た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

無計画な死をめぐる冒険 90

2007年06月15日 | 連続物語
 能登半島の海の色を私は忘れない。
 それは二人で行った唯一の旅行であった。金沢で開かれた学会がその好機を与えてくれた。学会そのものはらっきょの皮剥きのように退屈であったが。らっきょの皮を剥いた経験は私にはない。
 六月初旬のよく晴れた午後、弓なりに延びる人気の無い砂浜に、我々は車を乗り付けた。タイヤが砂を噛む音がした。エンジンを停めると浜風がごう、と鳴った。
 私も雪音も座席に座ったまま、車から降りようとしない。車窓越しに、まるで古い映画を観ているように白波立つ日本海が広がる。浜風が強い。しかし空は青い。
 「誰もいないのね」
 雪音が助手席でつぶやいた。よく梳いた短い髪を座席に押し付けて、彼女は海を眺めている。一方の私はハンドルに両腕を乗せ、前のめりになって海を見つめる。太平洋育ちの私に、日本海は大変黒く見えた。
 「降りないの」
 「降りたけりゃ降りろ」
 雪音はしばらく沈黙した。ああ私は、このときの会話を一言一句覚えている。私たちは二人とも疲れていた。

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 91

2007年06月15日 | 連続物語
 「海の水、やっぱりまだ冷たいかしら」
 「降りないのか」
 「邦広さん、私のこと飽きた?」
 私はしかめ面を彼女に向けた。
 「どうしてそんなことを言う」
 「だって」
 泣きそうな顔で雪音は小指の爪を噛んだ。「だって、今朝からほとんど口を利いてくれないじゃない。なんだか・・・大事な話があるけど言い出せないみたいな感じで」
 私は殊更大きく嘆息した。彼女の言っていることはおおよそ正しかったからだ。
 「別に何もない。降りないのか」
 「邦広さんは」
 「降りる」
 「じゃあ降りましょうよ」
 「待て」
 私の声に、ドアノブを握る彼女の手が止まった。私はそのとき、顔を両手で覆っていたはずだ。覆うだけでない。私は自分の顔を握り潰そうとしていた。
 「雪音」
 返事はない。彼女は静かに私の言葉の続きを待っていた。勘の鈍い女ではない。彼女は覚悟していた。一方の私は逡巡していた。
 海鳥が空で鳴いた。
 「もう終わりだ」

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 92

2007年06月15日 | 連続物語
 言い終わっても依然、私は助手席に顔を向けることができなかった。予め用意してきたのは「別れよう」という台詞であった。なぜだかそれを口にすることはできなかった。
 隣から吐息が聞こえてくる。それから鼻をすする音。私は顔から両手を降ろし、雪音に振り返った。白いTシャツ姿の雪音は下唇を噛んで、静かに泣いていた。
 彼女のそういう女々しい面を、私はときに愛し、ときに憎んできた。いや同時に愛し憎んだ、と言うべきか。能登の海を前にしたこの場面でもそうであった。別離の言葉を自ら口にして、なお哀しみがあった。切ない愛しさがあった。その一方で、かの女に対する抑えようのないむらむらとした腹立たしさを覚えていた。この道理抜きの腹立たしさが危険であった。
 狭い車内に感情の排気口はない。
 雪音は何かを否定するようにゆっくり首を振った。細い肩が嗚咽に上下している。
 「仕方ないのよ。仕方ないよね。してはいけないことしてたんだから。いつか終わらなきゃいけなかったんだから。私ずっとそう言って来たでしょ。奥さんにばれたの?」
 「いや」
 「じゃあ・・・どうして」
 「同じことだ」
 「同じこと? 何が同じことなの」

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 93

2007年06月15日 | 連続物語
 「疑っている。目つきを見ればわかる。ばれてはいないが・・・ばれているのかも知れん。いや。おそらく知っている。知った上で黙って見ている」
 私は苛々してダッシュボードを叩いた。「猫が鼠を弄ぶような真似は止せ、ポルフィーリィが! いつだって・・・今回だってそうだ。今回だって。出張の話をあいつにしたら『お一人ですか』と聞き返しやがる。『お一人ですか』『馬鹿野郎、当たり前だ。誰と行くんだ』って言い返したら、『いえ、大学の方と』って答えやがった。『お一人ですか』だぞ。『お一人ですか』なんて、そんなことを今まで口走ったことはないんだ。『大学の方』って何だ。狐が。ばれてしまっている。いや、安心しろ。お前のことは知らない。お前の存在はあいつも知らないはずだ。だが何かに勘付いている」
 「ばれたら」
 雪音は濡れたまつ毛を立てて海を見つめる。怒っているように見える。
 「ばれたら、博史君が可哀想よ」
 「お前の知ったことじゃない」
 「どうしてそういうこと言うの」
 「つまり、お前の家族じゃないからだ」
 この一言は雪音をひどく傷つけたように見えた。彼女は唇を震わせながら、私の捲り上げた袖の上を掴んだ。
 「そんな言い方ひどい」

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 94

2007年06月15日 | 連続物語
 「馬鹿野郎。事実を嫉むな。お前が博史のことまで心配する必要はない。それだけのことだ」
 我ながらよくもこう憎々しげに言えたものである。車内が息苦しかったのである。私の袖を掴む手の力が抜けた。
 私が雪音をひどく侮辱したのは確かである。そんなとき、雪音は決して憤慨を顕わさない。抗議もしない。いつでも俯いて未完成の石膏像のように死んだ目をするのである。おそらく生まれてこのかた間断なく降りかかってきた数々の苦難に対し、俯いてやり過ごすしか彼女には術がなかったのであろう。
 「そうね」
 喉にこみ上げてきたものを抑えて、彼女は一つ深呼吸する。
 「そうね。私は邦広さんの家族とは何の関係もないものね。赤の他人なんだもの。最初から、最後までね。見て。船」 
 雪音が指差す沖合いを、漁船が横切りつつあった。青黒い海の波間の小さな漁船。一年以上経った今も、私はそんな些細なことまで覚えているのだ。雪音がそのとき指差したからであろう。船は白波を長く曳いていた。まるで大海原を二つに仕切る作業でもしているように。だが、とそのときの私は思った。だが、そうだとしたら実につまらない作業である。どれだけ丹念に線を曳いても、どうせすぐに消える。船は去り、青黒い海は残る。渾然たるものは渾然としたまま残るのである。
 我々はまたしばらく沈黙した。波の音を聞き、風の音を聞いた。
 傍から見れば、まるでそれは始まりすら迎えていない未成年の男女のようであったろう。実際のところは終わりを迎えた大人であった。大人の女は涙を拭った。弱々しくも、微笑みさえした。
 「わかったわ。別れましょう」

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 95

2007年06月15日 | 連続物語
 「雪音」
 「もっと早くそうしたらよかったのよ。そうでしょう?」
 「雪音」
 空気を入れ替えるべきであった。車内はもはやどうしようもないほど暑くなってきていた。私の声は震えていたはずだ。本性の私は永遠に大人にも子供にもなれない。獣にしかなれない。忽然と沸き起こる欲望を意識しながら、私は自分をどうしていいかわからなかった。
 気がつけば、獣の手は女の細い腕を鷲のごとく掴んでいた。
 「痛い」
 蒼褪めておののく顔を、強引に引き寄せた。
 「嫌」
 「雪音」
 「何をするつもりなの。別れるんでしょう、私たち」
 私は暴れる彼女の両腕を抑え、自由を奪った。正にケダモノである。畜生である。それが私のいつものやり方であった。ただそれまでと決定的に違うことは、彼女が泣きながらあらん限りの力で抵抗したことであった。
 「やめて。別れるんでしょう。それなのに、こんなの酷過ぎる」
 私は彼女の両手を掴んだまま座席を倒した。
 「酷い。それって・・・私って、やっぱりただのおもちゃなの」
 鈍い音がした。私の手の平が彼女の頬を張ったのだ。手の平の痛みを感じてようやく、私は自分が彼女をぶったことを認識した。彼女が私をぶったのではなく、私が彼女をぶったのだ。だがそのときの私にはどちらでも同じことであった。獣は続けて彼女のデニムスカートのボタンをもどかしく外しにかかった。懺悔する。私は雪音の悲劇に興奮していた。ずっと、彼女と出会ってからいつでもそうではなかったか? 私の愛はそういうものでしかあり得なかったのではないか? それに愕然とする理性的な自分が、しかしながらまだどこかに残っていた。私は手を動かしならもうろたえた。彼女の頬を張ることで、私は彼女の懐疑に肯定の答えを返してしまったのだ。違う。雪音よ、違う。お前は────上手く言えない。しかし決して、おもちゃではない。
 当然ながら一連の動作のため、鉄枷のような私の手は彼女の腕から離れていた。その上、私自身の戸惑いがあった。雪音がかつて見せたことのない憎悪の目で私を睨んだせいもあったろう。一瞬の怯みであった。

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 96

2007年06月15日 | 連続物語
 怒りに赤面した三十八の女は、その機を逃さなかった。どこにそんな力が隠れていたのかと思われるほど強く私を押しのけ、車のドアを開けて外に転がり出た。文字通り、転がり出たのだ。
 彼女の開け放ったドアから、大きな風が車の中に舞い込んだ。砂塵に私は思わず目を閉じた。目を閉じたまま彼女の名を叫ぶ。そんな私を拒むようにドアが乱暴な音を立てて閉まったのは、風のせいであろうが、そのときの私には悪魔の仕業かと思われた。私は運転席側のドアを開け、つんのめるようにして車の前を回りこみ、雪音の前に立ちはだかった。(私が望んでいた別れ方は、こんな風ではない。)
 息が荒れる。砂が足に重い。
 空を流れるのは海鳥である。
 足元を這うのは雪音である。
 笛森雪音は流木のように汚らしく砂にまみれていた。頬の砂は流した涙のせいであろう。彼女は立ち上がれなかった。私が心ならずも引きちぎったスカートのボタンの箇所を手で押さえ、銃口を突きつけられた負傷兵よろしく砂浜を後ずさりした。
 まったく、兵士が殺される直前に敵を睨むように、雪音は私を見上げていた。

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 97

2007年06月15日 | 連続物語
 不愉快であった。私の胸の内を明かせば、不愉快であった。私はこのような、互いに醜態を晒す別れ方を望んでいたわけではない。雪音はなぜ汚らわしいものでも近づいてきたかのように後退りするのか。私はなぜあんな衝動的な行為に走ったのか。ボタンを千切るような野蛮な真似を! 湿り気を帯びた風が強く吹きつける。なぜこの女は馬鹿みたいに砂まみれで泣いているのか。なぜ・・・・我々は見られているのか。
 車外に出るまで気づかなかったことだが、海岸にいるのは我々二人だけではなかった。我々は監察されていた。表情が判明しないほど離れた波打ち際に、六歳くらいの少女がいたのである。しゃがみこんで、ままごとのスコップを使ってバケツに砂を詰めていた。あるいは違うものを詰めていたのかも知れないが、遠目にはわからない。どうでもよい。子供というのはつくづく詰らぬ遊びで大人の邪魔をするものである。加えて、無遠慮に見つめる、という誠にはた迷惑な特技を彼らは持っている。車から飛び出した我々二人の存在に気づくと、少女は棒立ちになり、口をあんぐりと開けてこちらを見つめた。
 事態を穏便に収拾させるには、浜辺はあまりにも茫洋として広い。

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 98

2007年06月15日 | 連続物語
 私は額に汗していたと思う。一歩、砂音を立てて歩み寄った。
 「雪音。悪かった。思わず手が出てしまった。────動転していた。私自身。ぶつ気なんてなかったんだ」
 潮のにおいが鼻を突く。日本海は実際、臭いところである。
 「雪音。車の中に戻ろう。取り敢えずだ、車に戻りなさい。子供が見ている」
 雪音の反応は鈍い。催眠にかかったような目つきで、呆然として首を横に振る。
 「やっぱり間違っていたのよ」
 魂の抜けた声。「私たち、今に天罰が下るわ」
 「馬鹿を言うな」私は苛々して彼女の左腕を掴んだ。「車に戻るんだ」
 この御時世にいまだ天罰云々を口にする者も稀有である。しかも底抜けに人が良い。強姦もどきの真似をされても、天罰が下るのは「私たち」であって「あなた」ではない。そこまで善良な女なのだ、雪音は。あるいはどれだけ私を憎んでいても、気弱さゆえに善良にしか振舞えない女なのである。もはや哀れを通り越して滑稽である。別れ話を持ちかけられ、スカートのボタンを外され、殴られ、砂にまみれ、車に戻れと言われて、それでもなお静かに首を横に振りながら従順に随うのである。
 だがそれは私の誤解であった。

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 99

2007年06月14日 | 連続物語
 雪音は反抗した。手中の魚が突如のた打ち回るように、雪音は不意に反抗した。左腕を引き、私の手を振り解いた。のみならず驚いたことに、再び腕を掴もうとする私に向かって砂を振り掛けた。いや、いや。故意ではあるまい。転んだ拍子に握った砂が、弾みで飛んだのだろう。雪音がそんな悪意に満ちた真似をするはずがない。
 あっ、と叫んで私は目を閉じた。私のひるんだ隙に、彼女は後退った。
 「何をする」私は目を押さえて怒鳴りつけた。
 雪音自身、自分のしたことに驚いたようであった。私の報復を恐れてか、必死に震えを抑えている。しかし私がなおも近づこうと一歩踏み出した途端、彼女は決然として言い放った。
 「近づかないで」
 それははっきりと通る声であった。
 「雪音」
 「これ以上、これ以上近づいたら言うから」
 「何」
 「言うの」
 「だから何をだ」
 「全部。全部よ。今までのこと全部。私たちが犯してきた罪を全部よ。そうでしょう? そうしなきゃいけないと思うの。私、絶対そうしなきゃいけないと思うの。いつかは言わなきゃ、これ以上人を騙して生きていけない。嘘をついたまま人生を終われない。苦しいの。ものすごい罪悪感で苦しいの。もうどうしようもなく手遅れだけど、でも、でも罪を償いたいの」
 セメントを背中から注ぎ込まれたように、私の体が硬直していくのがわかった。「誰に、言うんだ」

(つづく)
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