ピカビア通信

アート、食べ物、音楽、映画、写真などについての雑記。

対オーストラリア

2007年07月22日 | サッカー


前回のアジアカップのPK戦とは違い、今回の勝利は
本物という気がする。
結果は運が左右するから、どうとでも転ぶものだが、
前回は内容が伴わず運だけで勝ったというものだった
だけに、今回の勝利は喜ばしい。
と言っても、オシムと同じで見てなかったが。

こういう状況だと余計に、テレビ朝日は避けたくなる
のだが、しかし、むしろこういう「にぎやかし」の解
説を喜ぶ人はこちらが思っている以上に多いのかもし
れない。
一つの「スポーツ芸能」として楽しむというのは、す
でに定着していることなのかも。
そうでなければ、同じような形で続けるわけが無い。
それなりに視聴率を取れるのだろう。
じっくり見るより、一緒になってテレビの前で冷や冷
やワイワイ、きっとこのスタイルが良いのだろう。
つまり、全てに優先するのは視聴率なのだから、その
絶対的基準が「スポーツ芸能」を作り続ける根拠になっ
ているとしか考えられないのだ。
だからいくらじっくり見たいと思っても、それらは少
数派だから、その意見は全然反映されないということ
になる。

他の番組でも、同じようにこれはひどいなと思うもの
がある。
視聴率が良いから堂々と放送しているが、悪質性から
するとこちらの方が遥かに問題なのではないかと思う
番組。
「にぎやかし」は芸風の違いで済まされるが、たとえ
ば「細木もの」や「オーラの...」などの番組。
番組の中でまるで神のような扱いを受け、本人もその
気でご託宣を発する「細木...」。
テレビでやると、それだけで「客観的事実」として世
の中で認知されてしまうという現実の恐さに対して、
テレビ局はあまりに無責任である。
あの手のものはどんな世の中でも存在するが、表に堂
々と出るべきものではない。
闇にあってこそのものだ。
世の中がそういうものを欲しているなら、なお更慎重
にするべきなのだが、目の前の視聴率欲しさに。

「オーラ...」に関しては、神としての傲慢さは見
えないが、世界を単純化して明瞭なものにすることに
よって、信じた人の迷いが無くなるという意味におい
て有効であることに関しては「占い」と同じで(ちょっ
と分かりにくいか)、それは飽くまでも個人の領域で、
占いと同じく客観的な事実では無いにもかかわらず、
それらしく堂々と放送するのは問題なのだ。
例えば前世。
信じる人のかってだが、全く検証も出来ないことに関
してはっきり言うのは、それだけで胡散臭い。
自分には見える、というのは主観的には見えてるのか
もしれないが、全く客観的には見えないので、言った
もん勝ちの世界だ。
世の中には不思議なことは沢山あるが、それらをある
単純な原理で理解しようとするのは思考の放棄だ。
本当にその単純な原理が確かなものであれば、全てが
それで解決されるのだから、世の中の問題はなくなっ
ているはずだ。
実際それによって救われている人はいるのだろうが、
絶対的原理でもないものをゴールデンで堂々とやるテ
レビ局は、やはり問題だと思う。
「人心を惑わす」という言葉が浮かぶ。
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