教会の礼拝に行きました。
牧師先生の宣教では、この1年間の東日本大震災のボランティア活動の報告、最近のボランティア活動に同行した大学生の女の子の「証し(体験発表のようなもの)」、
会衆による、祈りの歌…などの時が持たれました。
先生は、これまでに何度も被災地を訪れていらっしゃいますが、最近では、その働きは被災地の瓦礫の処理や、支援物資の整理や配分のお手伝いなどから、
仮設住宅に住む人々の心のケアへと、活動の内容も移り変わってきているとのことでした。
集会所に集まった人々とともに、恐らくそこでも先生はギターを弾いて、
「教会」とは関係ないフォークや、演歌、懐メロ、日本のうたなど、被災者の方たちと一緒に歌いまくってきたと仰っていました。
仮設住宅で暮らす被災者の方たちは、当然ですが、今でもナーバスで、心の内にあるやりきれない思いを吐き出したい、何かにぶつけたい、声に出して歌いたい、話を聞き続けてほしい…
先生は、そういう空気を肌で強く感じたとのことでした。
礼拝では賛美歌を歌うものですが、
この日は、賛美歌のほかに、被災者の方たちとともに歌った「バラが咲いた」(マイク真木さん)「花」(夏川りみさん)を、牧師先生のギター伴奏で歌いました。
仮設住宅の集会所で先生が体験されたその空気、被災者の方がたの思いが、そのまま会堂に再現されたようで、
私は心が揺さぶられまくって、涙が溢れ…というより泣きじゃくり、、一瞬も歌えませんでした、、、とほほほ。
今回のボランティア活動で、先生は牧師でありながら、被災地において、「神さま」「イエスさま」「聖書」については、一切語られなかったそうです。
深い心の傷を負った人にこそ「救い」「福音」を伝えたいけれど、あからさまな宗教色は「押し付け」と感じられ、現地が求めていないとのお達しで、
聖書の中にある「福音を大胆に述べ伝える」伝道活動はできないのだと、残念そうに仰っていました。
でも、どうだろう、、、、
「大胆に語り伝える」という言葉は、礼拝の中でも良く用いられます。
でも、聖書の言葉を引用して、ダイレクトに語ることだけが「大胆」なのだろうか?
神さまに仕える牧師が、神さまのことを一言も語らず、被災者の心に寄り添って、演歌や
懐メロを、一緒に歌い続ける。
被災者の方がたの心は、ひとときでも少し緩められ、ほんの少し癒され、
西からやって来た牧師と一緒に輪になって歌った日のことは、やるせない仮設住宅暮らしの思い出の1ページに残り、
いつか、あらためて「聖書」を手に取る日がくるかもしれないし、別の誰かに声をかけられて、教会へ足を運ぶ時がくるかもしれない。
夜、Takと一緒に、「大草原の小さな家」シリーズを観ました。
Takは、このシリーズに最近ハマって、1人でこのドラマを鑑賞してます。
主人公ローラ姉妹と一緒に池で遊んでいた11歳の女の子が溺死してしまい、「娘が死んだのは、ローラが誘い出したせいだ」といって、その子のお母さんが半狂乱になってしまうというストーリー。
牧師先生が、彼女の自宅に、両親を慰めにやってきて、栞を挟んだ聖書を
「この箇所はあなたの慰めになる言葉が書かれているから、いつでも気の向いたときに開いてみて欲しい」
といって、棚の上に置いて行こうとします。
お母さんは、その聖書を、牧師先生に向かって投げつけ、
「聖書が何だ、神さまがなんだ!! 神さまは、真剣に祈っても娘を返してくれなかった」と憤り、すべてを拒絶して部屋に閉じ篭る。
彼女には夫さえもお手上げで、家を出ていってしまったところに、
主人公ローラは、野原で摘んだ花束をあげようと、登校途中寄り道をして、そのお母さんのところにやってくるのですが、
半狂乱になってしまったお母さんは、ローラに娘の幻影を見て、愛と憎しみが交錯し、ローラを地下の食料庫に軟禁してしまう。
そこでローラは三つ編みをほどかれ、亡くなった女の子の服を着せられて、お母さんの言いなりに、娘の代わりをさせられ、彼女に抱かれて
「大好きよ、お母さん、これからはずっと一緒よ、もうどこにも行かない」と言わされ、従います。
娘の12歳のお誕生日に、ケーキにローソクを立てて、2人で一緒に目を閉じて、願い事をしている隙に、地下室から逃げ出して、
追いかけてくるお母さんに、娘のお墓の前で追い詰められ、
「私はローラ、あなたの娘じゃない。あなたの娘はここに眠っています。」
こうして、やっとお母さんは、娘の死を本当に受け入れ、神さまに祈る…という結末でした。
神さまからの慰めの言葉を受け入れる前に、
神さまがいるなら、なぜここまで頑張ってきた自分の、こんなに大切なものを全て奪ってしまうのか…と、絶望や怒りや無力感に襲われ、
もがいてもそこから出られないでいるのが、人間の弱さ、脆さ、ありのままの姿という気がする。
そんな人の絶望の心に寄り添うには……
この日の宣教のタイトルは「祈ってください」でした。
ボランティアは、遠く離れた私たちでもできる。それは祈ること。
時間の制約があって直接被災地に赴けなくても、金銭的余裕がなくて、多くの募金ができなくても、祈ることは誰にでもできる。
天皇陛下の、震災後のお言葉を思い出します。
「国民1人びとりが 被災した各地域の上にこれからも長く心をよせ
被災者とともにそれぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていくことを 心より願っています」
陛下はこのように仰いました。
そして、今日の追悼のお言葉も、国民が被災者に心を寄せることを期待して締めくくられました。
「国民皆が被災者に心を寄せ、被災地の状況が改善されていくようたゆみなく努力を続けていくよう期待しています。
そしてこの大震災の記憶を忘れることなく、子孫に伝え、防災に対する心掛けを育み、安全な国土を目指して進んでいくことが大切と思います。」
宗教色の全くない陛下の追悼のお言葉。
でも、「祈り」とはこういうことではないでしょうか。
「祈ってください」
祈り続けましょう。
私はこの言葉にすごい違和感を感じていたのですが、
最近になって、「絆」ではない、「祈り」なんだと気がつきました。
陛下の言われる「心を寄せる」
これも「祈り」だよね。
”絆”という言葉が被災地の奥の方に受け入れられ
また他人に興味の薄い若い人たち、現代人が
この言葉によって震災を被災者を意識する・・
良い言葉ではと思ってます。
ただ、1年経ってみて 言葉は悪いけど
その時だけのブームになってしまわないよう
意識していかなきゃいけないと思ってます。
その意味では 天皇のお言葉にも意味含まれる
祈り これが人間の根底なんでしょうね。
ただこの震災のあおりを受けて失業した我が家・・
なかなか決まらない仕事・・・
私には今 心を寄せる宗教が必要なのかもと
思うことがあります。
毎日 祈ります
自身が不安定なので変な文でごめんなさい
るようになりました。
何かをお願いするためでもなく、
何かを得ようとするでもなく。
何に祈るのでもなく。
ただただ祈る。無心に祈る。
「唯物論者」失格かな―。
そして辛い状況の時こそ切実に強く祈るので、物事がうまくいかない失望感に尚更打ちのめされるのです。
それでも祈らずにはいられないのが、人間ですね。
神様がいるのかいないのか、私にはわかりません。
いるような気がする時もあれば、失望感と共に、いないように感ずる時もあります。
それでも、自分の周りの人を想って、あるいは世の中の事を想って、そして自分自身のために祈らずにはいられません。
私が感じていること、きっとkaedeちゃんも同じ思いなんだと思います。
嬉しいです。
私は、震災直後の天皇陛下のお言葉の中で、「長く心を寄せ」「見守り続けていく」
といった、継続的に思いを寄せることを望まれていらっしゃることに胸を打たれました。
先日の追悼式典では、さらに子孫に伝え…と。
戦争も災害も、風化させてしまわないように。
復興したら終わりでなく、永遠に。
♪おゆき
私は、物心ついた頃から神さまを信じてます。
宗教を信仰してきたという感じじゃなくね。
理屈じゃなく、感覚なんだよね~~
なので説明のしようもないわ。
「祈り」が人間の根底とは、私も感じます。
世界も、自分も、創られたのだと、普通に自然に思える。
だから自然に「祈る」気持ちになるんじゃないかなあ…
仕事が決まらない焦り、収入のメドがたたない焦り、わかります。
私も大赤字。それも少しずつ膨らんでいってる。
Takの卒業→入学の準備の資金がなくて、
ついに学資保険の「契約者貸付」を利用してしまったよ(^_^;)
「大草原の小さな家」は、おゆきファミリーにもオススメです。
DVD、大長編だけど、今の時間を利用して、みなさんで鑑賞してはいかが?
「宗教」については、
「あなたが今こんなに辛いのは、信仰が足りないからだ
この状態を良くするためには、○○や○○することが必要」
というようなことでは絶対ないと私は感じてます。
おゆきはいつもそのままで素晴らしくて、私の励みだよ。
私も、ヘンな文です。ごめんね(^_^;)
♪higeさん
ちょっと前に、「何も願わない手を合わせる」というタイトルに惹かれて、
藤原新也さんの文庫本を買いました。
これこそが自分にとって「祈り」という気がします。
1年前、津波に家も車も押し流されていく様子をヘリコプターから撮影した映像をリアルタイムで観て、
「神さま…」と手を合わせたあと、言葉がなにも出てきませんでした。
唯物論とは、その究極には何を見出すでしょうか?
原子→素粒子→ミュー粒子、ニュートリノ???
物理は超苦手なのでさっぱりわかりませんが、
物質の本質を突き詰めたところには実は「固体」は何もない、
あるのは「エネルギー」なんじゃないんだろうかと感じます。
♪まゆこちゃん
コメントありがとう。
まゆこちゃんも長い悩み…というか、トンネルの中にあるよね。
いったいいつになったらここを抜け出せるのだろうかと、、、
私も、いったいいつになったら安定して安心して暮らせるのだろうかと思います。
もう、なんだかそんなことは幻想で、この不安定さに慣れてしまって、
願うことそのものが無意味なような気がしてきました(^_^;)
今の暮らしの中から、ガラクタの山のような中から、ぴかぴか、きらきらしたものや、透明なきれいなものを拾い集めて、
「今日はこれだけ集まった」みたいな、、
うまくいってない時は、その他のうまくいってることを見過ごしがちな気がします。
そんなことを大切にしながら、「祈る」気持ちを持ち続けていきたいね。