この文章は、仕事を休職して、暇になってから書いては修正…をずるずると繰り返していたのですが、そろそろアップしようかと、、、
骨折休職の暇にまかせて、去年の今頃の日記など読み返していたら、本当につい昨日のことのように、いろんな思い出が溢れだしてきた。
特に、父とのこと、続いて亡くなったヴォーカルの生徒さんの鈴木さんのこと、
昨年末は、ほんとうに怒涛の日々で、揺さぶられまくる心を、ブログに書いて吐き出すことで平衡を保っていたような感じだったなあ。
そして、一連のこと(特に鈴木さんのことに関して)の終わりに
「私にはなにも悔いは残っていません。
これからの日々は、思い出は自分の胸のなかに収めて、これから一緒に生きていく私の大切な人たちと、毎日を大切に過ごしていきたいと思います。」
と、書いて締めたことを、自分でもとてもよく覚えています。
でも、父のことについては「悔いはない」のはウソ。…っていうか、当時はそう思っていた…というより、自分でそう思いこもうとしていたんだろうな。
あれっきり胸に収めていた怒涛の日々を今日は解禁にして、語らせてください。
この日の日記の続きです。
その時、書かなかったことが大きく2つあります。
その1
鈴木さんが危篤に陥って、ご親族の方が見えたとき、葬儀はどうするのかという話になりました。
ご親族と、ダイニングで会談をしていたら、看護師さんが別室を用意して下さいました。
他の患者さんやご家族たちへの配慮でしょう。
私は、ご親族の方々から、彼はどれくらいお金を持っているのでしょうか…などと聞かれたが、そんなことは全く知らない。
2日前、自分の命が終わるのがまもなくだと感じた彼は、「棺桶を買うお金を下ろさねば」というので、病院のATMに車椅子で預金の引き出しに付き合ったけど、実際に引き出した金額は知らない。
肝心?のところは敢えて見なかった。お財布に収めているのは万札がぱらぱら…と、数枚程度に見えた。
その通りのことをお話しし、また、彼は洗礼を受けて、教会での葬儀を希望されているとの書面があるので、それを親族の方にお見せした。
その書面は、鈴木さんの最後の力を振り絞ったサインがされている。
案の定、親族の方は困惑していた。
私は、彼に洗礼を勧めた立場なのだけれど、キリスト式葬儀希望の書面にこのような状態でサインすることには、
なんとなく「宗教の勧誘」の行き過ぎと周囲から反感を持たれるのではと思って、気がかりながらも立ち入らずにいた。
実際、私は彼のこころの平安を願っていたのであって、亡くなったあとのお葬式は、どうでもいい気がしていた。
鈴木さんは、もう痛くて苦しくて弱りきっていて、本人が書くのはムリだというものを、お友達二人が、「これは本人の最後の意志なのだから」と、
手を添えてあげたりなどして、ようやく読めるほどの弱々しいものだが、何とか書き上げたのだった。
亡くなる前日、洗礼式の後のこと。
私は、鈴木さんの洗礼式の前に、牧師先生と、「彼にはお金がないようだし、ご親族もいないようです。その場合葬儀はどうなるのでしょうか?」と聞いた。
(親族は実はいたのけど、ずっと絶縁状態で、病院から彼が危篤との連絡を受けてようやく現れ、私にあとのことを任せて帰っていった)
先生は、そんな場合は、教会の献金で葬儀を行いますと仰った。
それにしても、本当に、鈴木さんの最期が迫っているとき、誰もキリスト式の葬儀については、何をどうしていいかわからず、私から牧師先生に連絡してみることになった。
先生は、差し支えなければ、いろいろご説明に今すぐにでも病院に伺いますとのことで、ご親族もそれを望まれたけれど、病院側で、フロアーの看護師長が、
「病院で葬儀の話をするとは不謹慎。まだ生きておられるのに、牧師を呼ぶとは強く違和感を感じます」
と、語気を強めて仰って、受け入れていただけなかった。
仏教のお坊さんと違って、キリスト教では、本来、牧師は臨終にも立会い、信者が安らかに天へ召されるようにと祈る。
それで、牧師先生も、危篤となった鈴木さんのところに出向いて祈り、親族に会われて今後のことを説明されるのは、キリスト教の死生観においては全く自然なことであり、
クリスチャンを多く看取ったり、見識ある病院であれば、常識的に受け入れられているらしいけれど、
ここの病院では、この対応からするとそういう例は殆どないらしい。
この時、私は、「まだ生きておられるのに葬儀の話とは不謹慎」仰った看護婦長の言葉を聞きながら、
それは、個人の死生観、宗教観。この方は語気を強めて仰ったけれど、看護、介護という立場から、この患者に対してあなたはどれほどのことをしてきたのかと、心の深ーーいところで憤りを感じました。
「アンタ、ほな、この人に対してこれまでどうやって接してきたの?
殆ど放置やろ、義務感やろ、どーせもうすぐ死ぬし、生活保護世帯で医療費タダやし、死んで悲しむ人もあまりおらんようやしと思って、ゾンザイに扱ってきたやろ。」
私は、鈴木さんを見舞うたびに、肌でひりひりとそれを感じた。私だけじゃない。
10日前にこの病院で父を見送った私には、正直「差別」と感じました。
病院が患者を差別しているはずはなく、人の心が故意か、あるいは無意識にしていることと……
鈴木さんに「さらに強い薬」が投与された後のことは、私は立ち会っていなかったので、
この先は書きませんが、
もう彼は、死を超えて、その先への希望を握り締めて旅立っていったのだから、その後、どんな浅ましいことや、醜いことがあったとしても、彼には関係なく、
私は彼の魂は真っ直ぐに神さまの御許へと帰っていったことを信じます。
「信じる」だけです。
その2
鈴木さんの亡骸は、牧師先生が手配された葬儀社の車で、教会へ運ばれました。
親族の方が2人ほどだったか、一緒に行って、葬儀の打ち合わせをするとのことで、私も親族と教会を結ぶただ1人の者として、同行したほうがよかったのだろうと思います。
でも、この日は、実はSYOさんのお誕生日だったのです。
長い長い1日の終わりに、やっぱり、この日のうちに、SYOさんのお誕生日のお祝いをしてあげたい。
鈴木さんは、もう天国、神さまの御もとです。
あの日の私は、自分には生きていく体力があることを本当に実感し、感謝し、
今は仕事ができず職場にも迷惑をかけ、収入がなくても、「あとで取り戻せる」と思いました。
私は精一杯やった。
さあ、これからは、Takとの生活(生計)、日常にシフトだ。
「これから一緒に生きていく私の大事な人たちとの毎日を大切に」
それは心の底からの想いなのでありました。
教会へと向かう鈴木さんを乗せた車をお見送りしてから、私は家に帰りました。
夕方に病院からいったん戻った時、Takは公文にいっていなかったけれど、その後帰ってきたTakにtelで鈴木さんが亡くなったことを伝え、ひととおりのことが終わったら、SYOさんちでパーティーやろうと言ってありました。
Takは、家で夕飯も抜きで、私の帰りを待っていました。
長い間放ったらかしだったTakをピックアップして、オードブルやおでんなどなど、コンビニやスーパーの残り物を調達して、SYOさんの家に向かいました。
あまりにも長い1日だったので、Takとも、なんだかものすごく久々に会ったような気がしました。
実際、Takと向き合うのも本当に久しぶりだったかも。
Takには最初から鈴木さんの病気のこともすべて伝えていましたが、
10日前にじーちゃんを亡くしたばかりで、あまりにも重過ぎるので、細かいことは言わずに、毎日、今日も鈴木さんのお見舞いにいかなきゃいけない…とだけ伝えていました。
でも、これで、すべて終わった。
SYOさんの家で、3人で宴が開始となったのは夜10過ぎだったかなあ…
ピアノで「Happy Birthday」を弾いて、Takと一緒に歌って乾杯してお祝いしました。
話題はやはり鈴木さんのこと、本日の報告や、私にはさっぱりわからない初めてのキリスト教の葬儀のことなどだったと記憶してますが、どんより感はなく、飲んで、たくさんピアノを弾いて歌って、明るく楽しく過ごしました。
解き放たれた宴でした♪♪
「鈴木さん、あろうことかSYOさんのお誕生日に死ぬなんて、私にずっと忘れないでと言いたかったんだよね、きっと」
忘れないよ。鈴木さん♪
さて。もうすぐ父の一周忌。
父は今、どこで何をしているのでしょうか?
これは、本当に、いつもいつも、考えても仕方がないのだけど、心の中を巡っています。
キリスト教と浄土真宗で、死後に行く世界が違うなどとは、私は全く思えません。
この件はまたいずれ改めて…