この記事をアップするかどうか、かなり迷いました。これまで私が学校関係の記事で書いてきたことは、いつも「義務教育への疑問」へと向っていくのですが、「疑問」は純粋に「疑問」であって、今のところ、反発や否定ではありません。それより、「義務教育」に携わる人、個人に対するものでは、決してありません。ここに訪れて下さる方は、教育関係に携わる方がとても多いので、反論もあるかと思います。「義務教育」とご自分で考える「教育」についても、いろんなズレを感じたことのある方もいらっしゃるのでは…と思います。そんなところも含めて、いろんな方にコメントをいただけたらと思って、アップに踏み切りました。(って、そんな大袈裟じゃないんだけどね(=^‥^A)
今日はTakの学校の授業参観。昔でいう「父親参観」ってやつらしい。
科目は、道徳と算数。
幼児から学童になって2ヵ月余りの子供達のクラスの様子は、私にはなんだか「混沌」としているように感じました。
授業がうまくいっていると思えなかった。
別のクラスのLin(=Takの従兄弟)ママも同じことを感じたとのことでした。
先生の問いかけに対して、反応にあまりにも差があって、反応の早い子供は、さっさと言われたことをやる。反応の遅い子供に先生が1人ずつ対応しているうちに、先に出来た子は、退屈して遊びはじめる。
ひぇ~~大変だ~\(@o@)/
わが子の態度を見て、思わず「ぐー」を握りしめた…ってのは、授業参観について話しをした全ての母に共通だったってことなので、今回は割愛いたします。
「最近の子供は、幼児期を引きずって学校に来ているので、号令が行き届かない、統制がとれない、だから授業が進まない」
というのをまのあたりに見ました。
「ぞろぞろ」した感じ。
子供達にはものすごい個人差があります。
私は、「某大学附属小学校生」だったので、公立の小学校の経験がありません。
「附属小学校」の先生は、授業がやりやすかっただろうな~~。だって、子供も篩にかけて選別されてるし、親も、全員「教育ママ」です。授業参観にはぴしっと装って来るのです。ほぼ全員が同じ方向を向いて、足並みを揃えていけるのです。
公立は全く違う。
親の方針も、子供の個性も、全く不揃いな子供達が集まってくる。
けれど
「最近の子供は、幼児期を引きずって学校に来ているので、号令が行き届かない、統制がとれない、だから授業が進まない」
これは違うと私は感じました。
幼児教育を義務化することによって、この溝を埋めようという方向に向っているようですが、これも違うと思いました。
私は、逆に小学校低学年を受け持つ教員が、幼児教育の勉強もするべきなのではないかと思いました。
「幼児教育のことは、私もわからない」と、Takの担任の先生は正直に仰ていましたが、コレって、「わからない」でいいんだろうか?「引き継ぎ」の重要な時期です。バトンを渡す側と渡される側の責任。どちらも同等であるべきなのでは。
6才の4月に全員がきっちり切り替わることを求めるほうがムリがあるのは、普通に考えてもわかること。
以前から、Takが6年間通った保育園のことは何度も書いてきました。保育参観についても書きました。
保育園なので、私立といっても、選別されて入園しているワケじゃないのです。
親の方針も、子供の個性も「不揃い」なのです。
それが、一丸となった園の「熱意」で、「集中できるこどもたち」を育ててくれたんだという思いがあります。
「集中力」って、いろんな能力を高めていくのに、根幹となるとっても大事なものだと思う。そしてそれは、ものを習ったり学んだりすることと常にかかわり続けていくことなので、教師が「どうやって」教えるかということは、何を教えるかと同等、もしかしたらそれ以上に重要なことなのでは。幼児からの移行期だけではなくて、学校教育の全期間、さらには、塾も、スイミングも音楽教室も、「教える」ことに携わるということは、生徒の「集中力」と、能力の向上、上達にはいつも注意を払い、結果にも責任を持つべきだと思います。
これは「教師の裁量」。
書くのは簡単。でも、実際にはとっても大変だ!!
「親教育」。これもこのところよく言われます。
私のように、自分から先生のところに出向いていって「親教育」をお願い?するような親はあまりいないだろうからなー。いやもちろん冗談。
でも、そうでなくても、Takの先生はこれまでに何度か家に電話を下さいました。
Takが学校で腹痛などの、身体の不調を訴えたときです。そんな時に、「この先生はちゃんと息子のことを気にとめてくれている。信頼してお任せできる…と思うのが親心というもの。
それだけで、何かあったときに、先生の仰ることに耳を傾けようという姿勢になれるってもんです。
(正直いって、私は今、「義務教育って、こんなもんなの?」と疑問を持ちながら、それは担任の先生個人に向っているのではない…という、ちょっとへんてこりんな心境なのです。)
「親教育」以前に、まずは学校と家庭のコミュニケーションかも。
近年、オトナでさえコミュニケーションの不得手な人がものすごく増えてきました~~
(すんまそ。hawkさんファンの私としては、ついついこんなのがアタマを過る)
「コミュニケーション=対話」
これは、家庭の担う役割だと思います。これは大前提、大原則だと思う。
人間は対話の中で心が成長していく。
家庭の中でこの部分が欠落してしまったら、学校ではここをフォローすることはできないと思います。
コミュニケーションのできない人を「大人」とは私は思いません。ACってヤツでしょう。
「学校」と「家庭」。それぞれの役割分担がある。
家庭が土台で、その上に学校教育が乗っかっているような構図とも考えられるけど、子供の時間の流れとしては、毎日子供は学校と家庭を往復して、学校から家庭、家庭から学校と、日々バトンの受け渡しがされている。
「家庭での躾けができていないので、この生徒は伸びない」
「親の言うことはきかないので、先生から言ってください」
などなど、なるべくこの子供に係る自分の責任を軽くしたい…「ラクしたい」という思いが、大半の親や教育従事者にあるのでは…
私も「ラク」したいよ、ホント。
しかし、「ラク」することは「責任転嫁」と違う。
自分の責任の領域を、いかに効率よく、ストレスを溜めずにやるかってことだよ。コレって「裁量」「センス」ってことでしょ??
親として、教師として、それぞれの立場で、「センス」を磨こうじゃありませんか。
だけど、どんなに効率良く…といっても、やっぱり、「ラク」じゃないよ、人間を育てるってことは。半端にはできない。
でも「楽しむ」ってのはアリなんじゃないでしょうか?
「楽しめる」ってことこそ「裁量」であり「センス」なのでは?
まだまだまだまだ、たくさん書いたのですが、たくさん削除しました。
なので、具体的なことが殆ど削除されてしまいました。またそんなことは、TAKAMI家の日常として、折々書いていきます。
とりとめなくなってきたので、とりあえず今日のところはこんなんで、いかがでしょうか、みなさん?
今日はTakの学校の授業参観。昔でいう「父親参観」ってやつらしい。
科目は、道徳と算数。
幼児から学童になって2ヵ月余りの子供達のクラスの様子は、私にはなんだか「混沌」としているように感じました。
授業がうまくいっていると思えなかった。
別のクラスのLin(=Takの従兄弟)ママも同じことを感じたとのことでした。
先生の問いかけに対して、反応にあまりにも差があって、反応の早い子供は、さっさと言われたことをやる。反応の遅い子供に先生が1人ずつ対応しているうちに、先に出来た子は、退屈して遊びはじめる。
ひぇ~~大変だ~\(@o@)/
わが子の態度を見て、思わず「ぐー」を握りしめた…ってのは、授業参観について話しをした全ての母に共通だったってことなので、今回は割愛いたします。
「最近の子供は、幼児期を引きずって学校に来ているので、号令が行き届かない、統制がとれない、だから授業が進まない」
というのをまのあたりに見ました。
「ぞろぞろ」した感じ。
子供達にはものすごい個人差があります。
私は、「某大学附属小学校生」だったので、公立の小学校の経験がありません。
「附属小学校」の先生は、授業がやりやすかっただろうな~~。だって、子供も篩にかけて選別されてるし、親も、全員「教育ママ」です。授業参観にはぴしっと装って来るのです。ほぼ全員が同じ方向を向いて、足並みを揃えていけるのです。
公立は全く違う。
親の方針も、子供の個性も、全く不揃いな子供達が集まってくる。
けれど
「最近の子供は、幼児期を引きずって学校に来ているので、号令が行き届かない、統制がとれない、だから授業が進まない」
これは違うと私は感じました。
幼児教育を義務化することによって、この溝を埋めようという方向に向っているようですが、これも違うと思いました。
私は、逆に小学校低学年を受け持つ教員が、幼児教育の勉強もするべきなのではないかと思いました。
「幼児教育のことは、私もわからない」と、Takの担任の先生は正直に仰ていましたが、コレって、「わからない」でいいんだろうか?「引き継ぎ」の重要な時期です。バトンを渡す側と渡される側の責任。どちらも同等であるべきなのでは。
6才の4月に全員がきっちり切り替わることを求めるほうがムリがあるのは、普通に考えてもわかること。
以前から、Takが6年間通った保育園のことは何度も書いてきました。保育参観についても書きました。
保育園なので、私立といっても、選別されて入園しているワケじゃないのです。
親の方針も、子供の個性も「不揃い」なのです。
それが、一丸となった園の「熱意」で、「集中できるこどもたち」を育ててくれたんだという思いがあります。
「集中力」って、いろんな能力を高めていくのに、根幹となるとっても大事なものだと思う。そしてそれは、ものを習ったり学んだりすることと常にかかわり続けていくことなので、教師が「どうやって」教えるかということは、何を教えるかと同等、もしかしたらそれ以上に重要なことなのでは。幼児からの移行期だけではなくて、学校教育の全期間、さらには、塾も、スイミングも音楽教室も、「教える」ことに携わるということは、生徒の「集中力」と、能力の向上、上達にはいつも注意を払い、結果にも責任を持つべきだと思います。
これは「教師の裁量」。
書くのは簡単。でも、実際にはとっても大変だ!!
「親教育」。これもこのところよく言われます。
私のように、自分から先生のところに出向いていって「親教育」をお願い?するような親はあまりいないだろうからなー。いやもちろん冗談。
でも、そうでなくても、Takの先生はこれまでに何度か家に電話を下さいました。
Takが学校で腹痛などの、身体の不調を訴えたときです。そんな時に、「この先生はちゃんと息子のことを気にとめてくれている。信頼してお任せできる…と思うのが親心というもの。
それだけで、何かあったときに、先生の仰ることに耳を傾けようという姿勢になれるってもんです。
(正直いって、私は今、「義務教育って、こんなもんなの?」と疑問を持ちながら、それは担任の先生個人に向っているのではない…という、ちょっとへんてこりんな心境なのです。)
「親教育」以前に、まずは学校と家庭のコミュニケーションかも。
近年、オトナでさえコミュニケーションの不得手な人がものすごく増えてきました~~
(すんまそ。hawkさんファンの私としては、ついついこんなのがアタマを過る)
「コミュニケーション=対話」
これは、家庭の担う役割だと思います。これは大前提、大原則だと思う。
人間は対話の中で心が成長していく。
家庭の中でこの部分が欠落してしまったら、学校ではここをフォローすることはできないと思います。
コミュニケーションのできない人を「大人」とは私は思いません。ACってヤツでしょう。
「学校」と「家庭」。それぞれの役割分担がある。
家庭が土台で、その上に学校教育が乗っかっているような構図とも考えられるけど、子供の時間の流れとしては、毎日子供は学校と家庭を往復して、学校から家庭、家庭から学校と、日々バトンの受け渡しがされている。
「家庭での躾けができていないので、この生徒は伸びない」
「親の言うことはきかないので、先生から言ってください」
などなど、なるべくこの子供に係る自分の責任を軽くしたい…「ラクしたい」という思いが、大半の親や教育従事者にあるのでは…
私も「ラク」したいよ、ホント。
しかし、「ラク」することは「責任転嫁」と違う。
自分の責任の領域を、いかに効率よく、ストレスを溜めずにやるかってことだよ。コレって「裁量」「センス」ってことでしょ??
親として、教師として、それぞれの立場で、「センス」を磨こうじゃありませんか。
だけど、どんなに効率良く…といっても、やっぱり、「ラク」じゃないよ、人間を育てるってことは。半端にはできない。
でも「楽しむ」ってのはアリなんじゃないでしょうか?
「楽しめる」ってことこそ「裁量」であり「センス」なのでは?
まだまだまだまだ、たくさん書いたのですが、たくさん削除しました。
なので、具体的なことが殆ど削除されてしまいました。またそんなことは、TAKAMI家の日常として、折々書いていきます。
とりとめなくなってきたので、とりあえず今日のところはこんなんで、いかがでしょうか、みなさん?