(上)石清山観福寺の山門
(上)観音堂(福聚堂):寛保3年(1743)建立(再建)で、木造聖観音立像が祀られている。現在、寺の中で一番古い建物。観音堂に架かる階段橋。観音堂と本堂を結ぶ廊下の途中に、金毘羅、文殊堂が並んでいる。
(上)観福寺本堂:建久2年(1191)の開山と伝えられているが、本堂は昭和25年に再建された。御本尊は不動明王。(下)本堂の「寺額」は、唐風の高格気品あふれる書風であるが、貞享元年(1684)、木菴禅師の後を継いだ京都宇治黄檗山の高泉禅師が同2年に書いた直筆で、これを刻んで寄進した人は、猿沢旧城主及川国次である。
(上)右側にあるのが五輪塔
石清山・観福寺(せきせいざん・かんぷくじ)真言宗智山派。大東町猿沢字野田前37番地」
1~3mほどの石灰岩の押流層が重なり合い奇峰となっており、その上に総欅造りの観音堂が建てられている。観音堂を取り囲む石灰岩の岩面には一枚ごとに仏の称号を1字30㎝角の大きさに平仮名や漢字で、行書や草書で刻まれているほか、多数の石塔、石碑がある。
観福寺の開山は平安末期と伝えられているが、この場所は縄文の昔から、「神仏の宿る神聖な場所として村人の祈りの場所だったろう」とも言われています。境内に入れば自然と心が安らぎます。
境内の磨崖碑、観音堂のあたりに重なっている岩石の一つ一つに、仏の名や祖師の名を色々な文字で刻んである。
天明6年(1786)6月、ここを訪れた菅江真澄は「はしわの若葉」に次のように記している。「観福寺というささやかな寺あり、その傍らに高き岩ども群れ立てるところあり、それに虹の如き橋を掛け観音を安置(まつる)。その堂の前に至れば、ここらの岩のおもてにアラカン(阿羅漢)尊者また仏菩薩の名号をしるし、また古歌(うた)詩(からうた)えりたり、また西行法師などむかし今の世人をもえりたり、いかなるよしかと問えば、唯うちたわむれてせしこととも、あやしきものなり。こけむして見えねど苔をはだくれば、苔の下にあらゆる人の面像(おもがた)出るをいへり、昔よりせし事と見えたり」[主催者が配布した資料より]