ピカビア通信

アート、食べ物、音楽、映画、写真などについての雑記。

コラージュ.オン.コラージュ

2008年12月01日 | 芸術


このところ、同じ画像(正確には、基が同じ)ばかり
続いているが、それは、他の画像がないからというあ
まりに当たり前の理由によるもの。
ちょっとした使い回し状態だ。
寒くなると、どうしても外に出る機会が減る。
田舎の場合、街歩きの楽しみというのは、あまりない。
となれば、山とか川とかそういう自然の場所になるの
だが、そういうところはますます寒いので、結局、こ
の時期になると一気に手持ちの写真が寂しくなること
になる。
軟弱派としては、暖かい室内が良いのである。

そこで、パソコンでは手軽にやっているコラージュを、
たまには手作業でやってみようかという気になる。
パソコンで写真や他の画像を使いの作業は、あまりに
手軽過ぎて、これははたして創作活動か、と思うこと
があるのだ。
写真というのが、そもそも銀塩の化学反応であるの
だから、それがデジタルになったところで本質的な変
わりはないと思うのだが(人それぞれの捉え方がある)
、それを使い更にいじくると、基の写真は一体どんな
意味があるのかと考える時がある。
結局はデジタル信号の色の集合体であるので、基の写
真も単なる素材であると考えれば、なんら疑問はない
が、例えば、撮った写真のみの場合はどうなるだろう
か。

デジタル処理で、コントラストや明るさ色を変え、一
つの作品として見たのと、撮る時に、絞りやシャッター
スピードを変えある効果を狙ったフィルムの写真は、
果たして違うのか。
フィルムの場合は、自然のままと言われるが、人工的
な作業を経ての結果なのだから、決して思われてるほ
ど自然のままではない。
となると、やはり、変わりはない、か?
質感が違うとか、拘り派としてはいろいろ言いたいこ
とがあるだろうが、どっちも人工的なものという点で
は同じ気がする。

と、言いたいことは写真に関してではなかった、コラー
ジュだ。
コラージュの場合は、全てが素材なので、そんなこと
はどうでもいいことである。
最近ではその素材が、かつてプリントしたA-2、A-3の
パソコンで作ったもの。
作った当時は、それ自体で結構良いと思っていたのだ
が、時間が経つにつれ今ひとつということになり、今
度は一素材として活用される(残念ながらそんな作品
から素材に格下げのものが多い)。
これも一種のリサイクルだ。
元々がコラージュなので、結果、コラージュオンコラー
ジュということになる。
デジタルのコラージュが、手作業のコラージュとして
再びコラージュとして出現だ。
どこまで行ってもコラージュだ、と一人ほくそえんで
いるのだが。
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