NHK連続テレビ小説「エール」第18週は「戦場の歌」[10/12(月)~10/16(金)]
前線から戻った中井(小松和重)の話で、裕一(窪田正孝)は戦況が絶望的なことを知る。記者の大倉(片桐仁)から藤堂先生(森山直太朗)がビルマ(現・ミャンマー)にいる部隊の隊長として配属されていることを知り、危険な状況の中、行くべきか、しばらく悩んだ末、慰問を申し出る。
裕一が慰問で訪れたビルマで、恩師の藤堂先生が前の駐屯地にいることを知った裕一は危険を冒し、会いに行く。そこはインド北東部のインパールを攻略する作戦が展開される激戦地だった。
兵士たちと演奏を通し、音楽で気持ちが一つになった翌朝。部隊を悲劇が襲い…
これはドラマ演出上の必要から事実を基にしたフィクションだそうで、モデルとなった恩師の藤堂先生が戦死した事実は無いそうです。
それにしても、この「インパール作戦」に参加した日本兵のほとんどが死亡したそうで、げんざいでは「史上最悪の作戦」と言われているそうです。
ドラマでは、この後直ぐ終戦の場面になっていますが、内地にいた私たちは、その日の食べ物にも困るような有様だったように思います。
我が家は、母(大正元年生まれ)と姉(昭和12年5月生まれ)、私(昭和14年生まれ)、弟(昭和18年10月生まれ)の4人家族でしたが、ほとんどを配給に頼っていたため、この頃は大変な状況だったようで、母は、嫁入りの時持ってきた着物(和服)などとの交換で食料を手に入れていたそうです。農家でも、米は「保有米」と称する自家消費分しか保有が認められていなかったため、母の生家も父の生家も農家だったにも拘らず米の入手は難しかったようです。それでも生き永らえたのは、やはり親戚の援助があったのかもしれません。(米以外の薩摩芋やじゃがいも、南瓜、野菜などは良く分けて貰っていたようです。)食糧不足は終戦後も続き、いつも腹を空かせていたように思います。
その頃のことだと思うのですが、「隠居」していたものの、未だ丈夫でいた祖父(父の父)が、母の生家の近くにある荒れ地を開墾して畑を作ってくれました。5㎞ほどある自分の家から毎日歩いてきて、茅や桑の木などを掘り起こして耕してくれたのです。
母は農家の生まれながら、若い頃(結婚するまで)は日東紡績で働いていたので、全く農業の経験がなく、知識も無く、ほとんど農作業をしませんでした。私が良く覚えているのは、戦後の3年程、親戚の女の子などに和服の仕立て方を教える「裁縫教室」を我が家で開いていたこと位です。
この祖父は、俳優の東野英次郎という人によく似ていました。煙管(きせる)「ききょう」とか「みのり」という刻み煙草を詰めて喫っていました。煙草を詰め替えるとき、火傷を防ぐため厚い掌に落としてくるくると回転させていたのを感心して眺めたものです。(皮膚が相当厚くないとやはり熱いと思います。)
開墾した畑は1反歩ほどもあったそうですから、大変だったと思いますが、祖父は毎日ほとんど一人でやり遂げました。初めの年はほとんど作物が育たなかったようですが、薩摩芋、じゃがいも、大根、とうきび、茄子、トマト、サヤエンドウ、テナシササギ、南瓜、大豆、里芋など沢山の作物を栽培しました。
そのお陰で、米こそ全然足りませんでしたが、カデメシ(糧めし)[大根や南瓜、薩摩芋を細かく刻んで入れるご飯]のお陰で飢え死にしないで済んだように思います。おやつには、薩摩芋を茹でたものや茹でて干したものも良く食べました。
昭和20年(1845)8月15日(「終戦の詔書」)頃は千島に駐留していたという父が比較的早く帰ってきました(前に働いていた会社に戻れなかったようで、)ので、父が一人で畑を耕していました。サヤエンドウの実が大きくなったものを沢山採って、茹でたものを酒の肴にして食べていたのを覚えています。そのほかは、「切り込み(自家製のイカの塩辛)」というのも良く食べていました。
この農作業は、父が福島にある会社に勤めてからも、毎週土曜日の午後帰ってきて、日曜日は一日農作業を続け、昭和27年(1952)3月に福島県信夫郡野田村に転居するまで続きました。私が中学2年生になるときでした。