WIND AND SOUND

日々雑感 季節の風と音… by TAKAMI

映画「パウロ」と「ハロセット」&最近の手抜き料理

2024-06-05 | キリスト教のこと



先日アマプラで「パウロ」を観ました。「ハロセット」をお供に。
2回目です。

聖書の「使徒の働き」に関する物語。
新訳聖書で、「イエスの生涯」について書いた人は、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネと、4人の福音記者がいます。
そのうち、「ルカ」は、イエスの生涯について書き終えたあと、さらに続編である「使徒の働き」を書いています。
キリストが、十字架にかけられ、葬られて3日の後に復活して、大勢のイエスを信じる人に幽霊ではなく、復活の体で現れた。
そしてその後召天して、今も生きて働いておられる。
使徒たちは、この福音を伝えるために命懸けで伝道の旅をして回る…という時期のことを記したのが「使徒の働き」
めっちゃ聖書的で、とても良かった。
パウロの旅の終わりに、ローマ皇帝ネロに迫害を受けて、牢獄に繋ぎ止められるているその間に、ルカが牢獄に訪れて、パウロの口実を筆記するという内容です。これも史実。


獄中のパウロを訪問するルカ



さて。
ハロセットとは。
これは旧約聖書の中の「出エジプト」を記念する「過ぎ越しの食事」のメニューのひとつです。
イエス・キリストの「最後の晩餐」といわれている食事もこれです。
しかも、最後の晩餐の中では「ハロセット」はものすごく重要な場面に登場するのです。

でっ。私が作るのは、「なんちゃってハロセット」



材料は
ロカボナッツ(アーモンド 胡桃 ヘーゼルナッツ)すり鉢で砕く
りんご(細かいサイコロ切り)
パクチー(刻む)
ハチミツ
レモン果汁
シナモンパウダー
カルダモンパウダー
クミンシード
サワークリーム
これらを和える
山形の「だし」を「ダシアン」にした時と同じだなあ。
どんどん原型から好き勝手に旅をしていくなー。

てか、原型は知りません。

出エジプト時代のハロセットがどんなものかは、中川牧師がメッセージで語って下さってます。
りんごはサイコロ切りにし、ナッツはつぶし、それらを混ぜた上にハチミツ、レモン汁、シナモン、赤ワイン…をかけて和える。
それを種なしパン(発酵させてないパン)につけて、その上にホースラディッシュ(西洋わさび)を乗せ、
さらに種なしパンをのせてサンドイッチのように挟む。
これはユダヤ人がエジプトで400年間奴隷であったとき、煉瓦を作っていた、その煉瓦の材料や色を思い起こすためのメニュー。
ホースラディッシュは、過酷な労働への涙を表すとのこと。

イエス・キリストがユダにハロセットを手渡したとき、ユダの中にサタンが入ったと書かれています。
日本語訳では、「パンを浸し」となっています。
パンでハロセットを掬っているということなのですが、「ハロセット」という言葉は聖書中には出てきません。
近年、ユダヤ人のクリスチャンが増えて、イスラエルの歴史に関する正確な情報がどんどん豊富になってきていることから、
この「最後の晩餐」の記述についても、細かいところまで解明されてきたとのこと。


私は、どんなドラマや映画でも、食事にはとても興味があって、以前三国志にハマりまくったときもそうだった。
でも三国志に出てくる料理は、興味はあるけど自分で作りたいとは思いません。


三国志 曹操のふつーの食事



私にとっては、最近はやっぱり「きのう何食べた?」がよかったなあ、、、
ハマりまくりました。
わたしは、レシピ通りに作るのは苦手です。手順だけを覚えて、味付けは勘です。
…ていうか、大匙小匙ありませんし。

昨日はゴーヤーチャンプルーを1年以上ぶりで作りましたが、高齢化に伴い、1年も経つと、作り方などさっぱり忘れています。
また1から出直しですわー。
絶対押さえておきたいのは、ゴーヤーの苦みが失われないよう、火を通し過ぎないこと。
そしたら、意外と優しい味の一品となりました。ここから出発。
でも、これをとんがった味にしたいとも思わず、よくできました…だったな。




あと、ヨッパのときのもう1品はコレ!



生ハムアボカド。
メロンやいちじくなどで作ることはあるけど、お1人様用に果物を買うことはあまりない。
アボカドは買う。
私は塩のみで食べるのが好きですが、生ハムで巻くのだから、塩も要らない。
剥いて切るだけのがさつな一品。大好きです!!






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主は与え 主は取られる ハレルヤ

2024-01-27 | キリスト教のこと



私は、SYOさんのことを、「夫」とも書きたくないし、夫であるにもかかわらず謙譲語では書けません。 悪しからずご了承ください。


SYOさんが召されてから今日で3周年。

実は私、2周年なのか3周年なのか、わからなくなっていました。
あまりにも混乱もあり、濃い時間であったので、最初の1年があまりにも長かった。
1周年の前日に、SYO Michael Studio を売却しました。
それも、2年目だったのか…わからなくなっていたほど。

本日のタイトル「主は与え 主は取られる ハレルヤ」は、SYOさんが目の前で息を引き取ったときに咄嗟にくっきりと思い浮かんだ聖句です。
SYOさんと私は、鍋をつつきつつ晩酌しつつ、それからくつろいで横になって「プレバト」を観ていたのでしたよ。

ほんとは、「主は与え 主は取られる 主の御名はほむべきかな。」(ヨブ記1:21)
なのですが、「ハレルヤ」 本当にそう思いました。讃える、賛美する…とのヘブライ語です。


神の臨在を強く感じました。そして「完璧だ」と感動しました。


SYOさんと音楽パートナーとしてのお付き合いが始まって2、3年ぐらい経った頃でしたか、車の中で私はSYOさんに言ったことがあります。
「私のために、ずーっと元気で長生きしてね。」
自分からこんなことが言えるようになるには、私としてはずいぶんと時間がかかったような気がします。
しかし、彼は即座に言いました。

「神さまのみこころのままや。」

うーーっっうっうっ…
私より「神さま」か…
当時クリスチャンではなかった私は、当然TAKAMIのために長生きしよう…と思ってくれてるつもりで言ったのでした。
当然「うん、そうするよ」…とか言ってくれるつもりだったのでした。

でも。
今このとき、神さまが彼を連れて帰られた。
「完璧だ」
と私は強く思ったのでした。
これが「神さまのみこころ」

神さまは、SYOさんをピアニストのままで天国へ連れて帰られたのでした。

数日後に手術のための入院が決まっていて、コロナ禍のさなか、私は病室にお見舞いにも行けない。
それに、退院しても、SYOさんは高齢だし体力も衰え、ピアニストとして復帰できないかもしれない…
退院できないかもしれない…
私は心の中でそんなことを思っていました。

自分の召されるときも神さまのみこころ…と言ったSYOさんは、人生のすべてを神さまの御心にゆだねていたのだなあ。
だけど、一般の人たちから見えるSYOさんという人は、地元ジャズピアニストの大御所であったけど、
無口でものすごく温厚でいい人で、だけど仲良くなるとめっちゃおもしろくて、田村正和のモノマネが得意で、
子供が大好きで、子供たちかも慕われて、いつまでも少年なのでした。
だから息子Takのことを心から愛してくれて、息子が大きくなって一緒に過ごす時間が減ってしまったら、本当に寂しがって、
Takが小さかった頃の思い出をたくさん語るのです。そして次のターゲットを見つけるのです。それはミュージシャン國井類さんの息子さんたち^_^;

誰もが、私が大切な音楽パートナーを失ってこれからどうするのかと心配して下さっていたことと思います。
でも、普通は遠慮してそんなこと直接言わないものだろうけど、
SYOさんが召されてすぐに、「こんな時だけど、これからの音楽活動はどうするんだ?」と私に直接言葉に出して聞いてくれたのは、息子Takの父親、すなわち私の元夫でした。
彼は元夫という以前に、東京時代、一緒に活動していたベーシストであったので、
私の本質的なことを理解してくれていて、まずはそのことについてとても心配して、言ってくれたことはとても嬉しかった。



さて。
思い出を語りましたが、私はこれからの人生を、SYOさんとの思い出に浸ったままで、それだけで過ごしていっていいのか…との思いで、
自分の心身の健康や安全のこと、これからの音楽活動のことなど自分なりに深ーく考えて、
SYO Michael Studio を売却し、自宅マンションをリフォームしました。
混乱の中から、ようやく自分に立ち返ることができました。


最後に、SYOさんが、私が高松に戻ってきて最初のLIVEをご覧になって下さったときの感想とアドバイスを記しておきます。今後の人生の指標として。
まだパートナー関係じゃないときの。

大切な初回LIVEを成功させることができてよかった。
けれども、本当に大切で、大変なのは、2回目、3回目です。
ここで、お客さまを引き付けられるか、離れていくかが決まる。
いちど離れていったお客さまは2度と戻ってこない。
どんなに周囲から良い評価を受けても、謙虚さを失わず、
音楽は一生追い求め、自分を磨き続けなくてはいけません。
ミュージシャンにもいろいろいるけれど、お客様は、もっといろんな方がいます。
周囲の声に振り回されることなく、謙虚に受け止めなおかつ、
自分の音楽を信じて持ち続けていくことが大切です。



これはSYOさんがご自身に対して持っていらした信条でもあると思います。
これからはSYOさんの信仰と音楽を、引き継いでいきたいと願っています。



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私が賛美歌をつくるとき

2023-02-22 | キリスト教のこと



カテゴリー「キリスト教のこと」については、クリスチャンでない方々に向かって書いています。


私自身が、見た目もやってることも、周囲から見たら全然クリスチャン的ではありません。
クリスチャンとは一般的に、地味で、真面目で、敬虔な人…と世間からは思われているらしい。
私は全然そういう人には見えない模様…ってか、ハイその通り。
「なんでTAKAMIがクリスチャンやってるんだ」と思われていると思います。

その答えは…

私はこの世界は神さまがつくった…と、子供のころから感じていました。
そして、思春期、いろんな宗教を齧ったり、足をつっこんだりしながら、その神さまとは、キリスト教で説いているところの神だ…と思い至ったからです。以上。


またまた讃美歌を作りました。

日曜日の「礼拝」というのは、神さまを讃える時間。神さまからのメッセージを受け止める時間。
讃美歌を歌って、お祈りをして、聖書を朗読して、牧師がメッセージ(説教)をして、またお祈り、讃美歌…
奏楽者は、その日のメッセージのテーマに沿って、奏楽を組み立てるという役割があります。
私は礼拝を形式的な、義務…のようなものにしたくないのだ。
形式的となると、私だって「おサボリ」したくなる。形式的、義務的と感じる礼拝を、どんだけおサボリしてきたことか。

でも、奏楽者として礼拝にかかわると、音楽で神さまを讃えることは素晴らしい…と感じる。

私、実は正直なところ、宗教よりも音楽のほうが自在だと感じています。



当日の牧師メッセージ(説教…これが牧師を通しての神からのメッセージということ)は、聖書のどこの部分から語るかは、数週間前には決まっているので、
その聖書箇所を開いて、なんかその周辺に作れそうな聖句はないかなあ…と、、、
そしたら、詩のような聖句がちょうどあった。

おおぉぉ、これはイケそうだ、、
「詩のような」とはいっても、冒頭のこの聖句は、ホントは「伝令」
偶像を拝む国の王が、大臣でありながら異教徒のダニエル、完璧で、周囲の大臣が嫉妬して陥れようとしているダニエルが崇めるまことの神に感服して、
「この神を讃えよ」というような命令。

私は旧約聖書がとっても好きなのです。

旧約聖書の登場人物は、もぉ~~むちゃくちゃなのだ。罪を犯しまくる。殺人も姦淫も犯す。嘘もつく。
だけど、信仰だけはある。
「むちゃくちゃだけど信仰はある」
それは私だへへへへ。酒は飲むが信仰はある。

聖書の好きなところは、何度も読み返します。
それは、他の本やDVDも同じ。三国志とかも同じ。
最近では「蜜蜂と遠雷」はもう、すべての登場人物が好き。
読み終わっても、また何度でも会いたくなる。


聖書は最初読んだ頃は、モノクロームの世界だったもの。きっと誰でもそうだと思います。
それが、回数を重ねていくごとに、
そして講解メッセージや解説書なども参考に聴いたり読んだりしていくうちに、
聖書がモノトーンから、フルカラーでサラウンドの世界に進化していくのです。
そして、好きな登場人物に次々と出会える喜び。
「すごく好き」「わりと好き」「憎めない」
ヤなヤツだけど自分の中にもこういうところがあるよなーと思うと、すべて「憎めない」に分類されていく。

いやまだ全部じゃないのですけど。旧約聖書の歴史書のところあたりだけですけど、、、
でも、そのうちこれから、すべてがフルカラーサラウンドに進化していくことでしょう。



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讃美歌を作りました

2023-02-02 | キリスト教のこと

ここをクリックしても音声は流れませんが、いずれそうなるよう準備するつもり


時々、讃美歌をつくります。
教会にはそれぞれ、その年の「主題聖句」というのがあって、
この画像の黒字の上2段が、母教会の来年度の主題聖句です。
聖句とは、聖書に書いてある言葉です。「みことば」ともいう。
信徒から好きな聖句や、次年度のテーマとしたらよいと思う聖句を広く募集して、その中から、最終的には牧師が選び、
その年あったいろいろなことが、次の年にさらによき方向へと導かれるように、毎週の礼拝で読み上げるというもの。
教会一丸となった「お祈り」のようなものです。

私は、数年前から、この「主題聖句」を作曲しています。毎年1曲…な程度。
要請でもなく、自分に課している義務でもなく、「作ってみようかなあ、できそうな気がする♪」と思ったらピアノに向かいます。
そうすると、大抵、すらすらと淀みなくメロディーが降りてくるので、あっという間にできます。

さすが「聖句」だ自作の詞とは違う

自作の歌は、詞が最初、あとからメロディー…ではなく、殆ど同時進行ですが、必ず何度か行き詰まり、考え込みます。
なんといっても私の詞は理屈っぽいからなあ、、、
時には壁にぶちあたり、数か月寝かせておくことも。

ところが、聖句の場合は、「短い」というのもあるとは思いますが、しかもシンプルで、
あまりにも行き詰まることなく、すらすらと降りてきます。
これはやはり、「精霊」の働きによるものだと私は信じています。そうとしか思えない。

後半の2行は、聖句に対する「応答」です。
「愛しなさい」→「愛します」
「祈りなさい」→祈ります」
「信じなさい」→「信じます」
のように、「みことば」に応えるフレーズをつくります。

これまで私が作った讃美歌はいずれも「みことば」と「応答」でできていて、とってもシンプルです。
この「応答」の部分ができたとき、歌いながらぶわーーーっっっと、どの曲のときも、思い溢れて泣いてしまうのだ。




泣いてしまうのは、讃美歌をつくる時だけじゃなくて、自作の曲のときもにもたまーにあります。
頭でひねり出した感が全くなく、天からしとしとと甘露のように降ってきたとき。
あ~~神さまからの贈りものだとマジで感じます。
最近は、今のわたし用に殆どの曲の移調の譜面を作っていますが、古い曲の譜面見て、よくこんないい歌ができたなあ…と、
「自画自賛」じゃなくて、神さまがいつも助けてくれた感、すごく感じます。

さて。今年のライヴも始動。

順次ご案内させていただきますね。よろしくお願いします。












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アドベントカレンダー

2022-12-12 | キリスト教のこと




これがうちの今年のアドベントカレンダー。シュトーレンとともに、アドベントカレンダーもだいぶ日本でも知られるようになってきました。
イエス・キリストの降誕を待ち望む4週間を「アドベント」といって、毎日ランダムに散らばっているカレンダーの日付を探して開けていくもの。

開けたらそこには高級チョコレートやお菓子が入っていたり…上には上があるのだ( ̄□ ̄)
クリスマスに因んだ聖書のみことばが書かれていたり、
今年の私のカレンダーは、絵が描かれているのですが、名画の一部だと思うのですが、何の絵かさっぱりわかりません。
でっ、ついつい忘れる。
でも、せっかくだから調べたいわかりたい。




お友達Saeには先月上京した折、聖書のみことば系のカレンダーをあげたんだけど、
毎朝5時ごろ、カレンダーの窓を開けて、画像を送ってきてくれます。
そうすると、なんだか私も一緒に開けたような気分になって、とっても嬉しい。
このたび、冷蔵庫のカレンダーの上にアドベントカレンダーを貼り付けました。
これで3日間開けるのを忘れることはなくなるよ~ん



しかし、こんなにきれいなのに、冷蔵庫とわ( ̄□ ̄)横に貼ってるのは緊急用薬とか、鍋つかみミトンもぶらさがってるし、、、
うちには、クリスマスコーナーいっぱいあるんだがなーー、、、

















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召天者記念礼拝

2022-04-24 | キリスト教のこと


今日は教会の「召天者記念礼拝」でした。
教会の「天国会員」てことで、召天者のみなさんの遺影を飾って、懐かしみつつ、一緒に神さまを礼拝する…といった感じ。
その後墓前礼拝、納骨式…の予定だったのですが、雨だったので、来週に延期となりました。
1年間自宅に置いてあったSYOさんの遺骨は教会にお預かりいただきました。来週納骨式を経て、納骨堂に納められます。
キリスト教では「お墓参り」ではなく「墓前礼拝」といって、神さまに祈りを捧げます。
故人に手を合わせることはしません。

「納骨式」なので、私にしては大変珍しくセミフォーマルで行ったのですが、来週もまた同じカッコでいかねば。ないのよ服がーーー

でっ。
私の想いといたしましては。
何度も書いたかもしれないけど、今でも、SYOさんは私のすぐ傍とか、心の中に棲みついて見守ってくれてると思っていません。
息を引き取ったとたんに神さまが天に連れて帰りました。
もう、本当にその時、神の臨在感ありまくりだったので。
SYOさんはもうそれからずっと神さまの御許です。
ですので、私はSYOさんに話しかけたりもいたしません。
なんかすごい出来ごとがあった時には、もちろん話したくなります。
「ちょっとぉーーSYOさん、こんなことあったのよ。」
これは私の心の問題。でも、話しかけてもSYOさんの霊魂が応えてくれると思っていません。

「主は与え、主は取られる。
 主の御名はほむべきかな。」(ヨブ記1:20)
SYOさんが召天したときにすぐに思い浮かんだのはこのみことばでした。
私はきちんと暗唱してませんので、
「主は与え、主は取られる。ハレルヤ。」だったのですけどね。

いんやーコレ、書こうか迷いました。ホントなので書きました。


画像のSYOさんは、もうこの地上の人でない感じがして、とっても素敵だと思います。
「待っててね」「待ってるよ」な感じがします。




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ホーキング博士、地獄に行くのですか?

2022-04-01 | キリスト教のこと



スティーヴン・ホーキングの映画「博士と彼女のセオリー」観ました。

彼は「ブラックホールは素粒子を放出することによってその勢力を弱め、やがて爆発により消滅する」とする理論(ホーキング放射)を発表、
量子宇宙論という分野を形作ることになった。(ウィキペディア)

一般的には車椅子の科学者で有名です。
神はいない。人は死んだら無に帰する。
「(人間の)脳について、部品が壊れた際に機能を止めるコンピューターと見なしている」
「壊れたコンピューターにとって天国も死後の世界もない。それらは闇を恐れる人のおとぎ話だ」
とは、大変有名で、人々の印象に残る言葉です。

彼は地獄に落ちるのでしょうか?
彼は科学の側から、神や創造論を否定する立場で、宇宙の成り立ちの確証を得ることに生涯を傾けた。

............................................................................................................................................


ウェブサイトから拾ってきた彼の名言です。


◆私たちは、すごく標準な星の小さな惑星に住むサルより少しばかり賢い生き物さ。でも私たちは宇宙というものを理解できる。それこそ私たちを特別にしてくれるものだ。


◆欠点がなければ、あなたも、私も、存在しないだろう。


◆体に障害がある人に送るアドバイスは、自分ができることに集中し、できなかったことを後悔する必要はないということ。体だけではなく、心までも無力になってはダメだ。


◆私の期待は21歳でゼロまで下がった。それからはすべてボーナスポイントだ。


◆人生がどんなに困難だとしても、必ず自分が成功できるものがあるはず。


◆49年間死ととなり合わせに生きてきた。死を恐れていないし、急いでもない。やりたいことがたくさんあるからね。


◆1つ、自分の足元を見るのではなく星を見上げなさい。2つ、仕事を諦めるな。仕事は、空っぽの人生に意味を目的を与えてくれる。3つ、幸運なことに愛を見つけたのなら、その存在を忘れず見捨てるな。


◆知識とは変化を受け入れるための能力だ。


◆行き詰った時に怒ることはいいことではない。私はその問題を考えながら、ほかのことに取り組むよ。
正解が導き出されるまで何年もかかる場合もあるけどね。ブラックホール放射の理論には29年かかったよ


....................................


正直なところ、これらのメッセージを読んで、私はとても強く「神さま」を感じます。ものすごく近いところ。なんで?

キリスト教的には、神を否定するホーキング博士は地獄に行くとのことです。

そのホーキング博士の言葉に「神」を感じるのは、彼が神さまに選ばれて最先端の科学の世界で働いていたのではないかと感じる。
敢えて神に背を向けなくては科学は発達しない。でも、いつか手を繋ぐときがくるような気がする。

私の勝手な妄想で、そんなことは誰にもわからないんだけれど。


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奏楽者デビュー

2021-04-25 | キリスト教のこと


今月から礼拝の奏楽者デビューしました。
もう2度ほど奏楽奉仕させていただきました。

礼拝の「奏楽」とは

前奏
賛美(会衆が歌う数曲の伴奏)
献金(BGM)
お祈り(BGM)
頌栄(終わりの賛美)
アーメン

このうち、会衆が歌う「賛美」以外はすべて奏楽者に任されていて、まあ何を弾いてもよいということです。

今日は体調不良微熱につき礼拝お休みしてます。
来週は奏楽当番なので練習してます。「神の家族」という讃美歌を前奏で弾くつもり。

先週は前奏に「ジュピター」(歌詞がついて福音賛美歌245となっている)を弾きました。
前奏というのは、一応5分。
とりあえず今のところは、キーは全部Cで、近親転調や遠隔転調の指ならし…な感じでやってます。
緊張もするけどだんだん楽しくなってきた…でもそれにつれ会衆さんもだんだん楽しみにしてくれ度が増していくのだろうなあ、、、
譜面があるわけじゃなく、練習しても本番は全然違ったものになる…
私は、礼拝とは、神さまを讃えまくるものだと感じているので、「厳かな雰囲気」とちょっと違う。
礼拝の始まりに向けての、とても楽しくわくわくする前奏になってしまいます。







クリスチャンによるLIVE




しかし、神は「愛」であり「義」である。
私は個人としてでなく、奏楽者として、厳かに義の神を讃える奏楽もしなくてはと思っています。きっと大丈夫。そのうちそうなる。
でもとりあえず、ルーキーですので、やりたいようにやってみる。楽しまなくては。
牧師先生が、「好きなようにやっていいですよ」と言ってくださるのもすごくありがたいです。
「献金」は即興、「アーメン」はオリジナルでやらせていただいています。

「アーメン」とは、「その通り」「そうなりますように」というような意味で、お祈りの最後に唱えます。
賛美歌や宗教曲の最後にも「アーメン」…と唱えるのは、そのような意味です。
アーメン2唱 3唱 4唱 …と、礼拝の最後に何度もアーメンを繰り返すフレーズがあります。これを自作する。


そして、来年のことですが、2月11日にWIND AND SOUND2の配信ライブをやります。
WIND AND SOUNDのライブは、5年前の5月が最後でした。Speak Lowで演ったのもこれが最後でした。
WIND AND SOUND2は、新しいメンバーでやっていきます。
またご案内させていただきます。

さて。SYOさんのこともちょっと書く。
SYOさんのプライベート画像これイイな…ってのを、フレームに入れて飾ってみました。
…が、ダメダメです。
なんだか、いつもSYOさんが傍にいると、引き戻される感があって、前に進めない。
SYOさんの正式な?遺影は、ピアニストの画像で、ピアノ弾いてて目があわない。
だけどこんな目があうプライベート画像ダメダメだ。目があうたびにきゅ~~んとなる。
ってことで近くに飾るのやめた。


















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exinTAKAMI

2021-02-22 | キリスト教のこと


SYOさんが天国に帰ってから、激泣きの回数も少しずつ減ってきたような気がします。

もともと寂しいけど辛くはありません。

もうそろそろ別の記事も書けそうかも、、、

今日は、実は久しぶりにピアノの蓋を開けました。
久しぶりすぎるだろ~~~~!!
4月から早速SYOさんの後任で奏楽の奉仕をすることになっていて、
いくらなんでも、もう練習せねば、、、
どんだけ音楽と離れてしまっていた!?

ヨッパで激泣きしてしまうことがあるのは、もうひたすら神さまへの感謝とか、「神さまほんとにありがとう」という想い。
神さまが私とSYOさんの出会いからお別れまでのすべてを計画通りにしてくださったのだという想い。

そして、ひとりになっても、私はこれから、賛美リーダー(歌)だけでなく、奏楽者としても用いられていくのだ。
あと、聖書朗読者。
ものすごく嬉しい。
これも神さまの計画。

exintaはギリシャ語で60 ここらかの出発と思えます。
カンレキってなんかイマイチ…いや、イマ∞なので、言いたくないし、なんかオシャレなヤツないんかいと、誕生日頃にいろいろ捜してみてたのですよ~~♪♪





激泣きとは感激泣きです。

激泣きは私にとってカタルシスなのでよいのです。


SYOさんの衝撃的な召天のあと、、家族が心配してほんとうに毎日のように、食事を持ってきてくれたり、顔を見にきてくれたり、電話をくれたり、
そして、各種手続きに付き合ってくれたり、甘やかされまくっていた私。

どんだけ幸せ?


昨日は3週間以上ぶりに仕事にいったけど、全然OKでしたわ。
むしろ、眠くもならず、ランチ後、コール音 鳴り中に、眠気で思考停止とかもならなかった。
「成約」もちゃんととれたし、上出来。

それより、朝の出社時とか、ログイン、ログアウト時、そして帰りの「手順」とかちゃんと覚えてるか、かなり不安だったけど、これもクリア。
まだらボケは進んどらんわ!!


家族がとっかえひっかえ、私のことをかまってくれたのは、TAKAMIがボケないようにと、、、まずソレ!
ひとりでどんよりと誰とも喋らずにいたら、イッキに認知症になってしまうので、それはなんとしても阻止しなければ( ̄□ ̄;)!! …ということで。
ほんとにありがたい家族です。ほんとに愛する家族。


家族っていいなあ。
母にはまたしても以前のとおり、小言もめっちゃ言われるようになった。
まずは「酒飲むな」。





もーこの歳で私の飲酒にとやかく言われたくないよ。
…とも思わなくなったし、母の小言に対しては、ほんとに「かわす」ことができず、真正面から反発して大喧嘩もして、こじれまくってたけど、
カ・ン・レ・キですから
これからは楽しくガンバロウ exinTAKAMI 






最近キリスト教とか、神さま系の記事が多いですが、この際ご容赦を。

ついでに。


キリスト教では、「死者の霊魂に話しかけるのは聖書的ではない」のだそうです。

え~~~~っ!!……でしょう?

お墓参りなどしたとき、いや、自宅の仏前に手を合わせるとき、仏教では絶対に亡くなったじーちゃんばーちゃんや従弟などなどに話しかけて、
「これからも穴吹家を守ってね」とかお祈りするのが当たり前だったじゃないの。
それって、すごく信仰深い行為じゃないの、、、?? これを「偶像礼拝」というのか??
現世で亡くなったら、次の世界で仏になる。仏教のお葬式では、その儀式…みたいなのを葬儀の中でやります。
実父は浄土真宗なので、私は、浄土真宗についてはかなり調べましたのです。
浄土真宗では、死者の霊は49日間この世とあの世の狭間を彷徨ったりせず、亡くなったらすぐに仏様の御手に抱かれるそうですし、お盆に家に帰ってきたりもしません。
じゃーなんで四十九日やお盆をやるのだ( ̄□ ̄;)!! …ってことは、どうぞ個々でお調べを。



10年前に、実父と、高校の1年上の、身寄りがないという鈴木一也先輩(当時私のヴォーカルの生徒さん)を、10日違いでお見送りしました。
実父は社交ダンス会のエライ人(肩書きは忘れました)でしたので、お花に囲まれた仏式の盛大な葬儀でした。
一方、鈴木先輩は、ほとんど親族とのかかわりもなく、葬儀費用も全くないと仰るのです。
私がキリスト教の洗礼をお勧めしたところ、彼は喜ばれて真剣にその日を待ちわび、私が父の葬儀で見舞えない期間にはSYOさんが見舞ってくださり、
洗礼に「間にあいたい」と仰っていたそうで、亡くなる前日に洗礼を受けて、クリスチャンとしてキリスト教の葬儀で旅立たれました。
病室洗礼式のときには、私、牧師先生のギターで賛美歌うたいました。
さらに私、なぜか喪主、、お付き合いしていたわけでもなく、身内でも当時はクリスチャンでもないけどナゼか鈴木先輩の喪主、、、、、
さらに葬儀ではSYOさんのピアノで、賛美歌うたいました。

あまりにもスゴすぎで、まあ、ここで書くのもなんです、、、
一応10年前にはこの件については書きまくっていますので検索でご覧いただくことはできるかも。


とにかく、キリスト教では、亡くなった人は「亡き骸」であって、死者に語りかけたりはしない。
亡くなってからのことはすべて神さまが責任を持ってくださる…と、そんな感じです。

ですので、私はSYOさんの霊魂に語りかけたりはしません。自分でもなんかソレ違うと感じるし。
でも、心の中にいるSYOさんとはいつも一緒。
いつも楽しく思い出すし、一緒感ず~~~っと続いています。
たぶんこれからも。嬉しいです。
ですので、時々ヨッパ激泣きはまあよいのではと、、、



ところで宗教によって、死後に行くところが違うのでしょうか?
私はそうは思いません。
人間の「死」とは、誰も等しく「死」だと思うのです。
霊魂の行き先が、生前に信仰していた宗教によって異なるなんて、誰が決めたのだ?…そりゃ人間が、、、

宗教ってなんだろう?? なんの為にこんなにいろんな宗教があるのだろう…
と10年前の、父と鈴木先輩の葬儀に際しては混乱しまくりました。…し、いろいろ考えまくりました。


しかし、私は実は物心ついた頃から、小さな子供の頃から、この世界は神さまがつくったものと感じていたのです。
キリスト教の神さまが、私が子供の頃から信じている世界を創造した神と思います。
さらに中学生の頃、TVでイエス・キリストの映画を観て、イエス様がめっちゃ大好きになったのです。

「進化論」は全然ダメダメだし、30代の頃、家族と初めて伊勢神宮にお参りしたとき、ものすごく楽しみにわくわくしていたのだけど、
ここに祀られているのもやっぱり「人間」なのかーということにもえ~~…とかなりガッカリしましたのでした。


すみませぬ。
いろんな考え方があると思います。
しかし、これが私の感性なのです。

聖書の神は、残虐で、生贄を求め、異民族を聖絶せよと言う。
そんな神をどうして信じられるのか、、、、

では他にどの神がいるのか。

…ということになるのですが、
私は世界の始まりから終りまで綿密に正確に記している「聖書」を全面的に信じています。
そして神さまの私への無限の愛と恵みも全面的に信じています。理屈ではなく、魂なのだと思います。


以上。


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「聴くドラマ聖書」

2020-08-27 | キリスト教のこと
夏が終わりました。庭掃除をしていると、蝉の亡骸がたくさん落ちています。

さて。今日は前置きとかだらだらとせず、スッキリいきます。

「聴くドラマ聖書」のご紹介です。

日本初、ドラマ仕立てのオーディオブック聖書アプリ【公式】

神役に大和田伸也、イエス役に井上芳雄、マリア役に南沢奈央など、豪華キャストを迎えた大河ドラマのように楽しめる聖書(無料)

聴くドラマ聖書 | G&M文化財団

 


旧約、新約聖書全巻を聴けます。

めっちゃいい!
まず、タダ
朗読が素晴らしい
効果音やBGMもすっごく素晴らしい。スゴイんです。
ナレーションもキャストも超豪華。

クリスチャンのみなさん大大大絶賛なのですが、それだけに留めておくにはもったいなすぎる!!
ではこれを一般の方がたにどのように活用していただいたらいいかなーというと、、、超オススメなのは

寝る前にタイマーをかけて聴く

私も実はそーやって聴いてます。夜明け前に早々と目覚めた時とか。

壮大な古代史に引きずり込まれます。聖書を文字で読むのと全然違う。
その世界そのままがそこにある。
ウェブサイトのご試聴版ではイマイチ伝わりません。
まあとにかく、ゼヒともこれをお読みになったかたは、いますぐダウンロードしてね。

なんといっても、タダ

今私は、旧約聖書の「歴代史」というところを聴いています。
なぜなら、ちゃんと読んでないから^_^;
聖書には、人物の系図や生没の羅列のようなところが結構ありまして、ついついはしょりたくなる。
これを「ドラマ聖書」で聴いていると、頭の中に図や表ができてきます。…でも通り過ぎればすぐ忘れるけど
戦闘シーンの効果音もスゴイ。民衆の声もスゴイ。
ですので、出エジプト記などはもう…スゴイだろうなあ、、、すっごく楽しみ♪

でっ、ダウンロードしたら、じゃあまずどこから聞けばいいんだ、、、ってことになるけど、

私のオススメは「創世記」。
それから、新約では、「マタイ」「マルコ」「ルカ」「ヨハネ」4編の福音書のどれでも、
皆さまがご興味あるであろうキリストが十字架につけられ、復活する場面は最後の2章あたりです。(まだ聴いてない)
モーセが海を二つに分けて陸地として、イスラエル人を渡らせるのは「出エジプト記」14章13節あたりから。(まだ聴いてない)

横になって目を閉じてるだけで、古代にタイムスリップできますよー!!

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結婚誓約式

2020-06-08 | キリスト教のこと



5/24 TAKAMI & SYO Micael  は神さまの御前で結婚誓約式をとり行い、夫婦となりました。


…ったって、もぉ~~ずっとずっと日常は変わらないんだけどね。
でも、やっぱり、神さまの御前で結婚を誓うって、本当に厳かで、ほんとうにやっと、、ここに辿り着いたんだなと感じました。

冒頭の画像は、聖書に手を置いて、結婚の誓約をしているところ。
手は夫と妻のそれぞれの誓約で入れ替わるんだけど、これはどっちだったか忘れた。

「病めるときも健やかなるときも」ってありますよね。

夫は妻を「愛し、慰め、敬い、守る」
妻は夫を「愛し、従い、仕え、敬う」

そして「命の限りほかのものによらないでこの人にそうことを願いますか。」

うわ~~~もう願う願う願うよ~~~!!
ホントにやってよかった誓約式。



入籍したとき、いつ式を挙げるか…と、教会と相談したとき、先ずは息子に参列してほしい、それが叶う時期に…ということになりました。
息子は今年卒業、就職なので、3月の後半ということに決まりました。
ところが、コロナ禍が始まり、息子の参加はムリ。
さらに、挙式のあと、コンサートやセッションをやろうという計画もムリ。ならば8月では?…しかし、その頃の動向はわからず、、、
せめて、教会員の方たちだけで…などなど、期日は二転三転しまくり、
結局、どなたもお招きせず、私たち2人と牧師と、立会いの役員の方だけでとり行うこととなりました。

それは私たちからの申し出でした。
この状況の中で、不安を覚えながら参加していただくことには、強い抵抗がありました。

緊急事態宣言下、すべての装飾的なことを削ぎ落として結婚誓約式ができたこと、本当に良かったです。

本来なら、信徒の方以外の、ミュージシャンやその他のお友達にも参列していただき、音楽で盛り上がりまくることを想定していました。
でも私たち、いつも音楽で盛り上がりまくってるし、そんなことはいつでもできるのです。

「この人に仕え」

というのが、とても心に残りました。
聖書的には、妻は夫に仕えるのですね。

「神さま、私をSYOさんに仕える人になれるようにしてください」と祈る。
さすれば、きっとなれる。




式のあと、思いがけなく「ソーシャル・ディスタンシング パーティー」が催されました。
牧師先生自らの手作りムースでのケーキカット。
もぉ~~めっちゃ美味しかったですとも!!
レシピもいただいたので、次回は手作りします。

素敵な花束も頂きました。ほんとうにありがとうございました。









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教会のパーティーで「お富さん」を歌う

2020-05-08 | キリスト教のこと

仏生山の森周辺ウォーキング



STAY HOME のGWが終わりました。
ずっとSYO Micael garden の草抜きやってました。
あとは「JINー仁ー」イッキに鑑賞でした。


SYOさんの手に乗ってくるヤモリくん




まあとりあえず、お約束の、「庭作業中に語ってくれたおもしろい話」を書きます。
…といっても、私がひとりでめっちゃウケただけなんですけどね。
一般的にはあんまりおもしろくないかも、、、





2人で黙々と、ほんとに殆ど会話もせず、必要なことのみ話す…という状況の中で、
ある日のこと、近くで作業をしている時、ナゼか突然SYOさんがこんな話をボソッと始めた、、、

新生教会で牧師の異動があって、前牧師のお別れパーティーをやることになった。
当然全員クリスチャン。
幹事さんが大変はりきっていて、「先生のいちばん好きな曲は『お富さん』だから、これを聖歌隊でやりましょう」ってことになった。

「お富さん」がいちばん好きだと堂々という牧師っているんだろうか、、、、
(結論からいうと、これは幹事さんの大きな勘違いだった。そういうキャラの人。)

しかし、聖歌隊のみなさんは、ことを荒立てないように、幹事の方の指示に従って、
殆ど知らない「お富さん」を違和感を感じながらも練習した。
誰も異議を申し立てる人はいなかった。

粋な黒塀 見越しの松に
仇な姿の 洗い髪
死んだ筈だよ お富さん
生きていたとは お釈迦さまでも
知らぬ仏の お富さん
エーサオー 玄冶店(げんやだな)
 


この曲の「お富さん」と「与三郎」は、過去にフリンの恋仲であった。
ヤクザの親分の女「お富さん」に手を出し、メッタ切りにされた「与三郎」と彼の死を嘆いて入水した「お富さん」は、
2人ともその時に死んだはずなのに、共に生きていて、
しかも、再会したとき、またもや「お富さん」は、別の男に囲われているところへ、
「与三郎」はゴロツキの友人に誘われるままに金の無心に行ったらそこにお富さんが…みたいな、どぉ~しようもないシチュエーション。

この曲を牧師先生を送る歌として、聖歌隊が真面目~~に練習して歌って、SYOさんは「なんじゃ…」と思いつつもそのピアノを淡淡とやった。
SYOさんにしてみれば、この曲は数え切れないほど聴いて演奏もしてるので、暗譜で長~~いイントロからエンディングまでちょちょいっっ!と弾けるってもんよ。
練習風景が目に浮かぶ。

練習中もナニゲな違和感だったけど、
本番ではさらなる違和感満載の、」楽しくも不思議~~~な空気が漂いまくったとのこと。

牧師先生は、このあと、一応~~「この曲が好きだったのは洗礼を受ける前のことでした。」と、、、「弁明」。
「お富さん」については、いつぞや、メッセージ(説教)の中でかるぅ~~く言っただけなのに、幹事の方は、「お富さん」を深くインプットしてしまったのですね。

私だったら曲が決まった時点で「ちょっとぉ~~コレ違くネ?」と異議を申し立てると思うんだが、
聖歌隊の方たちは、ナゼそれをしなかったのか、、大変知りたいな…と思ったところ、
SYOさんによると、ホントに聖歌隊は、この曲を先生が一番好きなのだと信じて真剣に練習したらしい、、、


でも私は実は「お富さん」は大好きなのです。イチバンじゃないけど。私も何度も歌いました。
この壮絶な人生を生きてきた二人の再会の場面(歌舞伎)を、このように軽ぅぅ~~く歌い上げる…というのが、私にとっては、めっちゃ「タイプ」なのであります。
人生、ここまで極めると、あらゆる重荷から解き放たれ、軽~く、澄んだ境地に到達できるもんなのかなあ…
そうであってほしいなあ… という憧れが私にはございます。

そういう思いを会衆みんなで分かち合ってみんなで教会で「お富さん」の大合唱をやるってのも素敵だけど、
ゼッタイムリだろうな~~~~





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「使徒の働き」より

2019-10-09 | キリスト教のこと



「執筆中のパウロ」ヴァランダー・ド・ブーローニュ もしくは ニコラ・トゥルニエ による1620年頃の作品




日曜日はは教会の行事の途中から突然体調が悪くなり、夕方から朝までベッドで寝て過ごした。
動悸と吐き気で七転八倒。

私は人生途中からクリスチャンです。

音楽パートナーSYOさんと8月に入籍も致しましたので、
SYOさんの教会である「新生教会」の礼拝に一緒に通っています。それだけが唯一変わったことで、あとは何も変わってません。

しかし私は、自分の教会での音楽の奉仕は相変わらずやっています。
奏楽の当番や、ワーシップバンドでの礼拝。それらの日には、自分の母教会(シオン教会)の礼拝に行きます。

普通、夫婦は同じ教会に礼拝に行くのが当然だけど、以前、私の教会の前任の牧師先生から「このような例外もある」というお話を伺ったことがありました。
それはまあ、、、平たくいったら「水が合わない」教義に違和感がある…などなどです。
私はその時、「音楽奉仕的例外もある」と考えました。SYOさんも私もそれぞれの教会において音楽奉仕的にはリーダーなんだからと、、、
バンドではいつも一緒にやってるんだから、教会はそれぞれでよいだろうと、、、


しかし私も、さすがにSYOさんの教会の牧師先生に入籍のご報告をしたとき、「私はこれからもずっとシオン教会に通います」とは言えなかったな~~
「半年の猶予をください。それまでに、シオン教会のワーシップチームの今後を整えようと思います。」
しかしこれも違うな。今後のことは、神さまにお委ね…です。

そして、まだ正式な転籍はしていないけど、SYOさんと一緒に礼拝に行き始めて、そこでものすごく平安を感じました。
やはり、教会が変わると、礼拝でもいろいろと違っているところがあります。違和感も多少はあります。
でも、夫婦で一緒に礼拝に行くことに、こんなに平安を感じるのかと、、、
新生教会の礼拝は、お祈りの時間が長い。
お祈りの奉仕者の方、みなさんめっちゃ流暢で、どぉやったらこんなお祈りが澱みなく言葉になるのか、、、、

まあ私も自分のLIVEをやるようになってから四半世紀。
最初はMCの原稿書きまくってたからなあ、まああと20ねんもすればお祈りもMCのようにすらすらと言いたいこと満載で長々となるのか\(^o^)/


さてさて。

またまたイントロが長っが~~~~くなってしまったけど、今日は「使徒の働き」を夕方から一晩中聴いたことについて書きたかったのです。







ここでまた、先日、教会の途中で体調が悪くなったところに戻る。
途中から動悸がして、とても苦しくなった。

それで家に帰って、ベッドに横になったまま、何もできないので、いつも聴講している中川健一牧師「ハーベストタイム;使徒の働き」の、これまでの続きを聴きました。
1編1時間。
朝まで7編ぐらい聞いたなーー。朦朧としたり、覚醒したりしながら、、、

「使徒の働き」というのは、新約聖書の中で、イエス・キリストが十字架につけられて死んで葬られて、3日後に甦って、数十日の間、弟子たちに現れて、それから天に昇ったあと、使途たちが伝道の旅に出かけるという章です。「この人こそが救い主キリスト」と伝えようとするけど、そんなにすんなりはいかず、迫害に逢いながらも、イエスの死と復活を生きた証人として伝えるために命懸けで旅をします。


その中で、私がものすごく感動した場面をひとつ。

使徒の働き(59)―ピリピでの伝道(3)―




「パウロ」と「シラス」の使徒の2人が伝道の旅の途中、理不尽に訴えられ、裁判にもかけられず、広場でめっちゃ鞭打たれていちばん暗い奥の牢に投獄された。2人は真夜中に祈りながら賛美の歌を歌った。中川牧師の解釈によれば、2人はあまりの痛み眠れず、魂を神にシフトするため…とのことで、私もそう思う。私もそうすると思う。
すると、牢の他の囚人たちも、その歌に聞き入っていた。

すると突然激しい地震が起こり、牢のドアの鍵が全部開き、足枷も外れた。
眠っていた看守は地震に驚いて起きたが、囚人たちは逃げ、これは必ず自分の責任になって処刑されると思い、短剣で自害しようとした。
するとパウロが「自害してはいけない、私たちはみなここにいる」と言った。

看守は、パウロとシラスの前にひれ伏した。

「救われるためには、何をしなければなりませんか?」

…これは、人生の最も根本的で究極的な質問だと思います。こころが震えました。

賛美のうた→囚人が聞き入る→地震で牢が開く→看守が自害しようとする→救われたい

この場面でこのような展開になることが、もぉあまりにもスゴすぎました。だってコレは、叙事詩ではなく、事実なのであります。

私は中学生のときに初めて聖書を読んでから、長い間この書物は壮大な「叙事詩」なのだと思ってきました。
私にとって、聖書というものは何十年もの間、大変モノクロームな世界と感じていたのですが、全然そーぢゃなかった!
あまりにもリアルだし、どこを読んでも、すべての人々が生き生きと生きてる。
むしろサイケデリック!!
わくわくしまくるのです。

「救われるためには何をしなければなりませんか?」

ここで、

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも、あなたの家族も救われます。」(使徒16:31)

とパウロとシラスが語ります。これは大変有名な聖句です。
しかし、自分がイエスを信じたら、自動的に家族も救われるのではないのです。
看守は、パウロとシラスを牢獄からいったん外に出して、使用人も含む家族全員を連れてきてパウロたちはそこで主のことばを語るのです。コレ、真夜中。
その後、2人は看守の家にまで招かれ、夜明け前に食事を供され、鞭の傷の手当を受ける…けど、夜が明ける前には牢に戻ります。

その間、開いた牢の囚人たちはどうなっとんじゃ~~!!とか、私としては大変気になるところですが、聖書にはそーゆう事項は記載されていません。



パウロが捕らえられた「とされている」牢獄



しかし、こんなペラいものではなく、もっと牢獄の中は奥深く、中庭もあったり… この画像を見て即座に信じることはできないな。


伝道の旅は次へと進んでいきます。

中川牧師のメッセージはほんとうにいつも映画を見ているように鮮明でわくわくするのです。
私のオススメは以前からも書いているように「創世記」なんですけど、メシアの生涯の、最後の晩餐からキリストが十字架につけられる場面もあまりにもリアルで本当に私もその場にいました。

「聖書」とは、世界の始まりから、世界の終わりまでを記した書物で、その目的は、神の栄光を現したものです。
新約聖書の、特に「書簡」には、多くの教訓が書かれています。「互いに愛し合いなさい」…などなど。
しかし、これらすべてをやるなんて、私にはムリ!! クリスチャンは本当に互いに愛し合ってるのか!?!?
ムリムリムリムリムリムリムリムリムリムリムリムリムリムリムリ

私は大好きな人には大変素直ですが、嫌いとはいわなくても、苦手な人もいるのです。
そういうう人とはそれ相応に心の距離を置き、自分自身のために、自分の気持ちが乱れないようにしている…というのがホントのところ。
あまり近づくと嫌いになりそうだからです。
それでも私は神に愛されているとひたひたと感じる。
なぜなら、


1イエス・キリストは私の罪のために死んだ
2イエス・キリストは死んだ後墓に葬られた
3イエス・キリストは、死んだ後3日目に復活し、現在も生きて働いている

このことを信じているからです。
これは、「福音の三要素」といわれ、これらを心に受け容れた人は、即座に救われます。
そして、いったん救われたら、生涯それを失うことはありません。

「救い」ってナンデスカ? 

…それを自分の言葉で書くのは大変ムズカシです。、また別の機会に、、、、




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創世記が深すぎる

2019-07-13 | キリスト教のこと
  

ベツレヘムのお土産やさんにて「最後の晩餐」の木彫りのおみやげ




先日まで、中川健一牧師の、210回に及ぶ「メシアの生涯」(イエス・キリストの生涯を、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの4つの福音書から時系列で解説したメッセージ)を夜な夜な聴いて、ついに終わりました。
1回1時間。これを定期的に毎日続けたわけではなく、この極端な私ですから、イッキに数回分ってこともあったし、本日は休みってこともたまにあったし。
だから210日はかからなかったなあ,,,

だいたい夜はふつーヨッパなので、途中で寝てしまって、目が覚めるのは夜明け。PCつけっぱで、途中から聴き直すってことも度々ありましたとも。
そして、全部聴講終わって、イエス・キリストとその弟子たち、また王や立法学者や、イエスに敵対する人たちが、これまで聖書を読むだけではなんだかモノクロームであったものが、
ものすごく鮮烈に、カラフルに生き生きと心に蘇った感じ。

どの場面も凄い説得力。以前は洗礼者ヨハネの死について紹介しました。
「サロメ」の物語です。

私は、今回は、特にイエスが捉えられて夜中から朝にかけて裁判にかけられる場面がいかに立法違反で、何度立法違反を犯したか…という点が大変興味深くお勉強になりましたが、
「最後の晩餐」の場面もとっても興味深かった。

なんたって、異民族の食事の場面、いつも興味津々。
三国志のときもそうだったんですけどね!!

でっ、「最後の晩餐」ですが、これは「過ぎ越しの食事」という、ユダヤ人の出エジプトを記念する食事で、メニューも供される順番も決まってる。
それを中川牧師はひとつひとつ解説して、この最中のどの場面でイエスが「この中のひとりが私を裏切る」と言ったのかというところまで言及しているところが、大変大変興味深く、
聖書研究がここまで進んでいるということにも感慨深いものがありました。
それ以前に、「最後の晩餐」というと、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画が世界的に有名ですが、あれは全然違うのです。
ダ・ヴィンチが何故このように描いたのか…ということまでは調べていません。ご存じの方もいらっしゃるかと思いますので、コメントをいただければ幸いです。
「過ぎ越しの食事」とはゆるゆると時間をかけて床に肩肘をついて半分寝そべった状態で食するものだそうです。

ちなみに、とある聖書には「誰が裏切るのか」という弟子の質問に、「私と一緒にパン切れを浸している者」とイエスは答えたと書かれています。
日本語聖書にも、いろんな訳があるのです。
しかし、「パン切れ」という単語はは原典にはなく、これは誤訳で、これは実際はパセリのような青物を塩水の入った鉢に浸したのだとのこと。
これはオードブルのような最初のほうに供されるもので、ユダはここで「サタンが彼の中に入った」とされていて、その場を立ち去り、イエスを売りに出ていきました。
その後、イエスの弟子達への長い長い愛に満ちた最後のメッセージが語られます。

私も「最後の晩餐」に同席させて頂いたような気分になりましたとも♪


さて。
210回にわたる長い長い「メシアの生涯」が終わり、「ぽっかり」してる場合じゃない。さあ、次は何を聴こうかな…

ってことで、「再臨待望盛会」っていうヤツを聴くことにしました。

「再臨」というのは、イエス・キリストが再び降臨するということで、聖書に記されています。誰にでも認識できるかたちで…とのこと。
正直なところ、私はイエスの再臨はクリスチャンとして信じているけれど、自分がこの地上生涯を生きている間には実現しないだろうと思っているので、あまり深く考えないようにしていました。
それよりも、今現在生きているときに私には何ができるかを考えなければと、、、
ヨハネの黙示録や、将来についての預言についてはあまり考え込まない様にしようと。
聖書もまだ通読していません。特に預言書の部分は。


しかし「再臨待望聖会」を聴講してみようと思った理由は、ユダヤ人とアラブ人の牧師がお互いに相手の民族のことを祝福してメッセージを語るのです。
この方たちは、それぞれ、ユダヤ教、イスラム教のコミュニティの中で、キリスト教に回心して牧師になった方たちなのですが、そうすることがどれほどのリスクがあるのか。
それぞれ、家族、コミュニティから追放されます。
それでもイエス・キリストこそがメシアだとの思いで熱く語りまくります。
それぞれご自分ではなく、相手の民族の救いについてです。



私は、ここに生きている今、缶チューハイも飲むし、ウマイうどんやカリーは食べたい。
でも、私に何ができるのかはこれからも模索したいな。

世は終わりまで神の支配と計画に従っていくのだ。「創世記」から「黙示録」まで。
それほどまでに神は絶対的な愛と義の存在なのだと思います。




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「サロメ」の物語と史実

2019-03-12 | キリスト教のこと



オーブリー・ビアズリーによるイラストレーション(1894) Wikipediaより




「サロメ」ってご存じでしょうか? 


音楽・アート関係の方なら、戯曲やオペラなど、一度は触れたことがあるのでは?
私も20代の頃、このオペラを観ました。
最後に、銀の皿に乗った「ヨハネ」の首が出てきて、少女サロメがそれにキスをするという衝撃的なシーン。

もうずいぶん前からですが私、中川健一氏(牧師)の「ハーベストタイム」にハマりまくってます。
創世記、出エジプト記、ローマ人への手紙、ヘブル人への手紙、黙示録…などど、ランダムに聴いてきて、今は「メシアの生涯」
イエス・キリストの生涯を、4つの福音書から時系列に並べて解説したものです。
全部で210編もあり、すごい量です。

めっちゃ長くて、やっと80回目ぐらいまで到達しました。
そして、先日は、「預言者ヨハネの死」の場面でありました。
聖書には、「サロメ」という少女の名前は出てこなくて、この箇所の主人公は国主ヘロデ・アンティパス。
その妻ヘロデヤの連れ子が少女サロメ。


サロメが、国主ヘロデの誕生日の宴で踊り、褒美として預言者ヨハネの首を所望したというシーンを、
「今日は映画の場面を見ているように語ります」と、中川氏は、聖書的観点から語られています。


戯曲やオペラでは、サロメはヨハネに恋をしていたけど、ヨハネは拒絶し続けていたってことになってるけど、聖書にはそのような記述はありません。
しかし、聖書に書かれていることは史実であり、その登場人物同士の人間関係や個人的な葛藤は、深すぎて、私が字面だけ追っていても到達できない、、、




モード・アラン演じるサロメ(1906-1910頃) Wikipediaより



まあ、とにかく、この「サロメ」の物語の「ホントのホント」のこと、ゼヒ聴いてみてね。
クリスチャンでない方にも、「へぇ~~っっ」と、大変興味深く、大変わかりやすく、大変な迫力で、戯曲「サロメ」とその周辺の真実がおわかりいただけます。



そして次のオススメは「創世記」です。

もぉ~~聖書では数行から1ページにも満たない箇所が、中川氏はすべてものすごく生き生きと語られて、
めっっっっちゃ面白いのであります。
…って、なんだか不謹慎な書き方ですが。ホントにハマりまくっとります。



ハマればとことんハマりまくる私でありまして、
少し前には三国志にハマり、90数編に及ぶDVDを3回繰り返しましたが、
中川氏のハーベストタイムは、これを遥かに上回り数百編に及ぶのですが、全部聴講し終われば、また最初から、死ぬまで繰り返すつもり。

特に「創世記」は、神の天地創造、天使の堕落、人の罪、信仰心と欲望、、、などとこのように書くと小難しいようなことが、登場人物がものすごく生き生きとして、天衣無縫に展開しているように感じられます。
でもそれはすべて神の計画…とも感じます。

聖書解釈にはものすごくいろんな派閥?があるようで、不勉強な私には、拙ブログの記事でご案内することができません。「ようせん」のです。


自分の所属する教会員としてでなく、私個人として書かせていただいています。


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