整理学 忙しさからの解放, 加藤秀俊, 中公新書 13, 1963年
・前出『取材学』の姉妹書。あっと驚く魔法のような整理術を紹介するというよりは、「整理の本質とは何か」という著者の考察が主な内容です。その整理の対象は身近な本棚や仕事机だけでなく、人間、会社、都市にまで及びます。趣旨としては、「整理」から逃げるのではなく、楽しく付き合うことで「忙しさから解放」されよう、ということになるでしょうか。
・紹介されている整理法には、とくに「これを実践してみよう!」という目新しいものはありませんでした。
・「「忙しさからの解放」といっても、ラクな解放感をうけとっていただいては困る。整理は、人間にとっての、楽しい、そして無限の苦役の一つなのだから。」p.3
・「要するに、われわれの生活というものは、朝から晩まで、たがいに関係のないてんでんバラバラなことの連続でなりたっている。ひしめきあっている雑多なもの、まさにその混沌(ケオス)の渦のなかに、われわれ現代人の生命はおかれている。これは、まったくメチャクチャなことではないか。」p.5
・「心は千々に乱れて、おちつかぬ。イライラしながら、しかもしょっちゅうなにかしていなければ気がすまぬ。そして結局、なんにもできない。われわれは、あきらかに、活動過剰なのである。てんでんバラバラな、雑多なものに、おつきあいしすぎている!」p.6
・「では、なぜ、こういうことになったのか。 社会組織における細分化――分業が、ふつうの想像を絶するほどに、進化してしまっているからなのである。」p.8
・「これがわれわれのおかれている客観的事態であるとすれば、錯綜をきわめる連絡の糸をどのようにしておぼえておくかという問題こそ、現代人の基本的な問題であるといって過言ではなかろう。」p.26
・「われわれは、アタマでおぼえておくべきこと、あるいは、記憶の内容を、紙のうえのエンピツの痕跡という「もの」に移しかえることができる。(中略)記憶を「物化」したものを、ふつう「記録」と呼ぶ。」p.34
・「いいかえれば、だれでもが、現代社会では、記録者になりうるわけだ。 これは、文化史的にいえば、大へん新しい事態といえる。ついこのあいだまで、記録のための道具は、こんなに簡単、かつふんだんに手に入らなかったのである。」p.38
・「時と所におうじて記録の必要度を判断している人は、じつに少ない。現代の要求している人間の能力の一つは、まさしくこのような判断力であるはずである。」p.48
・「せっかく記録しておいたのに、それが出てこないというのは、記録したつもりのものが「忘却」されたのと、結果的にはおなじことである。要するに、いかにたんねんにメモをとり、新聞を切りぬいても、それだけでは何の役にも立たない。」p.53
・「われわれに必要なのは、ムダな「さがしもの」でイライラしたり困惑したりしないですむような、記録の「保存」の方法である。」p.54
・「図書館は知識の体系的分類の実験室なのである。」p.62
・「多少乱暴ないいかたかもしれないが、西洋の哲学史というのは、ある意味で、知識の分類学史、あるいは「知識についての知識」の歴史であったようにもみえる。」p.64
・「一枚の紙きれが、なにかのまちがいで、となりの分類項目にまぎれこんでしまったがさいご、もうそれは、なかなか出てこない。分類がゆきとどけばゆきとどくほど、「もとあったところにもどす」ことが至上命令になる。」p.75
・「「整理」というと、きれいサッパリ、キチンと片づいている状態を連想するのは、かならずしもまちがいではないのだが、逆はかならずしも真ではない。きれいサッパリと片づいていることが、すなわち整理ではないのである。」p.84
・「人工頭脳は、まさしく「頭脳」の名にふさわしい。たんに情報を記憶し、再生し、変換するだけでなく、じぶんでじぶんをコントロールする。つまり「考える」のである。」p.95
・「機械にできることを人間がやるのは、しばしば愚かしいことだが、人間にしかできないことを機械に期待するのも、それ以上に愚かしいことというべきである。」p.98
・「じっさい、川喜田二郎がかつて指摘したように、日本の専門的な知的労務者たちは、じぶんでやらないでもいいことをじぶんでやって、要するに「雑用」でおわれているのである。秘書という整理係を使うことを知らなすぎるのである。」p.102
・「近い将来には、クズ屋さんには、われわれのほうからお金を払って、どうぞこれをもっていってください、とたのむようになるにちがいない。」p.112
・「情報は、なんらかのかたちで物理的装置を伝達手段とするけれども、その装置じたいにはなんの意味もありはしない。 「もの」と「こと」とは、しばしば、混同されやすい。」p.121
・「新刊書が10冊出たから古い本を10冊捨てるといったことは、情報の世界では成り立たぬ。すなわち、本棚は「無限」にむかってふくれあがる。」p.125
・「エロ雑誌であろうと、ギリシア哲学であろうと、市場調査の数字であろうと、また流行歌であろうと、要するに、世の中のありとあらゆる種類の情報に、行きあたりばったりに接触しながら展開していくのが、われわれの人生である。」p.126
・「自然界における物理的存在は、生物と無生物とを問わず、有限である。しかるに、情報というものは、この鉄則からはずれている。」p.127
・「人間の知識というものは、ある意味では無限大にちかづくが、べつの意味では無限小にちかづく。」p.129
・「じつは、この「捨てる」、「保存する」ということが、整理一般についての最大問題なのである。 捨てることと保存することとは、同一のことについての裏返しのいい方であるにすぎない。」p.133
・「土地、建造物の整理というのは、物理的・現象的な単純な問題であるにすぎない。すでにその土地、建物の上で独立した代謝系を持っている「人間」の整理こそ、都市整理の本質なのではないか。」p.146
・「混乱、錯綜した現状をどうにかしようとして整理するが、整理したとたんに、さらに整理しきれないものがでてくる。うごいている社会というのは、そういうものである。」p.158
・「整理には決定版がない、のである。あるいは、整理が「完了」するということが、そもそもないのである。それは、永遠につづく一つの「過程」だ。整理できた、と思っても、それはつねに「さしあたりの暫定的整理」であるにすぎない。(中略)ビシッときまった、水ももらさぬ「整理」は、「もの」の整理、「情報」の整理、「人間」の整理、どんな種類の整理についても、絶対にありえない。」p.160
・「情報の動態的整理には、バラせるところまで情報をバラして、独立させておくことが大事なのだ。」p.168
・「「整理」とは、しまいこむということではない。「整理」の結果物は、生きていなければならない。一枚のカード、一枚の伝票、それはわれわれをうごかし、かつわれわれがうごかしている情報世界という大きな有機体の、一つの細胞なのである。」p.171
・「秩序とは、熱力学の第二法則を貫徹させないように妨害することである。ある学者のことばによれば、「第二法則をペテンにかけること」である。それはエントロピーへの対抗勢力であるから、「負のエントロピー」と呼ばれる。熱力学の第二法則の人為的攪乱、それが「秩序」なのである。」p.174
・「日本語の日常語法のなかで、価値をあらわすために「ありがたい」ということばがつかわれるが、ありがたい、というのは、まさしく、ありえないことがある、という確率論的な価値観なのではなかったか。「ありがたい」ということばは、あんがい、価値論の核心とかさなりあっているのかもしれない。」p.177
・「こう考えてくると、「整理」とは、もはや便利な生活技術、というようなものではない。「整理」がゆきとどくことによって、たしかにわれわれの人生は、よりコントロールのきいたものになる。どんな事態にも、パッと対応できるようになる。それは疑いもないことだ。もしも身辺の整理をよくすることによって気持ちと時間とのゆとりができ、そのゆとりのなかで、ふかくものを考えたり、休息したりできるとするならば、整理は、あきらかに、人生と社会にとっての幸福にいたる道である。 だが、それだけではない。われわれのさまざまな整理の一つ一つは、人類の歴史の小さな部分として考えられなければなるまい。」p.182
・「たぶん、この本のむすびにふさわしいことばは、パスカルの『パンセ』にある、つぎの一句であろう。 「たたかいのみがわれわれによろこびをあたえる。勝利が、ではない」」p.183
・前出『取材学』の姉妹書。あっと驚く魔法のような整理術を紹介するというよりは、「整理の本質とは何か」という著者の考察が主な内容です。その整理の対象は身近な本棚や仕事机だけでなく、人間、会社、都市にまで及びます。趣旨としては、「整理」から逃げるのではなく、楽しく付き合うことで「忙しさから解放」されよう、ということになるでしょうか。
・紹介されている整理法には、とくに「これを実践してみよう!」という目新しいものはありませんでした。
・「「忙しさからの解放」といっても、ラクな解放感をうけとっていただいては困る。整理は、人間にとっての、楽しい、そして無限の苦役の一つなのだから。」p.3
・「要するに、われわれの生活というものは、朝から晩まで、たがいに関係のないてんでんバラバラなことの連続でなりたっている。ひしめきあっている雑多なもの、まさにその混沌(ケオス)の渦のなかに、われわれ現代人の生命はおかれている。これは、まったくメチャクチャなことではないか。」p.5
・「心は千々に乱れて、おちつかぬ。イライラしながら、しかもしょっちゅうなにかしていなければ気がすまぬ。そして結局、なんにもできない。われわれは、あきらかに、活動過剰なのである。てんでんバラバラな、雑多なものに、おつきあいしすぎている!」p.6
・「では、なぜ、こういうことになったのか。 社会組織における細分化――分業が、ふつうの想像を絶するほどに、進化してしまっているからなのである。」p.8
・「これがわれわれのおかれている客観的事態であるとすれば、錯綜をきわめる連絡の糸をどのようにしておぼえておくかという問題こそ、現代人の基本的な問題であるといって過言ではなかろう。」p.26
・「われわれは、アタマでおぼえておくべきこと、あるいは、記憶の内容を、紙のうえのエンピツの痕跡という「もの」に移しかえることができる。(中略)記憶を「物化」したものを、ふつう「記録」と呼ぶ。」p.34
・「いいかえれば、だれでもが、現代社会では、記録者になりうるわけだ。 これは、文化史的にいえば、大へん新しい事態といえる。ついこのあいだまで、記録のための道具は、こんなに簡単、かつふんだんに手に入らなかったのである。」p.38
・「時と所におうじて記録の必要度を判断している人は、じつに少ない。現代の要求している人間の能力の一つは、まさしくこのような判断力であるはずである。」p.48
・「せっかく記録しておいたのに、それが出てこないというのは、記録したつもりのものが「忘却」されたのと、結果的にはおなじことである。要するに、いかにたんねんにメモをとり、新聞を切りぬいても、それだけでは何の役にも立たない。」p.53
・「われわれに必要なのは、ムダな「さがしもの」でイライラしたり困惑したりしないですむような、記録の「保存」の方法である。」p.54
・「図書館は知識の体系的分類の実験室なのである。」p.62
・「多少乱暴ないいかたかもしれないが、西洋の哲学史というのは、ある意味で、知識の分類学史、あるいは「知識についての知識」の歴史であったようにもみえる。」p.64
・「一枚の紙きれが、なにかのまちがいで、となりの分類項目にまぎれこんでしまったがさいご、もうそれは、なかなか出てこない。分類がゆきとどけばゆきとどくほど、「もとあったところにもどす」ことが至上命令になる。」p.75
・「「整理」というと、きれいサッパリ、キチンと片づいている状態を連想するのは、かならずしもまちがいではないのだが、逆はかならずしも真ではない。きれいサッパリと片づいていることが、すなわち整理ではないのである。」p.84
・「人工頭脳は、まさしく「頭脳」の名にふさわしい。たんに情報を記憶し、再生し、変換するだけでなく、じぶんでじぶんをコントロールする。つまり「考える」のである。」p.95
・「機械にできることを人間がやるのは、しばしば愚かしいことだが、人間にしかできないことを機械に期待するのも、それ以上に愚かしいことというべきである。」p.98
・「じっさい、川喜田二郎がかつて指摘したように、日本の専門的な知的労務者たちは、じぶんでやらないでもいいことをじぶんでやって、要するに「雑用」でおわれているのである。秘書という整理係を使うことを知らなすぎるのである。」p.102
・「近い将来には、クズ屋さんには、われわれのほうからお金を払って、どうぞこれをもっていってください、とたのむようになるにちがいない。」p.112
・「情報は、なんらかのかたちで物理的装置を伝達手段とするけれども、その装置じたいにはなんの意味もありはしない。 「もの」と「こと」とは、しばしば、混同されやすい。」p.121
・「新刊書が10冊出たから古い本を10冊捨てるといったことは、情報の世界では成り立たぬ。すなわち、本棚は「無限」にむかってふくれあがる。」p.125
・「エロ雑誌であろうと、ギリシア哲学であろうと、市場調査の数字であろうと、また流行歌であろうと、要するに、世の中のありとあらゆる種類の情報に、行きあたりばったりに接触しながら展開していくのが、われわれの人生である。」p.126
・「自然界における物理的存在は、生物と無生物とを問わず、有限である。しかるに、情報というものは、この鉄則からはずれている。」p.127
・「人間の知識というものは、ある意味では無限大にちかづくが、べつの意味では無限小にちかづく。」p.129
・「じつは、この「捨てる」、「保存する」ということが、整理一般についての最大問題なのである。 捨てることと保存することとは、同一のことについての裏返しのいい方であるにすぎない。」p.133
・「土地、建造物の整理というのは、物理的・現象的な単純な問題であるにすぎない。すでにその土地、建物の上で独立した代謝系を持っている「人間」の整理こそ、都市整理の本質なのではないか。」p.146
・「混乱、錯綜した現状をどうにかしようとして整理するが、整理したとたんに、さらに整理しきれないものがでてくる。うごいている社会というのは、そういうものである。」p.158
・「整理には決定版がない、のである。あるいは、整理が「完了」するということが、そもそもないのである。それは、永遠につづく一つの「過程」だ。整理できた、と思っても、それはつねに「さしあたりの暫定的整理」であるにすぎない。(中略)ビシッときまった、水ももらさぬ「整理」は、「もの」の整理、「情報」の整理、「人間」の整理、どんな種類の整理についても、絶対にありえない。」p.160
・「情報の動態的整理には、バラせるところまで情報をバラして、独立させておくことが大事なのだ。」p.168
・「「整理」とは、しまいこむということではない。「整理」の結果物は、生きていなければならない。一枚のカード、一枚の伝票、それはわれわれをうごかし、かつわれわれがうごかしている情報世界という大きな有機体の、一つの細胞なのである。」p.171
・「秩序とは、熱力学の第二法則を貫徹させないように妨害することである。ある学者のことばによれば、「第二法則をペテンにかけること」である。それはエントロピーへの対抗勢力であるから、「負のエントロピー」と呼ばれる。熱力学の第二法則の人為的攪乱、それが「秩序」なのである。」p.174
・「日本語の日常語法のなかで、価値をあらわすために「ありがたい」ということばがつかわれるが、ありがたい、というのは、まさしく、ありえないことがある、という確率論的な価値観なのではなかったか。「ありがたい」ということばは、あんがい、価値論の核心とかさなりあっているのかもしれない。」p.177
・「こう考えてくると、「整理」とは、もはや便利な生活技術、というようなものではない。「整理」がゆきとどくことによって、たしかにわれわれの人生は、よりコントロールのきいたものになる。どんな事態にも、パッと対応できるようになる。それは疑いもないことだ。もしも身辺の整理をよくすることによって気持ちと時間とのゆとりができ、そのゆとりのなかで、ふかくものを考えたり、休息したりできるとするならば、整理は、あきらかに、人生と社会にとっての幸福にいたる道である。 だが、それだけではない。われわれのさまざまな整理の一つ一つは、人類の歴史の小さな部分として考えられなければなるまい。」p.182
・「たぶん、この本のむすびにふさわしいことばは、パスカルの『パンセ』にある、つぎの一句であろう。 「たたかいのみがわれわれによろこびをあたえる。勝利が、ではない」」p.183