
 「ほら、私が言った通りじゃない。兄は寂しがり屋だったのよ」
 軽薄女由紀子は我田引水して喜んでいる。
 「寂しいか」叔父は鼻ひげを指でつまんで考え深げである。「思えば寂しい男だったかも知れんなあ」
 「なぜ寂しかったと思います」
 唐島はにやりと笑って挑発的である。そんな答えは、言ったとしても本人である私にしかわからないはずだが。
 「だから他人が信じられないからでしょ」
 由紀子は唐島の議論を根本的に聞いていない。
 「信じられないんじゃない。信じちゃいけない、私はそう言いましたよ」
 紅潮して脂光りする彼の顔が由紀子に近づく。
 「単に信じられないと言うんなら、寂しくはならないはずです。悔しくはなってもね。 悔しくはなります。悔しくはなりますわ。水泳で百メートルを泳げなかったら悔しい。悔しいんであって寂しいんではない。できることを禁じられたとき、人は初めて寂しさを覚えます。いいですか、できるのに、という未練がそこにあるから寂しいんです。会える人に会ってはいけない。飲める酒を飲んではいけない。寂しいですね」
 「寂しいなあ確かに」
 たっちゃんがどうでもいい相槌を打つ。

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 57

2007年01月07日 | 連続物語
 「信じたいし信じることもできる人々を、信じちゃいけない。これもとても寂しいことですね」
 今度は誰も相槌を打たない。みな神妙に唐島の講義の結論を待っている。
 「宇津木君は、故人は、そういう寂しさを味わっていた一人でしょう。私はそう思います。そしてその寂しさは、彼のみならず、現代社会の知識階級───と言ってもそんなに大層なものじゃなく、まあ、せいぜいある程度の学歴を持つ人間なら、誰でもと思いますがね───つまりは、いやしくも個人主義と自由主義の意味を理解する人間だったら、誰にでも広く共通して見受けられる、これは不可避的な寂しさだと思うんです」
 「学歴にこだわるのは、どうかと思うがな」
 大裕叔父は、ことさら固そうにするめを噛み千切った。
 「ま、続けて」
 「ええ、続けます。宇津木君は、学問をした人間として当然ながら、ま、学問はさほど関係ないとしても、精神が自由でありたい男だったんですよ。精神の自由です。わかりますかな? 何ものにも縛られたくないという欲求です。しかし自分が自由であるためには、前提条件として他人の自由を認めなくちゃ成り立たない。そのことも彼は重々承知していたんですよ。他人の自由を認めるってことは、互いに干渉しないってことです。他人に頼らない、少なくとも頼り過ぎないってことです。他人を突き放して見る必要があります。彼らが自分を裏切るのも彼らの自由の内、とくらいに覚悟してなくちゃいけないんですよ。覚悟です。寂しい覚悟です。干渉し合わないというのはそういうことです。互いが自由でいる、というのはそういうことです。どんなに親しき仲でも、心のどこかでその寂しさを受け入れなきゃ人間関係が築けないんですよ」
 「宇津木は、私に干渉しました」
 あろうことか美咲が口を挟んだ。居合わせた面々は皆息を呑んだ。

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 58

2007年01月07日 | 連続物語
 束の間、動くものは香の煙ばかりである。
 数珠の揺れる音。美咲の膝を握り締める拳に巻かれた数珠である。吊り上がった目は潤み、汗ばむこめかみに青筋が立っている。
 この女は、私を殺してまでも欠席裁判にかけようとしているのか。
 「奥さん、ですが」
 唐島の声は動揺している。
 「手を上げて、干渉しました」
 「はあ、しかし」
 「宇津木は、私の自由とやらを認めていたのですか」
 猫背の父親が何かぶつぶつとつぶやいた。目下の話題とは関係なさそうである。
 私は唖然とした。この静寂は何なのか。雨の音でも聴くためか。これだけ私の弔いに集まって、死者に冒涜の言葉を連ねる美咲を、誰一人咎め立てしようとしない。私がこぶしをひたいに当てて誰にも聞こえない呻き声を上げていたら、「これ美咲」という控えめなたしなめの言葉が飛んできた。義父である。結婚以来二度ほど、婿である私にくどくどと回りくどい苦情を言ってきた痩せぎすの老人である。胃が半分しかないから始終陰気な顔をしているが、私の父親と違ってぼけてはいない。しかし彼のせっかくの諌めも「これ美咲」の一言で終わった。その後が無い。それで実父としての責任は全うしたと思っているらしい。小太りした義母が喪服の裾を手で揉みしだきながら、夫の隣で表情だけひどく心配そうに事の成り行きを伺っている。
 事の成り行きなど伺っていないで錯乱した我が娘をすぐにでもしょっ引くべきだが、二親とも動こうとしない。諫言は体裁上、どうやらこの際娘に全部胸の内を吐かせてしおうという魂胆か。
 親のしつけがこうだから、美咲は野球部のマネージャー時代から、時おり、自らの分とその場の雰囲気を弁えない暴言をする癖があった。試合先の宿舎でリラックスのためトランプの賭け事に興じている部員を目にしたときは、手にしていたスコア表を投げつけた上、「出場を辞退したらどうですか」と監督に掛け合って騒動になった。偏狭な正義感だけで周囲に多大なる迷惑をかけて平気なタイプの女である。普段の寡黙を帳消しにして余りある癇癪を時折起こす。今もまさにそれである。

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 58.5

2007年01月07日 | 連続物語
 二十余年私を冷たく見据え続けてきた狐目が、待ち望んだ復讐に爛々と輝きを増して我が棺桶を凝視する。
 「蹴られたこともあります。文鎮で殴られたこともあります。自由を認める人だったなんて、とても」
 美咲は嗚咽をこらえるようにハンカチを口に当て、ようやく押し黙った。

 誰も発言者を責めない。民主的な参拝者たちは戸惑いの表情を浮かべこそすれ、皆、悲劇の主人公でも見るかのように妻を見守っている。大仁田に至っては爬虫類の眉を吊り上げて、全てを知り尽くしているとでも言いたげにうなずいている。
 叔父が私の遺影を見やって嘆息交じりに舌打ちした。
 「釈明せい邦広」
 由紀子が気だるそうに煙草の煙を吐く。
 「故人だからって、あなた持ち上げすぎよ」
 唐島が参ったように頭を掻く。
 ああ、神よ、存在するならば汝の奇跡でもって死人に口を与え給え。死してなお虐げられる憐れな子に弁明の機会を与え給え。中世ヨーロッパの魔女狩り裁判でも、かつてこれほどの不条理があったろうか。

(つづく)
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